2019年1月28日月曜日

消費税増税 2

 戦後を代表する政治学者の丸山真男は国家権力について自らの体験をエピソードで語った。
 彼が一高の学生時代、長谷川如是閑の講演会(冒頭で強制中止)に出席しその帰りに特高警察に呼び止められ左翼活動の疑いで検挙された。
 当時長谷川如是閑は危険な自由主義者として特高警察が監視対象としている人物の一人であった。
 丸山真男は検挙され取り調べられたものの左翼活動を示す証拠は何も見つからなかった。もともと左翼活動などしていなかったし講演会に行ったのは長谷川如是閑が父親の友人であったからである。
 丸山真男はこのときほど国家権力の怖さを身に浸みて感じたことはなかったと言う。国家権力はどんな些細な理由でも人びとを拘束できるものだと。


 戦前と違い現代ではこのようなことはないだろうと誰しも思う。
 ところがどんな些細なことでも人びとを拘束できるという国家権力は現代にも受け継がれている。
 軍部にかわる新たな国家権力を代表するもの。それが財務官僚であることは知る人ぞ知る。
 その権力の源泉は徴税と予算権である。先進国のなかでこれらが一つの省庁に集中しているのは日本だけである。これこそが現代日本の宿の根源である。
 日本経済のためあるいは日本国民のためにあるべき税制・財政政策が本筋から離れている。その分かりやすいものの一つが消費税増税である。

 権力をもっているものががその権力を行使するにあたって使う常套手段はアメとムチである。 ”蛇の道は蛇” 事情に詳しい人はこう説明する。
 仮に、消費増税に反対する国会議員がいたとしよう。彼を説得しその主張を翻させるのにこの手法が使われる。
 まずアメとして当該議員の選挙区の公共事業の箇所付け(予算配分)をほのめかす。
 それでうまくいかなければ次にムチとして徴税権の一環として国会議員の身辺調査ができることをほのめかす。
 選挙とスキャンダルは国会議員にとってもっとも琴線に触れることがらである。
 このように国民の代表である国会議員が選挙で選ばれてもいない官僚に振り回される。

 ”尻尾が犬を振りまわす" 残念ながらこれがわが国の現実である。
 この宿痾を治さないかぎり、その他一切のこと、男女平等、格差是正、機会均等、など画餅に帰すであろう。
 どれもかけ声や精神論だけで解決できる問題ではないからである。これを是正しない限り現代日本に漂う閉塞感も打開できない。

2019年1月21日月曜日

消費税増税 1

 消費税については本年10月1日に8%から10%に引き上げることが法律で定められている。
 菅官房長官は記者会見でリーマンショック級のようなことがないかぎり法律通りであるがその最終決定は2019年度予算の成立が一つの区切りではないかと3回目の延期の可能性に含みを持たせた。
 増税をめぐっては水面下で活発な動きがあるという。増税派とこれを阻止しようとする派のせめぎ合いである。
 増税派の急先鋒は利権拡大を目論む財務省であり、阻止派は今年7月の参議院の選挙もしくは衆議院解散による衆参同時選挙に及ぼす影響を気にする政治家たちである。
 いずれも日本経済あるいは国民生活についての議論は後付けである。

 この対立はあたかも70年以上前のわが国の太平洋戦争開戦と終戦時の経緯を想起させる。予算増による権益拡大を目論む派とこれを阻止しようとする人たちの対立である。
 当時の社会は開戦気運に充ちていた。軍部がこれを主導したからである。今やこのことに異論をとなえる人はいない。
 軍部の中で開戦に強く反対した人たちでさえ時流に逆らえずついには賛成にまわった。
 一方終戦は天皇の英断であり、これなくして戦争継続を画策する軍部独走を止めることはできなかったであろう。
 仮に本土決戦にまで戦争が継続されていたらその結末は想像さえできない。

 70年以上前の太平洋戦争の開戦、終戦ともに主役は軍部である。そして今消費税増税の主役は財務省である。時代も役割も主役も変わったが変わらないものがある。今後の展望につき考えてみたい。

2019年1月14日月曜日

梅原猛の死

 聖徳太子は自殺か心中した、法隆寺は聖徳太子とその一族の怨霊を鎮めるために建立された、など大胆な推論で有名な哲学者の梅原猛が一昨日亡くなった。
 その知的領域は哲学にとどまらず歴史、宗教、文学、美術などに及んだ。
 これからはどの国もお手本にならない。このことを熱く説いた司馬遼太郎との対談がある。

 「梅原:日本の歴史には、外との接触でワーッと湧き立った時代と、じっと内にこもった時代がありますね。平安時代というのも、じっと内にこもった時代です。
 司馬:平安と徳川ですね。
 梅原:ええ。どちらもその前に外国文化輸入の時代がある。
 仏教文化が入ってきた奈良時代。そのあとじっと内にこもって平安文化ができる。私は平安時代に日本文化の基礎ができたと思うんです。
 日本人が再び大きな文化的ショックを受けるのは、やはりキリシタン文化との接触でしょう。
 徳川の三百年はこの文化的接触を恐れて、日本がじっと自分の中にひっこんだ時代だと思います。
 そこへペリー以下がやってきた。今度はひっこんでいられない。なぜなら接触を恐れて通交を拒絶したら、大砲の弾が飛んできますから。
 考えた挙句、西洋文化を学ぶことによって、西洋に追いつき、西洋に勝る強い国、豊かな国になろうということになった。
 しかし今じっと内にこもる時期がきていると思うんです。唐の真似をしていたら唐がダメになって、仕方なく内にこもらざるを得なかったのが平安時代。
 明治以来、西洋の真似をしてやってきたが、どうやら西洋の方がダメになったらしい。
 ヨーロッパは生気がないし、アメリカもなにやらガタついている。といってソ連は不自由な国らしいし、お隣の中国も文化大革命とやらでゴタゴタしている。
 どこにもお手本がないから、じっくり内にこもって自分で考えるしかない ー そういう時期にきていると思うんですよ。
 あとはここで、ちょうど坂本竜馬が、明治百年の見通しを立てたように、射程の長い見通しをこれからの日本について立てる、そういうことがいま必要になっているような気がするんです。
司馬:そういうことですね。」
(司馬遼太郎対談集1970年1月文春文庫『日本人を考える』)

 梅原猛が挙げた国々の現状は当時よりよくなっているとも思えない。とてもお手本とはし難い。
 『日本独自の射程の長い見通しを立てよ』 勇気と好奇心あふれるこの哲学者の言葉は重い。

2019年1月7日月曜日

建前社会 日本 5

 ”「しかたがない」と言う考えをやめること” カレル・ヴァン・ウォルフレンが日本への提言で最も強調していることである。 日本は政治化された社会となっていて、権力を持つ一部の人の意向が反映されたシステムになっている。
 このシステムでは権力者が説明責任を求められない。建前はともかく現実にはそのような社会構造になっている。
 その結果、国民は権力者の意向を ”しかたがない” と受け止める。
 典型的な例として先の大戦が挙げられる。太平洋戦争は誰の責任で突入したのかはっきりしたことが分からない。
 このため国民はあの戦争を台風や地震と同じように日本を襲った災難と受け止め ”しかたがない” とあきらめる。
 日本人は調和を重んじ、同種同文の均質社会であり、勤勉な国民であるとされ、これに反することは ”日本人らしくない” で片付けられる。

 「人の行動を制止する点で、『あなたは日本人らしくない』というほど効き目のある非難の言葉は、世界中どこにもないと思う。
 日本の市民は、感情に訴えるこうした策略に気をつけなくてはならない。日本を変えたいと言えば、まずこの策略が使われるはずだからだ。
 『あなたのやりかたは日本人らしくない』という言葉には、あらがいがたい力がある。これは、非常に狡猾な脅しの手口なのだ。」
(カレル・ヴァン・ウォルフレン著鈴木主税訳新潮文庫『人間を幸福にしない日本というシステム』)

 日本的なるものは日本人にとって目に見えない強い強制力がある。カレル・ヴァン・ウォルフレンはこれこそ「偽りの真実」であり、支配者が支配を容易にするための方策にすぎないと一蹴する。
 これから脱却するために国民が真の市民として政治に参画すること、「知は力なり」を実践することを提言している。

 カレル・ヴァン・ウォルフレンの提言は日本社会の構造的欠陥を鋭くついている。
 手放しで褒めたいところだが問題となるのはその実現可能性である。
 彼に言わせればそれこそ ”しかたがない” 発想だと言うだろう。だが改革は実現しなければ意味がない。

 日本はコンセンサス社会である。根回し社会である。会議で延々と議論するが、肝心なことは会議ではなく酒席など裏舞台の場で決まることがまれではない。
 日本史上際立って独裁的であった信長でさえ最終決定は合議を装ったという。それが円滑にいくと考えたからであろう。
 ドナルド・トランプ氏は大統領に就任する以前の自伝で、 ”日本人は商売のやりにくい相手だ。6~8人、多いときには12人ものグループでやってくる。話しをまとめるためには全員を説得しなければならない” と言っている。外から見たコンセンサス社会日本の素顔が垣間見れる。
 日本社会が合意を習い性としていることは明らかだ。トップダウン、上意下達は、この国ではうまくいかない。

  ”鶴の一声” が効果的なのはそれが稀だからであり濫発しては神通力がなくなる。
 トップダウンは方針決定は速いが指示が浸透するまでには時間がかかる。一方根回しは方針が決定するまでのプロセスは長いがその後の実行はスムーズである。
 トップダウンが優れ、根回しが劣っているという考えは想像力の欠如にほかならない。


 カレル・ヴァン・ウォルフレンはあらゆる日本的なるものに懐疑的である。
 改革にはこの日本的なるものを払拭しなければならないという。
 問題はどうやって改革を実現するかである。総花的に進めても何の成果も得られないだろう。
 明治維新前と異なり国民の教育レベルは格段に高くなり改革するためのノウハウもある。
 日本的なるものを払拭し効果あるとすればそれはただ一つ情報の罠であろう。


 「私が知っている多くに欧米諸国やアジア諸国とくらべて、偽りの情報が組織的かつ狡猾な手口で流されている点で、日本は最悪だ。
 私が本書で論じてきた日本の社会・政治構造は、主としてこうした欺瞞によって成り立っている。
 みなさんは、偽りの情報を流す大きな媒体について知る必要がある。
 それは制度と思想である。制度のなかには、大半の日本人が決して疑いを抱かないものもある。
 また、思想のなかには、日本人がいつも当然のように受け入れているものもある。
 日本人は、偽りの情報を流すこれらの媒体と対決しなければならない。
 日本が価値のある国、信頼できる国として生き残れるかどうかは、この媒体の力をよわめられるかどうかにかかっているのだ。」(前掲書)


 必要なのは情報を識別する能力である。何が真実で何が偽りかを識別する能力である。なぜなら偽りの情報は絶えることがないからである。

 日本独特の記者クラブ制度に拘束されたメディアが発する数々の管理された情報およびまさかと思われる財務省ホームページのPR活動 ”日本の財政を考える” などは現代版大本営発表というにふさわしい。
 わが国で最も必要としながらも欠如しているもの、それは政治・経済関連情報の識別能力であろう。これを欠けば対象を見誤りすべての改革は空転する。情報識別能力の向上はつまるところは国民一人ひとりにかかっている。