2013年11月25日月曜日

マキャヴェリ 1

 15世紀末から16世紀初頭にかけ活躍したイタリア フィレンツェのニッコロ・マキャヴェリの代表的な政治論文 君主論 には過激とも思えるフレーズがある。
 現代でも、どこかの政治家あるいは野心家がオフレコで発言してもおかしくない。
世の中が平時ならざる時にはかかる思想家の論文は研究に値する。

 「ある国を奪いとるとき、征服者はとうぜんやるべき加害行為を決然としてやることで、しかもそのすべてを一気呵成におこない、日々それを蒸し返さないことだ。さらに、蒸し返さないことで人心を安らかにし、恩義を施して民心を摑まなくてはいけない。
 とにかく臆病風に吹かれたり、誤った助言に従ったりして、逆のことをやってしまうと、その人は必然的に、いつも手から短剣が放せなくなる。
 臣下にしても、新たな危害が間断なくやってくるから、君主に安心感がもてなくなり、君主もそうした臣下を信じるわけにいかなくなる。
 要するに、加害行為は一気にやってしまわなくてはいけない。そうすることで、人にそれほど苦汁をなめさせなければ、それだけ人の憾みを買わずにすむ。
 これに引きかえ、恩恵は、よりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない。」
(マキャヴェリ著 池田廉訳 君主論)

 また現代のわれわれが思わず眉をひそめてしまうようなフレーズもある。

 「そもそも人間は、恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないものだと。(中略)
 たほう、人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を、容赦なく傷つけるものである。
 その理由は、人間はもともと邪まなものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは、自分の利害がからむ機会がやってくれば、たちまち断ち切ってしまう。
 ところが、恐れている人については、処刑の恐怖がつきまとうから、あなたは見離されることがない。ともかく、君主は、たとえ愛されなくてもいいが、人から恨みを受けることなく、しかも恐れられる存在でなければならない。」
(同上)

 マキャベリは、道徳とか宗教など一切無関係に、純粋に君主が如何にして国を統治すべきか,リーダーの条件とはなにかを論じた。
 また人間関係について、上司と部下、移り気な大衆などについて細部にわたり自論を展開した。
 恰もシェークスピアのジュリアス・シーザーとかリチャード三世などの劇を論文にしたかのように。
 君主論は、メディチ家に職を得ようとして書かれたとも言われ、具体的、実用的に書かれている。
 単なる儀礼的な献上書に止まらず、説得力があるのはそのためであろうか。
 現実の彼は、外交官として華々しく成功したと言うわけではなかった。
 否、むしろ運も味方せず失敗のほうが多かったようだ。
 それがかえって彼を著述に向かわせたのかもしれない。
彼は、身近に見た君主たちを通じて、道徳とか宗教とかにとらわれることなく、統治とか政治権力について自ら見聞した事柄に基づき率直に自論を展開した。
 16世紀初頭という時代背景から彼の考えはとうてい受け入れらるるようなものではなかった。

 マキャヴェリ没後、君主論が時をおかずして出版されるとすぐにカトリックの聖職者が非難の声をあげ、1559年ローマ教皇庁は君主論を禁書目録に入れた。
 今日われわれが、いわゆる”マキャヴェリズム”についての冷酷非道という一般的な印象はこの事件が発端でいまだにその印象を引きずっているのかもしれない。
 マキャヴェリとは、一体どのような人物であったのか、君主論の背景とあわせ、彼の素顔にせまりたい。

2013年11月18日月曜日

経済格差 4

 アメリカの六〇年代についてポール・クルーグマン教授は次のように述べている。

 「六〇年代は経済的に見て、これ以上いい時代はなかったといえるほど好景気に恵まれた時代であった。(中略)
 経済は国民全員に仕事を与えることができるかのように見えた。仕事があり余るほどあっただけでなく、その賃金もこれまで以上に高く、毎年上昇していた。低賃金労働者にとってもこれほどいい時代はなかったろう。」
(早川書房ポール・クルーグマン著格差はつくられた 三上義一訳)


 戦後の六〇年代はアメリカでは経済格差が問題になることはなかった。アメリカ国民はほとんどが一様に豊かさを分け合っていた。
 日本も高度経済成長期には国民の間に格差の意識はなかった。この点でアメリカと軌を一にしている。

 最近我が国では、新興の目覚しく成功した経営者を、恰も芸能人かスポーツ選手のごとくビジネス雑誌などでとりあげ時代のヒーロ扱いすることなども、これまたアメリカ社会に似かよっている。
 成功した経営者は言う。

 「金持ちになるのに何が悪い。自分の才覚と努力で勝ち得たものだ。何もとやかく言われる筋合いはない。格差が問題だなどと、とやかくいうおまえこそ引かれものの小唄ではないか」 と。

 あるいはそうかもしれないが、これに疑問を呈する人がいることもまた事実だ。それも権威ある人が。
 アメリカのノーベル経済学者ジョセフ・スティグリッツ教授である。
 彼は、富裕層は民間企業が政府と結びつき公共サービスの仕組みを変え、市場のルールを自分に有利に働くように変え富を築いていると主張している。
 経営者の才覚と努力によってのみで生み出された富ではないといっている。
 安倍政権の成長戦略の産業競争力会議で審議されている内容を見ると、なかにはスティグリッツ教授の指摘そのものに該当するものがある。

 歴史的にいえば、日本はもともと経済格差が大きい国であった。戦前のある時期までは人口の1%が課税所得の20%を占めていたというデータがある。この1%とは資本家と地主である。
 第2次大戦後、財閥解体、農地改革、インフレおよび富裕層に対する所得税と相続税の引き上げなどにより経済格差が急速に縮小し、高度経済成長期には一億総中流といわれたぐらい経済格差が縮小した。
 が、バブル崩壊後のここ20年の間に再び格差が拡大している。
前述のような新興の目覚しく成功した経営者が増加したことは確かだが、アメリカに比べればまだまだつましいものだ。
 アメリカの経済格差は、戦前の日本のように、1%の富裕層が国民の富の20%を所有することにある。
 我が国の経済格差とは、富裕層がより豊かになったからではなく、貧困層が急速に増えたからである。
 そのことは、経済格差を反映するといわれる、全国民の年収の中央値の半分に満たない国民の割合をさす相対的貧困率の推移に表れている。(下図)



 急速にすすむ高齢化、いつまでも脱却できないデフレ・成長鈍化、非正規労働者の急増 これらがいやおうなく貧困層を急増させ、結果的に国民の間に不平等感をもたらしている。
 単一民族、単一言語社会の我が国では、国民の間の絆は、多少の経済格差などでは揺るがない。
 が、そういうことがいえるのは平時だからこそ。
鬱積した不満・不平等感は深く潜行し、行き場を失うときが、いつかかならずおとずれる。
 経済格差を助長するような政策は論外だが、これを放置するのも、それに劣らず不作為の罪であろう。
 とてつもない外圧があったとき、これに抗し得るのは、国民の間の信頼と結束である。
 いかにその他の条件が充たされようと、これなくして外圧に抗し得ないことを歴史が証明している


2013年11月11日月曜日

経済格差 3

 日本の経済格差は先進諸国の中で今のところ中程度である。(経済格差 1参照)
 経済格差がもたらす弊害も先進諸国の中でも中位ということになる。
 したがって経済格差の弊害を問題にする場合、先進諸国の中で、経済格差が最も大きいアメリカの事例を研究したほうがより分かりやすい。
 ここでは、経済格差について深い関心をもつ、アメリカ プリンストン大学のポール・クルーグマン教授の著作からアメリカ社会の経済格差の実体とその弊害をみてみよう。

 経済格差の実体について同教授はいう。

 「戦後(注;第二次世界大戦)の急成長の恩恵は、ほとんどのアメリカ人によって共有されたが、その成長も七〇年代の経済危機によって終わりを迎えた。
 原因は石油の高騰、抑制不可能なインフレ、生産性の低下である。(中略)
 戦後の急成長が終わってからというもの、経済成長は一時的でかつつかの間のものでしかないという感覚を拭い去ることはついにできなかった。
 平均所得は、つまり国の所得の合計を国民の数で割ったものであるが、それは急成長の最後の年である七三年以降も、大いに上昇している。
 とはいえ、平均所得はほとんどの国民の経済状態を必ずしも正確に伝えているわけではない。
 もしマイクロソフト社のビル・ゲイツがバーに入ってきたら、バーの顧客の平均収入は急上昇するが、ビル・ゲイツが入ってくる前からバーにいた人々は以前より金持ちになったわけではない。(中略)
 このビル・ゲイツの比喩でもわかるように、格差の拡大のため普通のアメリカ人労働者は生産性の向上の恩恵を受けることができなかった。
 だが、誰が勝者で、誰が敗者であったのだろうか。
勝者はビル・ゲイツだけでなく、驚くほど限られた一握りの人々であった。」(早川書房ポール・クルーグマン著格差はつくられた 三上義一訳)

 この驚くほど限られた一握りの人々が誕生した原因を次のように述べている。

 「狭い意味での経済的な要因によるというよりも、社会・政治的な要因によるだろう。それは、経営者としての才能に対する需要が高まったからではなく、CEOの巨額な給与に対する怒りにも似た反発  株主、労働者、政治家、または一般大衆からの激しい反発  が消え去ったからである。(中略)
 あるヨーロッパの企業コンサルタントがこう指摘している。”ヨーロッパではCEOの巨額な報酬に対する社会的な反発がかなり考慮されるが、アメリカには羞恥心というものがないのだ” 」(同上)

 日本の経営者にも、最近羞恥心をなくしたかのような言動をする人がいるが、アメリカの経営者にでも見習ったのだろうか。
 アメリカで、激しい反発が消えた要因として、報道機関はCEOをビジネスの天才だともちあげ、政治家は彼らからの献金により口を閉ざされ、逆に褒めるようになった。
 労組は組合潰しにあい骨抜きにされた。おまけに最高税率が七〇年代初頭、七〇パーセントだったのが、現在三五パーセントまで下がったことなどをあげている。

 経済格差がもたらす弊害についてはつぎのように述べている。

 「大きな格差は一つの社会として人々を結びつける絆をも傷つけている。また、かなり長い間にわたって、アメリカでは政府や各個人に対する信頼感が下降線をたどり続けている。
 六〇年代にはほとんどのアメリカ人は、”ほとんどの人は信頼に値する”と考えていた。
 ところが今日では、ほとんどがそれに反論するだろう。
六〇年代、ほとんどのアメリカ人は、"政府は万人への利益のためにある”と信じていた。ところが今日では、 ”限られた巨大利権のため” と考えている。
 さらにアメリカで拡大傾向にある皮肉なものの考え方の背後にあるのは、広がりつつある格差だという説得力のある証拠もあり、そのことがアメリカをますますラテンアメリカ諸国のような国に近づけているのではないだろうか。
 政治学者のエリック・アスレウナーとミッチェル・ブラウンは次のように指摘している(これは多くのデータにより立証されている。)
 持つ者と持たざる者が共存する世界で、経済的に両極端に位置する人々が、”ほとんどの人間は信頼に値する” と信ずる理由はほとんどない・・・社会的信頼感は経済的平等の上に成り立つものである」(同上)

 経済格差の弊害で特に同教授が問題にするのは、医療保険の保障である。
 裕福な国々の中でも珍しく、アメリカだけが国民に基本的な医療保険を提供していない。
 このことが国民の間により一層不公平感をつのらせているという。

 経済格差の拡大は、経済的な問題に止まらず、社会の信頼・絆を崩壊させる。
 誰しもそのような崩壊を望まないにも拘わらず。
 それにしても経済格差が原因で、アメリカがラテンアメリカ諸国のような国に近づいているとは!
 次稿で我が国の経済格差がもたらす弊害について考えてみたい。

2013年11月4日月曜日

経済格差 2

 我が国は、よきにつけ悪しきにつけ、戦後一貫して同盟国アメリカの影響を受けてきた。
 近くは、小泉政権時代の、小泉・竹中路線は、影響を受けたというよりは、こちらからアメリカにすり寄っていったというべきかもしれない。
 小泉政権時代のアメリカ寄りの流れは国民の間に浸透し、安倍政権になっても目立った変化はないようにみえる。
 今後、この大きな流れに沿っていくかどうか、次の二つが我が国の進路を占ううえでの判断材料となろう。
 対外的交渉事項としての TPP と安倍政権の第三の矢 成長戦略である。
 この二つの成行き如何によって我が国の経済格差の拡大/縮小の方向性がある程度見えてくる。

 まずTPP

 TPPは、各国がおかれた現状より、競争原理を働かせるシステムであるから、経済格差を拡大させる方向に力が働く。
 TPPは国家の枠組みを超えた競争でもあるので、国内のみでの競争とは異なりより一層厳しいものとなる。
 経済格差の視点からのみTPPを捉えると離脱が最善の策であることは間違いない。
 が、そうすることができなければ各国との交渉でできるだけ有利な結果を勝ち取る他ない。
 現状はどうか。
内閣官房TPP政府対策本部のTPPバリ会合結果報告(H25年10月21日)を見てみよう。

 首席交渉官会合、閣僚会合の結果概要

○ 首席交渉官会合、閣僚会合において、物品市場アクセス、サービス、投資、電子商取引、知的財産、国有企業、環境など交渉分野全般にわたって議論を行い、残された論点、今後のステッ等について整理。


○ 日本は、閣僚会合の場で、交渉が難航している知的財産について、政治的に解決しなければならない課題を整理するなど、いくつかの論点について交渉の前進へ向け、積極的な貢献を果たした。 

 秘密交渉を運命付けられているTPPらしく具体的交渉経過などなにも分からない。
 国民はただ結果を突きつけられるのを待っている他ないようかのようだ。

 つぎに成長戦略

 安倍首相は、規制改革を成長戦略の「一丁目一番地」と位置づけ、雇用、エネルギー・環境、健康・医療の3つを重点分野とする方針を表明した。
 この「一丁目一番地」なる表現はもともと竹中平蔵産業競争力会議議員が言い出したもの。
 成長戦略の現状はどうか。
 2013年10月1日開催された第14回産業競争力会議議事要旨をみると民間議員の竹中平蔵議員と三木谷浩史議員の発言が目をひく。
 竹中議員は欠席したため、かわりにレポートを提出した。そのレポートは主として「雇用」について述べられており、「雇用」の規制改革が全く進んでいないことを嘆いている。
 竹中議員は驚くなかれ人材派遣会社パソナの会長である。自らの業界の利益誘導ととられてもいたし方あるまい。
 三木谷浩史議員は、一般用医薬品のインターネット販売が全面解禁になった筈だが、一般用医薬品へのスイッチ直後の28品目については、ネット販売を禁止しようとする動きがあると不満を表明している。三木谷議員は楽天社長である。
 彼の主張は徹底しており、一般用医薬品のインターネット全面解禁という自らの主張が受け入れられなければ民間議員を辞する旨政府にせまっているという。

 竹中、三木谷両議員の言動は、アメリカ社会ではあたりまえかもしれないが、日本では少数派に属するだろう。
 少なくとも従来の日本人の行動様式には馴染まない。
自らの利益を全面に押し出して恥じることを知らない。否、むしろそのことを誇りにさえ思っているふしがある。
 かって吉田松陰は叔父である玉木文乃進から教育を受けた。 玉木の指導は厳しく、書物の朗読中松蔭の顔にハエがとまったため痒くなり顔を掻いたら平手打ちされた。
 些細なことかもしれないが、顔を掻くのは「私」であり、私事を優先するような人物に大きな仕事は出来ないと諭したという逸話がある。
 これは極端かもしれないが、少なくとも日本人は公私を区別せよと教えられてきた。

 有力なこの両民間議員の言動を紹介したが、彼らの動向が産業競争力会議、ひいては安倍政権の第三の矢 成長戦略に大きな影響を及ぼしかねないからである。
 小さな政府で自由競争を標榜する新自由主義経済理論はアメリカの野党共和党の政策である。
 この両議員が米国共和党の政策を信奉しているか否か定かではないが、彼らの言動はそれに近いものを思わせる。
 安倍政権の成長戦略により、我が国の経済格差はどうやら今よりさらに拡大する方向に向かうように見える。

 経済格差が進むと何が問題なのか、社会にどのような影響を及ぼすのだろうか次稿で考えてみたい。