選挙公約は、選挙の時の当選するための一つの手段であり、選ぶ人も選ばれる人も軽くそうように考えているとしたら民主主義社会といってもそれは名ばかりのものでしかない。
選ばれて当選した人は、当選後選挙公約に違反してもそれが重大な約束違反とは考えない。まして状況が変化すれば公約に違反してもそれを当然のことと考える。選んだ人もそれに同調し理解を示す。
これに近いことが日本社会ではあたりまえになっている。
旧社会党は党是として消費税に絶対反対であった。ところが自社さ政権で村山富市社会党党首が政権の座につくとそれまでの党是、選挙公約をかなぐり捨て1994年11月に消費税を3%から4%へ引き上げた。
民主党の鳩山由紀夫党首は2008年9月総選挙で消費税率は向こう4年間は上げないと公約し政権交代を実現して首相になった。
が、その後、2010年6月民主党管直人内閣は参議院選で消費税10%を掲げ選挙に惨敗した。
2012年6月民主党野田佳彦内閣は自民党と公明党を巻き込んで消費税を2014年に8%、15年に10%に引き上げる法案を成立させた。
ことほどさように選挙時の公約は軽く扱われている。選挙民もそのことに寛容である。
議会制民主主義では代議員を目指す人は公約を掲げ、国民は自分の意見を反映してくれる代議員に投票しそこに送り込む。
これは代議員と選挙民との契約行為といえる。この契約行為の遵守こそ民主主義のイロハであり出発点である。これなくして真の民主主義社会は成り立たない。
日本人の契約の概念について小室直樹博士は言う。
「日本の学校教育では絶対に教えてくれませんが、近代デモクラシーの大前提は『契約を守る』ということです。
この前提がなければ、いかに立派な議事堂を作っても、あるいは文面上、堂々たる憲法を制定しても、それは底が抜けたザルのようなもの。デモクラシーの形式だけを整えても、そこには肝心のデモクラシー精神は生きていけないことになります。
社会契約の精神がなければ、国家は暴走し放題に暴走する。公約が守られなければ、国会はただの数合わせの場になる。(中略)
『契約とは、言葉によって記された約束である』ということが示す象徴が、企業が取り交わす契約書です。
欧米の契約書には虫眼鏡で拡大してみないかぎり、読めないような小さな字で、ぎっしりさまざまな条項が書き記されています。考え得るあらゆるケースを想定し、『この場合には、こうする』 『このときには、こう対応する』と列挙されている。契約書とは言葉の塊です。
ところが、日本人の場合、いちいち約束事を言葉にするのをひじょうに嫌がる。本当に信頼しあっていたら、言葉にして約束するのはかえって失礼だという感覚があります。
その最たる例が、次のような言葉です。
『俺の目を見ろ、何にも言うな』
『黙って俺について来い』
『悪いようにはしない』
男なら一生に一度くらい、こんなことを言ってみたいもんですなあ。前からそう思っていたが、やっぱり君は一生、国際人になれませんな。
こんな言葉で欧米人に向かって言ってごらんなさい。
『こいつは、頭がおかしいのではないか』と思われること、請け合いです。(小室直樹著集英社「日本人のための憲法原論」)
”日本はアジアに冠たる民主主義国家である” などと、自慢げに言う人もいるが、内実をみればお寒いかぎりだ。
11月18日衆議院を解散するに当たって安倍首相は記者会見で、
「公約に書いていないことを行うべきでない」と言った。
この言葉を言った御本人を含め与野党の政治家が理解し実行することを期待したい。”君子は食言せず”という。