2018年3月26日月曜日

無宗教国家日本 5

 宗教に対する政治の介入。わが国の歴史はこの繰り返しであった。仏教が伝来する以前の日本人の信仰は土着の氏神など閉鎖的なものに限られていた。

 ところが飛鳥時代に大陸から普遍宗教である仏教が伝来するや右往左往の大騒ぎとなった。仏教容認派と反対派の間で争いが起きたのだ。結果は容認派が勝利した。

 奈良時代に入ると為政者は仏教を礎として内政の安定を図る政策をとった。政府は奈良に東大寺大仏、諸国に国分寺を建立し、僧職を官僚組織に組み込んだ。
 僧侶になるには厳しい修行だけでなく学問を修め朝廷から官位をもらわなければならないという高いハードルがあった。この制度は平安時代の半ば過ぎるころから綻びが生じはじめた。

 鎌倉時代に入るとこれら硬直した制度を打破する改革者が現れた。親鸞と日蓮である。
 彼らは厳しい修行や学問など積まなくても南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経さえ唱えていれば成仏できると説いた。
 これによりそれまで貴族などの一部の特権階級のものであった仏教が一気に大衆にまで広がった。宗教が自由になり誰でも宗教家になれるようになった。
 このほか仏教が日本に浸透した原因の一つに日本土着の神と仏教の仏は同じものという神仏習合思想がある。
 仏は衆生を救うためそれぞれの社会、風土にあわせて身を表わすという本地垂迹説で日本においては神の変身が仏という論理である。
 
 戦国時代に信長は隆盛を誇った仏教勢力との対決上キリスト教を保護した。このためクリスチャン大名が誕生するなど一時期キリスト教信者の増加が見られた。だが後継者の秀吉は一転してバテレン追放令を発令した。

 江戸時代になると徳川幕府は禁教令でキリスト教徒の弾圧を本格的に進めるとともに寺手形発行により国民全員を仏教徒となることを義務付けた。これが後の檀家制度のはじまりである。
 この制度の要点は、誰でもどこかの寺に名前をおかなければならない。おかなければキリシタンのレッテルを貼られたり無宿者となる。これで幕府による民衆管理するシステムができあがり宗教が完全に政治の管理下に入った。
 この制度でお寺の地位は安定したがその反面お寺が戸籍係と葬式担当係に成り下がり布教活動など宗教本来の努力がなおざりになった。

 この制度も幕末になると揺らぎ始めた。幕藩体制の内部からの動揺と欧米列強のわが国への接近が重なり尊王思想が次第に深まっていった。

 明治に入ると天皇を中心とする国家造りが明確に打ち出されそれまでの神仏習合から一転して神仏分離、神道重視、廃仏毀釈へと政策が転換された。
 この流れは太平洋戦争終結までつづき敗戦を機に信教の自由が保証される宗教法人令が施行された。

 ざっと歴史を振り返っただけでわが国の宗教がいかに政治に振り回されたかが分かる。同じように人びとの信仰心も政治に左右されたであろうことも容易に想像がつく。
 先の宗教関連調査の質問に対する高齢世代の回答はその一端を示すものであろう。
 次にこのようなわが国特有の歴史を踏まえて宗教無法地帯ともいえる日本の宗教のあり方について考えてみたい。

2018年3月19日月曜日

無宗教国家日本 4

 日本人にとって神とは何か。
江戸時代の代表的な国学者である本居宣長は仏教、儒教など外来思想ではなく神話など日本古来のものを尊重した。
 日本固有の精神や情緒を尊ぶという意味で日本における原理主義(ファンダメンタリズム)の先駆者である。
 彼は1790年代に著した「古事記伝」のなかで日本人の「神」について定義している。

 「凡て迦微(カミ)とは古御典等(イニシエノフミドモ)に見えたる天地の諸(モロモロ)の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊(ミタマ)をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて、可畏(カシコ)き物を迦微とは云なり。
 すぐれたるとは、尊きこと、善きこと、功(イサオ)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪(アシ)きもの、奇(アヤ)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば神と云なり。」(本居宣長著『古事記伝』三ノ巻)

 出雲大社紫野教会はだいたいの意味を現代語に訳している。そして同教会は、この本居宣長の迦微(カミ)の定義は現在の神道界でも妥当な定義だとして高く評価されていると説明している。

 「神とは古事記などの神話に出てくる神を始め、神社にお祀りされている神霊のことをいい、人間、動植物、海山といった自然など、何であれ普通でない優れたところがあって恐れ多いものを神という。
 優れているというのは、尊いものや善いものや功績があるものなどが良い方向に優れているものに限らず、悪いものや不思議なものなども普通でなく恐れ多いものを神という。」

 悪いものや不思議なものなどとは、具体的には「祟り(タタリ)」などを招くおそれのあるものを迦微(カミ)として崇(アガ)めるということだろうか。
 本居宣長がいう迦微(カミ)とは、このような万物に神が宿るという汎神論のみならず、古事記の天地創成の唯一神をも含む巾広い意味に解釈することも可能である。
 古事記の神話は、混沌の世界が天と地に初めて分かれる時点からスタートする。
 教義の有無(啓典宗教は有り、神道は無し)を除き天地創造という意味ではユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信仰する啓典の民の唯一神と同じである。
 一言でいえば、われわれがおおよそ神として認識しているものをすべて網羅している。

 本居宣長のこの迦微(カミ)の定義から約1世紀後、明治33年(1900年)アメリカ人の初代宣教師デビッド・タムソンは日本在住37年を顧みて、「日本人と宗教」について語っている。

 「日本人は気軽なる人民なり。災難などに遭遇することあるも、長く之れを恐怖すること少なきが如し。
 宗教に於ても正直に信仰す。されど余が今日までの実験に依れば、罪悪のため甚しく悲しむを見たること少し。如何なる人民と雖も其の宗教心に二つなき筈なれど其の環境の異なるに従て、其の傾向を異にするものなり。
 敬畏すべきエホバの神を信ずるユダヤ人と、親しみ易き地蔵観音に依頼する日本人とは、其の宗教心自から異りて、其の信念の傾向を別にするに至るは、止むを得ざることといふべし。」
(森岡清美著佼成出版社『アジア仏教史日本編Ⅷ近代仏教第二章近代社会におけるキリスト教の発展』植村正久と其の時代第一巻から引用 )

 森野氏は日本人の神の概念をキリスト教のそれと比較して言う。

 「気軽で災難を苦にしない代わりに罪悪をも苦にしない日本人は、敬畏すべき神よりも親しみやすい神を慕う、と。
 親しみやすい神とは家の守護神であり、地域の鎮守であり、またこれらの機能を補充する機能神である。
 日本の神仏は多かれ少なかれかかるものとして存立してきた。人間にとって役に立つ神、役に立つように操作可能な神であった。
 このような宗教的世界へ、人間中心ではなく神中心の宗教、神の栄光のために奉仕するところに人間存在の意義を求める宗教が導入されても、受け容れられにくいことは火を見るよりも明らかである。」(前掲書)

 日本人の神についてのデビッド・タイソンのイメージは本居宣長が定義する迦微(カミ)と重なる部分もありそうかけ離れていない。
 このような迦微(カミ)を信じる日本人に神中心のキリスト教が受け容れられないのは止むを得ないことと半ば匙をなげている。

 日本人の原始的な宗教観はこの本居宣長の迦微(カミ)がベースになっているかもしれないが日本の宗教あるいは国教と呼べるものは国策に振り回されてきた歴史がある。特に近世においてはそうである。

2018年3月12日月曜日

無宗教国家日本 3

 「見よ、わたしはヨルダンから、日の入る方、大海までの、このもろもろの残っている国々と、すでにわたしが滅ぼし去ったすべての国々を、くじをもって、あなたがたに分け与え、あなたがたの各部族の嗣業とさせた。」
 「あなた方の前から、その国民を打ち払い、あなたがたの目の前から追い払われるのは、あなた方の神、主である。
 そしてあなた方の神、主が約束されたように、あなたがたは彼らの地を獲るであろう。」
(旧約聖書『ヨシュア記』第23章4~5項 口語訳 日本聖書協会

 これはモーゼの後継者である年老いたヨシュアがイスラエル人を前に語った言葉である。

 敷衍すれば、
 ヨルダン川西のカナンの地の異教徒を皆殺しにし、その土地をクジによって各部族に相続として与えた。
 異教徒を皆殺しにしたのは神の命令による聖戦であり、彼らの地を相続として与えたのは神との約束による。

 ヨシュア記には残酷な様子がこれでもかこれでもかと記述されている。
 アイとエリコの占領時には、神は男のみならず女子供にいたるまで皆殺しの段取りをこと細かに指示している。
 「神を愛せよ。隣人を愛せよ。敵を愛せよ」といった同じ神が、「カナン人を剣にかけて滅ぼせ」と言う。
 矛盾しているようだがキリスト教徒にとっては少しも矛盾していない。
 どちらも神の命令だからである。神の命令は絶対でこれに背くことなどできない。
 異教徒に対する神の教えはかくの如くである。聖書の世界だけでなく近代におけるキリスト教徒による未開社会の原住民虐殺の歴史はつとに知られている。
 彼らの定義にしたがえば異教徒は人間ではなく皆殺しにしても一向にさしつかえなかった。
 旧約聖書は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教それぞれの宗教の母体である。旧約聖書に続いてそれぞれタルムード、新約、コーランを正典としている。
 旧約聖書の教義は時代が変わろうが不変である。時代がすすめば宗教を支える行動様式も洗練されるかもしれないが根っこの部分は変わらない。
 神の命令は絶対であり、人間が判断する余地はゼロ。正しかろうが正しくなかろうが神が決めたことに逆らえないし逆らうこともしない。
 これが敬虔なユダヤ教徒、クリスチャン、ムスリムの生き方である。
 日本人の神に対する接し方はこれと180度異なる。人間が神の命令に従うというより人間の都合で神を利用しようとする。
 合格できますように、就職できますように、結婚できますように、など神より人間優先である。

 旧約聖書を母体とする宗教が今や全世界を覆いつくさんばかりの勢いである。宗教の世界で希有な存在である日本人の生き方が問われている。

2018年3月5日月曜日

無宗教国家日本 2

 宗教離れの傾向は若い世代より高齢世代により顕著に見られるのが日本の現状である。その原因はどこにあるのだろうか。
 原因の一つとして考えられるのは近代化を急いだ日本の歴史的要因がある。
 明治政府は、欧米諸国に追いつき追い越すためには国家国民が一体とならなければならない。そのためには欧米におけるキリスト教のような機軸となるものが必要であるあると考えた。
 日本にはもともと八百万の神を崇める自然崇拝の神道があり、このほか外国から仏教、儒教、キリスト教が入つてきた。
 ところが、これらの宗教が日本に入るや、仏教は戒律をとり払い、儒教は宗教から道徳となり、キリスト教は土着の宗教と習合するなど一段と多神教化が進んだ。
 何れも国家の機軸とするには微弱であるとし、明治政府は、これらに換わるものとして皇室にその機軸を求めた。
 明治21年6月の伊藤博文の憲法演説はその象徴的な出来事である。

 「歐洲に於ては憲法政治の萌芽せる事千餘年、獨り人民の此制度に習熟せるのみならず、また宗教なる者ありて之が機軸を爲し、深く人心に滲潤して人心之に歸一せり。
 然るに我國に在ては宗教なる者其力微弱にして、一つも國家の機軸たるべきものなし。
 佛教は一たび隆盛の勢いを張り上下の人心を繋ぎたるも,今日に至ては已に衰替に傾きたり。神道は祖宗の遺訓に基き之を祖述すとは雖,宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し。
 我国に在て機軸とすべきは独り皇室にあるのみ。是を以て此憲法草案に於ては専ら意を此点に用い,君権を尊重して成る可く之を束縛せざらんことを勉めたり。」
(『枢密院会議筆録』「憲法草案枢密院会議筆記 第一審会議第一読会における伊藤博文枢密院議長の演説」明治21年6月18日,京都での憲法演説)

 幕末から維新にかけ神話教育と尊王の思想が普及し皇室を機軸とする素地はあった。
 だがこの伊藤博文の憲法演説を機に急速に皇室、その中心の天皇を現人神とする教育が徹底された。
 日本の長い歴史で実質上皇室以外の宗教を排除しようとする思想教育はこの明治21年を境に始まったといっていい。
 そしてこの思想は時と共に過激さを増し太平洋戦争突入で頂点に達した。
 大多数の国民は神国日本の不敗を信じ戦った。日本政府によるこの天皇を現人神とする思想教育は明治21年から昭和20年までの半世紀余継続したが敗戦を機にもろくも崩壊した。
 その事実を思い知らしめるものに、神道指令と昭和天皇の人間宣言がある。

 神道指令とは正式には、「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件」(昭和二十年十二月十五日連合国軍最高司令官総司令部参謀副官発第三号(民間情報教育部)終戦連絡中央事務局経由日本政府に対する覚書)であり、
 その要旨は、神社の国家管理禁止、神宮、神社をその他の宗教と同列の宗教法人令による宗教法人扱いとする、神職は公の身分を失い、神社の財産は国家管理から宗教法人に移管するものであった。
 ただここで重要なことは、国家神道という言葉には触れているものの皇室や天皇については一切触れていないことである。
 その理由はGHQが日本国民の天皇に対する感情を考慮し占領政策上あえて触れなかったという見方が有力である。
 このため国家神道は解体されたが、皇室神道は何ら影響を受けなかった。
 神道指令の翌年の元旦に昭和天皇は自らの神格を否定した内容を含む詔書を出された。いわゆる天皇の人間宣言である。日本歴史上まれに見る神格化された現人神・天皇の思想教育の歴史に幕が下ろされた。
 これにより、天皇を神と崇めた時代から象徴天皇へと変わるという思想信条上のアノミーを経験した高齢世代の宗教観に少なからず影響を与えたに違いない。その結果が先の調査結果に現れている。
 人は年とともに宗教に関心を抱くようになる。死を身近に感じるからである。
 老齢になるほど信心深くなるのではなく逆に不信心になるなど通常考えられないような調査結果になっているのはこのような歴史的要因によりものであろう。