2016年10月31日月曜日

都民ファースト

 東京都の小池百合子知事は派手なパーフォーマンスとテレビやスポーツ紙をたくみに取り込むなどマスコミ戦術にも長けた政治家だ。
 過去、環境大臣時代のクールビズの旗振り、防衛大臣時代の派手な立ち回り、そして参院選真っ最中のいち早い都知事選への出馬表明などなど。
 知事当選後は都民ファーストの改革着手で都民からヤンヤの喝采を浴びている。少なくともメディアはそう報じている。
 そのメディア露出度の多さから関心は首都に止まらず地方にまで及んでいるともいう。

 小池知事は着任後まもなく外部から13人の顧問団を登用し都政の透明化と刷新に乗り出した。
 まずターゲットにされたのが豊洲市場移転費と2020年東京オリンピック施設整備費である。
 豊洲市場移転費は11年2月の3926億円から15年3月には5884億円となった。
 オリンピック施設整備費も招致時からハネあがった。やり玉にあがったのが水泳、ボート・カヌー、バレボール会場であり費用は招致当初の566億円から1578億円となりこれだけで施設整備費の7割を占めるに至った。
 この費用膨張の数字はいかにも不自然だ。都知事がこれにメスを入れ、既得権益やムダの有無の調査に乗り出したのは当然といえる。
 その政策スタンスは都民ファーストの ”もったいない” 精神だ。これには誰も異論を差し挟むことなどできない。できる筈がない。だって、そこに使われるのは貴重な都民の税金であるからである。
 かくて小池知事の都政刷新の嵐は不正、腐敗および既得権益を受けている人びとに吹き荒れメディアはおおむね好意をもって連日報道している。

 だが誰一人反論できないようなことにはおおにして落とし穴が潜んでいる。小池知事の都民ファーストも例外ではない。
 この都民ファーストの”もったいない”施策は納税者の都民のために真に利益をもたらすものだろうか。
 不正や賄賂などに起因する費用高騰はメスを入れなければならないがそうでない単に”もったいない”精神での一律の費用削減政策は疑問なしとはしない。
 それは人びとのマインドを萎縮させマイナス思考へと導きかねないからである。
 デフレ下での緊縮策は需要を減らし景気に悪影響を及ぼすことはここ20年来の日本経済の停滞がそのことを証明している。
 もったいない、ムダ使いの排除とは片面から見れば需要を減らすことにほかならない。
 需要が減るということは何を意味するか。GDPの三面等価の原則により生産(供給)、支出(需要)、分配(所得)は必ず一致する。
 需要が減れば、供給や所得も減り、GDPは縮小均衡する。こんな統計上のロジックを持ちださなくとも、景気が悪くなれば人びとの所得が伸びないため物が売れず商売はあがったりとなり、サラリーマンは会社の業績が悪くなれば、給料も上がらないことぐらいは誰でも知っている。
 需要が減ればそれに応じて消費も投資も減り、必然的に景気も悪くなる。
 もったいないやムダの排除は家計簿感覚では美徳だが、国家レベルでは必ずしも美徳とはかぎらない。

 ところで東京都も他府県と同じく一自治体にすぎないが財政の規模からその与える影響は大きくわが国のGDPに占める割合は約20%にもなる。
 財政に余裕がなければともかくそうでなければ、デフレに逆戻りの恐れがある現状を鑑みれば東京都が率先してデフレ阻止に舵を切ることが求められる。
 所得が伸びないデフレ下では民間に消費や投資を期待できないからである。
 都政改革にはこの視点が等閑に付されているのではないか。この意味において小池都知事の都民ファーストは都民ファーストになっていない。
 小池知事がもったいない、節約だ、緊縮だ、と叫べば叫ぶほど、景気には逆風となる。人気絶大なだけにその影響は大きい。

2016年10月24日月曜日

暴動と革命

 革命といえば真っ先にフランス革命が頭をよぎる。世界史的事件であるがゆえだろう。
 シュテファン・ツヴァイクは著書『マリー・アントワネット』で1789年7月14日パリのバスティーユ監獄の襲撃直後の様子を描いている。

 ヴェルサイユの神聖な寝室で深夜ゆさぶりおこされた国王ルイ16世は使者からパリの事件についての報告を受ける。

 ”バスティーユが襲撃されました、要塞司令官は殺害されました!かれの首は槍先に刺されて、パリ中のさらしものになっております!”

 ”それは暴動というものではないか”
 
 と眠りから起こされた不幸な支配者は口ごもる。しかし凶事の使者は無慈悲にもきびしく訂正する、

 ”いいえ、陛下、革命でございます。” 
 
 フランス革命も直後は誰も事の本質を理解できなかった。
国王ルイ16世が革命の言葉を完全に理解しなかったといって世人の嘲笑を買っていることについて、ツヴァイクは 
”生起した事件がすっかり頭にはいったときになってから、なにをなすべきだったかを見てとるのは容易である” 
というメーテルリンクの言葉を引用して国王を擁護している。
 さらに問題はほかにもあるとツヴァイクは同書で言う。

 「つまり、同時代人のうちのだれが、いまここではじまったおそるべき事件の性格を、この最初の時間に感知したろうか? 
 革命に火をつけ、革命をあおりたてた者ですら、そのうちのだれがそれを感知したろうか?
 ミラボー、バイイ、ラファイエットのごときあたらしい民衆運動の指導者すら、このときくさりをとかれた力によって自分たちの目標をこえ、自分たちの意に反してどこまで引きずられてゆくことになるのか、まったく予想がつかないでいる。
 1789年には、のちにもっとも残忍な革命家となったロベスピエール、マラ、ダントンなどすら、まだ生粋の王党派である。」

 革命は決してロマンチックなものなどではなく、陰謀だ、裏切りだ、スパイだといって血しぶきをあげて荒れ狂い止まることを知らない血なまぐさいものだ。
 この革命で活躍した代表的な政治家の一人でのちに断頭台に消えたジョルジュ・ダントンは、これぞフランス革命の革命観を表しているといわれる言葉を残している。
”われわれは下なるものを上に、上なるものを下におきたいと思う” 
 格差拡大が際限なく進む今日の世界の行く末を暗示しているかのような言葉である。
 それが暴動になるのかそれとも革命にまで発展するのか分からないが。

2016年10月17日月曜日

人工知能 7

 シンギュラリティが到来すれば AI が人類を滅ぼすなど AI 脅威論を説くアメリカのテスラモーターズのイーロン・マスクやマイクロソフトのビル・ゲイツは巨額の資金を AI に投資している。
 AI の脅威を煽りながら AI から巨大な利益を得ようとしている。このことになんら矛盾を感じていないようだ。
 また AI の軍事利用は現実的な脅威である。
 欧米の街には戦勝記念のモニュメンがいたるところにあり観光スポットになっている。日本では見かけない風景だ。AI の軍事利用が進められていることは想像に難くない。
 欧米諸国では経済的・軍事的な AI 利用の言行不一致は意に介さない素地があるのだろう。これも日本ではありえないことである。
 これらを踏まえてわが国の AI 対策を練らなければならないだろう。

 明治維新の担い手はそれまでの支配層ではなく下級武士であり、中心的役割を演じたのは薩長土肥の一握りの志士である。
 彼らは政治的にも軍事的にも危ない橋をわたりながらも欧米列強から国を守ろうという気概によって維新を成し遂げた。

 今わが国は少子高齢化と生産年齢人口の減少で経済は低迷しデフレに苦しみ相対的国力は衰退の一途を辿っている。
 現状はかろうじて過去の遺産でそれなりの国力を維持しているが、将来はこの国力を維持できるか否か保障の限りでない。
 激動の時代の現状維持は、後退を意味する。
 平和が長く続いたせいか現状維持・ほどほどの国力・ほどほどの経済であればいいなどの声も聞かれるが、そのようなスタンスでは現状維持など望めず後退あるのみだろう。
 AI 革命は生産性を指数関数的に引き上げる。少子高齢化はAI 革命を受け入れる絶好の環境である。
 このことを理解しないで外国人労働者受け入れ策を実行しようとしているがそれは AI 対策とは真逆の政策である。
 AI を開発するためにいま求められるのは数学とコンピュータの素養ある AI 技術者であるが、ような人材は極めて少ないため育てるほかないという
 こうなるとすぐわが国の当局は理科・情報教育重視を喧伝し、文科系の削減をいいだす。この近視眼的思考は官僚の抜け難い習性なのだろう。
 選択と集中は企業経営上は有力な武器であるが、こと人材育成のようなセンシティブな問題にはこの手法は必ずしも当て嵌まらない。
 いわゆるひも付き資金は研究者の自由な発想を妨げ目的達成への障害となりやすい。
  育てるにはそれなりの支援が必要であるが、その支援は研究者の自由な発想を拘束しない、いわゆるパトロン的支援が有効であろう。
 これに関連して武田邦彦氏はこう述べている。

 「もともと学問というのは、研究を始めるとき、それが将来の社会に『役に立つか、立たないか』は誰も判定できない。
 現在の社会は過去の学問で成り立っているのだから、『新しい世界を開く知』が未来の社会に役立つことを他人に説得することは論理的にはあり得ない。
 現在、日本では『役に立つ研究』にしか潤沢な研究資金が出ない。
 しかも、その審査はノーベル賞を取れないような社交的な東大教授を中心として行われている。
 その結果、日本の研究資金の配分は極端に東大に偏ってしまった。」(2016年10月16日 産経ニュース)

 東京大学の松尾准教授は、日本のトップ研究者を50人集めれば世界と戦えるといいそのための予算は150億あればいいと言い、PEZYグループの斉藤元章代表は超知能開発のため必要な100京コンピュータを開発するには最大500億あればいいと言うがその要求はみたされていない。
 国家の運命をも左右しかねないプロジェクトの一環としてはなんというつましい要求か。
 役に立つことがはっきりしない AI などに研究資金など出せないということなのだろうか。

 この点アメリカはどうか。アメリカはグーグル、フェイスブック、マイクロソフト、IBMなどの私企業がトータルで年間1兆円相当の資金を毎年 AI 開発に充当しているという。
 この資金面の格差はあまりにも大きい。この原因は AI に対する認識の差異からくるものであろう。
 政治家をはじめとした指導層の役割が望まれる。
 繰り返して言おう、明治維新は封建制度の因習が残る環境下で薩摩や長州など雄藩の志士たちによって成し遂げられた。 
 AI 革命もまた現代の志士によって成し遂げられることを期待したい。
 現代の志士は必ずしも AI 研究の中心にいる人から出るとは限らず、むしろ AI の専門外・素人から出るかもしれない。たとえば斉藤元章氏のような専門外の人から。
 すべての革命がそうであるように AI 革命もまた慣習や伝統に捉われていては成功はおぼつかない。
 AI 革命前夜、出でよ 狂瀾を既倒に廻らす平成の志士!

2016年10月10日月曜日

人工知能 6

 これまでのわが国の AI 開発の実績を簡単に振り返ってみよう。
 わが国の AI 開発は高度経済成長期からの研究実績があるもののアメリカの開発スピードには遠く及ばない。
 特に画像・音声認識などの情報処理系はグーグル、フェイスブック、マイクロソフト、IBMなど米企業が先行し、この分野の大半を壟断している。
 物造りのロボット分野はどうか。

 「ロボット市場は、大きく『産業用ロボット市場』と『サービスロボット市場』に分けられる。
 現在、日本の産業用ロボットの稼働台数は約30万台で、2位のアメリカに10万台以上の差をつけて堂々のトップ。その市場シェアは50%前後と圧倒的だ。
 しかし注目したいのは急成長が見込まれるサービスロボットの分野だ。
 特許庁の予測値では、2015年の産業用ロボット市場規模は約5000億円。
 リーマンショック後の2009年に2000億まで落ち込んだが、先進国の持ち直しと新興国の需要拡大を受けて回復傾向にある。 一方サービスロボット市場の成長率は産業用の比ではなく、2012年の5000億円からわずか2年で2倍になる1兆円を突破(予測値)。
 2020年には4兆円に達すると見られ、今後のロボット産業の主流になると考えられている。」
(開発者著PHP研究所『人工知能の今と未来の話』)

 産業用ロボットとは製造業の工場で稼動するロボットであるがサービスロボットは生活に身近なサービスで2014年の日本のシェアは10%未満に過ぎない。
 サービスロボットは、医療・介護・清掃・警備・案内・消防・農業など今後 AI が活躍すると予想される領域である。

 このように情報処理系のみならず、物造りのロボット分野でも必ずしも楽観できないのがわが国の現状といえよう。

 だが、日本の AI 開発が欧米に遅れているとはいえ、AI 開発は未だ端緒にすぎず十分キャッチアップ可能というのが識者の見方である。
 AI 技術のブレークスルーといわれるディープラーニングは2012年に開発されたばかりであり真の競争は今後にかかっている。
 AI 革命はかってない革命である。
 脳のニューロン(神経細胞)とニューロンどうしが情報を伝達するシナプス結合を数学的にモデル化したニューラル・ネットワークをベースに進化したディープラーニングが現在の主流になっている。
 だが、AI 開発手法はこの他にも大脳皮質をエミュレートする有力な生物学的手法がある。
 この分野で近い将来超知能を日本発で開発できるかもしれないと大胆にも予測している学者がいる。

 「日本が人工知能開発における現状の遅れを挽回し、世界に先駆けて超知能を開発し、人工知能開発の勝者になるためには、すなわち21世紀の先進国になるためにはどうすればいいのでしょうか。
 その起死回生の切り札となるのが、3章(注:トップランナーは誰か)でふれ、7章(注:ものづくり大国・日本だからできる)の対談でもご登場いただくペジーコンピューティングの斉藤元章さんが開発に挑んでいるニューロ・シナプティック・プロセッシング・ユニット(NSPU)だと、私はおもいます。
 人間の脳と同等のニューロンとシナプス結合をもったコンピュータを、今から10年以内に実現するという。
 斉藤さんの野心的な計画が本当に実現すれば、間違いなく世界最先端の技術になります。
 少なくともハートウエアの面では、現在、人工知能開発ではるか先を行くアメリカを、一挙に追い抜ける可能性もあるのです。
 しかし、問題はあります。たとえ世界最先端のハードウエアができたとしても、その上で動くソフトウエアがなければ、役に立ちません。
 NSPUが2025年までに完成すると想定して、今から、その上で動く人工知能アルゴリズムを開発し、世界に先駆けて完成させること。
 これが、日本にとって起死回生のラストチャンスです。
 人工知能開発で先行する海外諸国に圧倒的に差をつけられている現状を ”ちゃぶ台返し” するためには、斉藤さんが開発しようとしているNSPUに賭けるしかないと私は思います。」
(松田卓也著宥廣済堂新書『人類を超えるAIは日本から生まれる』)

 超知能の開発に成功すれば次元の違う世界が拡がる。

 「超知能を開発した国は、間違いなく世界でもっとも力をもつモンスター国家になります。
 たとえば、現在使われている暗号を解読することなど簡単です。通信を盗聴して機密情報を盗み出すことも、核爆弾や無人攻撃機、その他の破壊兵器を制御するコンピュータに侵入することも、お茶の子さいさいです。
 武器だけでなく、交通・管制システムや電力網、水処理装置といった社会インフラも自由にコントロールできるでしょう。
 しかし、超知能の技術を公開すれば、こうした圧倒的な優位性は失われます。
 そんな国があろうはずもありません。この意味でも、平和主義国家である日本が、世界に先駆けて超知能を開発するのが望ましいのです。(中略)
 超知能開発競争は、最初に開発した者のみが勝者で、2位以下はすべて敗者になるという、 『勝者総取り』 の過酷な競争です。ここでは、1位をめざすしか選択肢がないのです。」(前掲書)

 AI はわれわれが想像する以上に未来を支配するようだ。最後にこのことを踏まえて AI について考えてみたい。

2016年10月3日月曜日

人工知能 5

 シンギュラリティを喧伝するのは西欧の学者・研究者にかぎられなぜ日本人はそれから距離をおくのだろうか。
 シンギュラリティ仮説に反論する日本人研究者の一人に情報学者の西垣通氏がいる。
 西垣氏はシンギュラリティ仮説に対する西欧と日本の信念の違いは宗教文化のそれによると考えている。
 ビッグデータ型人工知能の先端技術におけるコンピュータという存在の隠された実像を見抜けば AI が人間を滅ぼすことなどありえない、そんな脅し文句に惑わされてはいけないという。
 日本の AI 戦略に熱心な松尾豊氏もシンギュラリティに否定的な発言をしている。
 日本の AI 識者の多くは AI の脅威にたいして楽観的であるようだ。
 少なくとも AI が人類を滅ぼすなどと主張する研究者の声はあまり聞かれない。

 西垣氏によれば、宗教文化の違いがシンギュラリティ仮説に対する考え方の違いとなっているがその原因の一つが西欧社会の一神教にあるという。
 ユダヤ教・キリスト教の教義によればこの世界は唯一神が造りたもうたもので人間を含め万物は神の被造物である。
 その被造物の一つにすぎない人間が人間を超えた能力をもつ AI を造ることは神への冒涜である。
 神への冒涜の結果、シンギュラリティ到達後 文明人が未開人を駆逐するごとく AI が人間を襲うかもしれないと密かに恐れているのだ。
 ユダヤ教やキリスト教の一神教の論理からすればこうなる。このことは AI を知り尽くしている科学者であっても例外ではない。
 むしろ科学者が率先して AI の脅威に警鐘を鳴らしている。未来学者レイ・カーツワイルが2045年に特異点に到達すると予想した 『2045年問題』 などその典型である。

 キリスト教ファンダメンタリストは聖書の数々の奇跡を字句どおり信じている。
 ファンダメンタリストの中には科学者もいるが彼らも例外なく聖書の奇跡を信じているという。
 奇跡と科学、この両者をともに矛盾なく受け入れているのだ。
この意味において西欧の AI 研究者がシンギュラリティ仮説を信奉することについて違和感はない。
 唯一絶対神を信奉する西欧の科学者は聖書に対しても AI に対しても絶対的観点で物事を捉えているからである。

 西垣氏は、ことシンギュラリティ仮説に関連して、機械と人間を同列に扱う西欧の絶対的観点に疑問を投げかけている。

 「人工知能とはあくまで 『人間という生物種の思考』 から生まれたという事実である。
 機械は人間がつくるのだから当たり前だ。だがそれなら、いくら頑張っても、人間の認識や知性の限界を超えることは不可能ではないか。
 お釈迦様の手のひらで踊るだけではないだろうか・・・。
 シンギュラリティ仮説は、人工知能の知的能力が人間を超えていき、人間の理解できない領域に突入すると語る。
 だが、右の議論が示すように、人間に理解できないということは、別に 『賢くなる』 のではない。
 われわれから見ると、ただメチャクチャな結果を出力する怪物機械、つまり廃品になるだけなのである。
 欧米のシンギュラリティ仮説の支持者たちは、人間が自分の思考をもとに人工知能をつくったことをカッコに入れ、人間と人工知能を同質な存在として同一次元で比較しようとする。
 まるで第三者の手によって、人間も人工知能もつくられたような感じだ。
 たぶんそこには、超越的な造物主を奉じるユダヤ=キリスト教文化という遠因があるのだろう。
 これは絶対主義にもとづく設計思想である。機械という存在を、人間の限られた能力との関連で相対的にとらえるという、最重要な観点が脱け落ちているのだ。」
(西垣通著中公新書『ビッグデータと人工知能』)

 西欧のシンギュラリティ仮説の支持者は、脳を分析すれば心を理解でき、脳を再現すれば心をつくれるという立場である。
 人間の頭骸骨のなかに約1000億個の神経細胞があり、これを客観的に外側から観察し、正確に分析すれば共通の記述結果がえられるはずという。
 このようにシンギュラリティ到来を論じる西欧の研究者は人間とコンピュータとが基本的に同質だと信じている。

 これに対し、西垣氏は異をとなえている。

 「脳研究は、実験と数理モデルを駆使し、その成果がいかにも客観的・絶対的な真理であるような印象をあたえる。
 その方法論は科学としては正しい。だが、いろいろな学説も、所詮は研究者たちがつくりあげるものであり、時代とともに変わっていく。
 近代思想の元祖デカルトは昔、人間だけが精神をもち、それ以外の動物は機械的・物質的存在にすぎないと考えた。
 今ではそんな考えは動物行動学者によって否定されている。
 20世紀初頭、ドイツの生物学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュルは、動物の主観世界に目をむけた。
 ハチはハチ、イヌはイヌ特有の主観世界をもっている。われわれには動物の主観世界を完全に理解することはできないにせよ、そういう相対主義的観点なしには、自然の生態系を理解することはできない。
 われわれは、ホモサピエンス特有のまなざしで科学技術を研究しているだけなのだ。
 こうして、ひとたび相対主義的観点の大切さに気づけば、生物と機械を同質とみなすシンギュラリティ仮説の欠陥がはっきり分かってくる。」(前掲書)

 日本の研究者は AI がディープラーニングにより如何に意思や感情をもった人間のように結果をだそうともそれは自立の動作や情動を持っているかのように見えるだけですべて人間によってプログラムされた結果にすぎない。
 闘争心、支配欲、種の保存欲など人間が進化によって獲得したものを持っていないコンピュータが人間の知能を超えても自ら複製や改善は望めない。
 進化によって獲得した人間の脳のゲノムをシリコントランジスタと同質に扱うには無理がある。
 このように考えるのは日本の研究者だけでなく西欧の一部の AI 研究者や生物学者にもいる。
 彼らは、人間とコンピュータは異質であり、シンギュラリティの到達はないと批判している。

 シンギュラリティは人間と超人間に関する議論に発展するため一神教を奉ずる西欧の研究者と一神教でない日本の研究者との間の橋渡しを試みても、それは神学論争を重ねるだけである。

 シンギュラリティが到来するか否かに関係なく AI は技術的にも社会的にも革命的変化をもたらすであろう。
 神学論争よりこの革命的変化にどう対処するかが肝要で、それにより未来は大きく変わる。
 近い将来 ” AI は革命的変化をもたらす” 肝に銘じ、胸に刻み込むべきことばである。