2018年12月31日月曜日

建前社会 日本 4

 日本は一部の政治化と官僚や財界のいわゆる「管理者たち」が支配している。
 国民主権は名のみで権力はこれら管理者たちがほしいままにしている。
 これがカレル・ヴァン・ウォルフレン日本論の骨子である。
 主なところを敷衍してみよう
 戦後の奇跡的な経済発展も「管理者たち」の主導によるものであったがそれは国民生活の犠牲の上に築かれたものでありその結果「富める国の貧しい国民」になった。
 政治的には大多数の国民は「知らしむべからず」にされても特段声を大にして抗議しない。
 一部を除き大多数の国民は政治について「しかたがない」と思い特段の関心を抱かない。
 日本独特の記者クラブ制はこの管理者たちによる「知らしむべからず」政策に寄与してきた。
 この制度によってジャーナリストたちの報道の自主制と独立制を損なわれた。
 情報は統制され国民は事実を知る機会が制限された。この制度は戦時中のかの悪名高い大本営発表の伝統を受け継ぐもので日本がいまだ民主主義でない証である。
 民主主義社会では「管理者たち」は主権者である国民に対し自分たちの行動について「説明責任」を果たさなければならない。
 ところが国民が政治に無関心であることを見透かし彼らは「説明責任」を果たさないでやりたい放題である。
 特に官僚は自分たちの管轄領域では事実上主権をにぎりあたかも小国家のように振舞っている。
 このような官僚の専横がまかり通ったのはアメリカという後ろ盾があったればこそである。
 アメリカの後ろ盾が日本の官僚を増長させ政治的説明責任の不在を招いた。
 外交も経済もアメリカの庇護のおかげで日本はわずらわしい外交から免除され経済だけに集中することができた。

 カレル・ヴァン・ウォルフレンは、日本社会を30年にわたり観察してこのような結論に至った。
 何が真実で何が偽りであるか、その内容の豊富さと正確さは驚嘆に値する。
 彼の日本社会に対する指摘は綿密な調査とデータにもとずき反駁の余地がないほど的確であるが、いくつか疑問点はある。

 第1に、カレル・ヴァン・ウォルフレンは、日本の奇跡的経済発展は中流階級の犠牲のうえに築かれたというがはたしてこれは事実か。

 日本人は家庭生活を犠牲にしてまで会社のために尽くすという一面がある。西欧社会ではあり得ないことであろう。
 問題はなぜそうするかである。カレル・ヴァン・ウォルフレンは、「管理者たち」が従順な中流階級にそれを強いたからであるという。
 だがそれは物事の反面を言い表しているにすぎない。
 会社は利益を目的とした機能集団である。一方村落、宗教、血縁などのつながりを基盤とする組織は共同体である。
 戦前まで日本社会は主に隣組、氏子、檀家、親戚などの共同体から成り立っていた。もちろん機能集団たる会社はあったが共同体とは全く別に存在していた。
 ところが敗戦を機に日本は経済優先から次第に会社を中心とした社会へと変わっていった。このため共同体の存在が希薄になり次第に表向きの社会から消滅していった。
 共同体の機能は社会から全くなくなるわけではなく時代の要請からその行く先を会社に求めた。かくて共同体の機能が機能集団である会社に潜り込んだ。
 この結果日本の会社は、機能集団と共同体の性格を合わせもつ組織になった。
 たとえば会社単位でお祭りや運動会を開催したり、社員の家族に不幸があれば休日返上でみんなが手伝いにいく、などは共同体の特徴でこそあれ利益を目的とした機能集団のそれではない。
 このように社員が家庭を犠牲にしてまで会社のために働くのは決して「管理者たち」の強制だけによるものではなく、会社の共同体化によるものでもある。

 第2に、カレル・ヴァン・ウォルフレンは、日本を最も深く理解したという著名なカナダ人研究者E・H・ノーマンの日本評の結論(下)を引用してノーマンの考えに賛成している。

 「日本の少数の独裁者は、自分たちの最大の資源を理解しなかったーすなわち、日本の人びとを。
 明治の独裁者たちは、社会的階層の低位にいる同胞たちに冷淡だった。
 彼らは人びとを酷使し、残忍に扱った。兵士にする以外に価値はないと思い、生産マシーンのもの言わぬ歯車として使うことしか考えなかった。
 明治の少数の独裁者の第一世代は、普通の人びとの偉大な可能性を見誤ったのだ。
 彼らは、日本を近代国家に転換させるという大事業にとりかかったときでさえ、人びとを偉大で自由な国家に貢献する有能な人びとだとは見なさなかった。」
(カレル・ヴァン・ウォルフレン著鈴木主税訳新潮文庫『人間を幸福にしない日本というシステム』) 

 カレル・ヴァン・ウォルフレンは、この明治維新の経緯から「管理者たち」が国民を歯車の一部と考えて日本の非公式の権力システムをほしいままにしている原因であるという。
 下級武士出身の革命家たちが当時の国民をもの言わぬ歯車と考えていたというがそれは説得力に欠ける。
 福澤諭吉の『学問のすすめ』が300万部も売れたという。当時の人口から推定して0歳児を含めた全国民の10人に1人が読んだことになる。驚嘆すべき数字である。
 国民の教育レベルとモチベーションの高さが当時の社会には既に存在していた。このような国民がもの言わぬ歯車であるはずがない。

 第3に、社会変革期の特殊事情がある。
 20世紀オーストリアの心理学者ジークムント・フロイトは幼児期体験の決定的重要性を強調した。
 幼児期の経験は人格形成に影響しその後の人生に影響し続けるという。
 国家もまた然り。たとえばアメリカは独立戦争の前後に多くの偉人を輩出し彼らの言行がその後のアメリカ国民の慣行を規定した。 イギリス革命やフランス革命にも同じような事がいえる。
 韓国の独立は自ら勝ち取ったのではなく日本がアメリカに敗れたことによりもたらされた。この独立の経緯がいまなお韓国の対日感情を束縛している。
 日本は既存体制の綻びと外国の脅威もあり自らの力で明治維新を成功させた。
 この革命を主導したのは一部の下級武士である。
 この事実は重要である。革命を主導した下級武士がその後支配者として君臨したからである。
 近代日本夜明けのこの幼児期体験がその後の日本の行動を規定した。
 この革命で国民の大半は傍観者か付和雷同者にすぎなかったが教育のレベルは高かった。
 社会が変革する時にはあたかもその時を待っていたかのようにどこからともなく英雄・偉人が雲霞のごとく現れてくる。
 彼らは社会的階層の低位にいる物言わぬ人たちの代弁者であってそれらの人たちを蔑んだり物扱いしているわけではない。
 明治維新後に支配者となった下級武士たちとて例外ではない。

 カレル・ヴァン・ウォルフレンは日本評の最後に "最も書きづらい” と前置きしながら日本に対して提言している。その提言につき考えてみたい。

2018年12月24日月曜日

建前社会 日本 3

 日本には明治になるまで法律といえば律令だけであった。もともと日本人は法についてあまり関心がなくそれで特段不自由を感じなかった。
 法意識が芽生えたのは明治になってからである。それも国民生活のためではなく条約改正がキッカケであった。
 条約改正のためには明治政府が法に則った裁判が実施できることという条件を外国から突きつけられたからである。

 明治維新後の日本は、革命のメインプレイヤーである薩長による寡頭政治から始まった。
 寡頭政治家は、西欧に倣い選挙を実施した。選挙で選ばれたものが国民を代表し権力も掌握するはずであるがそれは建前にすぎなかった。

 「彼ら(寡頭政治家)の採用した方式が、今日の日本でも権力配分を決定している。当時、世襲制の原則がくずれ、能力評価の原則がとってかわろうとしていた。
 維新の後何年も、寡頭政治とその延長である官界に加わるための重要な資格は、クーデター(明治維新)に発展した運動に参加したか、あるいは薩摩と長州の武士階級出身者だった。
 その後、できればヨーロッパかアメリカで吸収した ”西洋の知識” を持つことが、重要視されるようになった。
 しかし、20世紀が始まる前後には、国を管理し、 ”情報を握る” 階級に入りこむもっとも確実でほとんど唯一の方法は、東大(東京帝国大学)法学部を卒業することだった。 すでに見たように、これは今日においても日本の学校教育の特徴を決定付ける伝統である。」
(カレル・ヴァン・ウォルフレン著篠原勝訳早川書房『日本権力構造の謎 下』)

 日本の戦前・戦中と戦後は断絶されているというのがこれまでの一般的な見方である。
 だがカレル・ヴァン・ウォルフレンはこの見方に異をとなえている。

 「日本は満州事変のすこし前までは歴史的必然としての ”近代化” 路線をたどっていたのであった。
 狂信的な国粋主義者が日本を脱線させるまで、この国は議会や政党など、立派な近代民主主義社会になるための要素をすべて揃えていたというわけだ。
 この見解は近年、学術研究、特にアメリカの歴史学者の研究によって覆された。
 彼らは日本の帝国建設の努力と抑圧は、明治時代の主だった傾向から育った論理的な発展だとした。
 だが、1945年はそれまで考えられていたような分水嶺ではなく、20世紀前半に遡る権威主義的な制度と手法が、現在の日本を形づくるうえで決定的な要因だったと、一部の学者が指摘したのは1980年代になってからのことであった。
 あと知恵の利をもって、さらにもう一歩進めてこう言える。
 1980年代後期の日本の<システム>は、19世紀末から徐々に形成された官僚的および政治的な勢力の統合強化の産物であり、戦争によって促進された統合物である。」(前掲書)

 わが国の権力の行使が法にもとづかないで一部の有力政治家、官僚、経済界などからなるシステムによっているのは19世紀末から徐々に形成された結果である。
 戦前・戦中の軍部および内務省主導による統制経済と戦後の官僚主導による経済システムは同じであるという。
 もしこの説が正しければ日本の支配システムは政治的責任感の発達した市民を育てる環境を阻害したといえる。
 互いに法によって律する人びとを市民と呼ぶならば19世紀末以降日本には自立した市民はいなかったということになる。日本の支配システムが自立した市民の存在を許さなかったのだ。
 これが法による権利の行使を建前だけに終わらせ、実質的には一部の支配層がシステムとして権利をほしいままにしてきた原因にほかならない。
 カレル・ヴァン・ウォルフレンの主張はデータの裏づけがあり論理も首尾一貫している。
 ここまで彼の主張の骨子を見てきたが最後に彼の主張とそれにいたる根拠の是非につき考えてみたい。

2018年12月17日月曜日

建前社会 日本 2

 日本社会の権力について建前がいかに現実から乖離しているか、このことをしっかりと腑に落とし込み事実を事実として捉えよう。
 すべての出発点はここにある。ここを間違えれば何を問われても見当違いの答えしかでない。
 憲法第9条は第1項の戦争の放棄につづき第2項に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」とある。
 アメリカの軍事力評価機関『Global Firepower』の2018年調査によれば日本の軍事力は世界136カ国中8位である。『戦力不保持』が現実的でないのは明らかでまず事実を誤認することはない。

 しかしこと権力については具体的に目に見えるものではないだけに事実を正しく認識することは容易ではない。
 カレル・ヴァン・ウォルフレンは、日本では憲法をいただき法が支配する民主主義国ではあるまじき方式で権力が行使されているという。

 「理論上は、公式の政府を形成するために選出された政治家たち(すなわち首相率いる内閣の閣僚たち)だけが、官僚を支配する力をもっている。
 しかし、閣僚たちは長いあいだその力を行使していない。彼らは、民主主義国で彼らの役割とされていること、すなわち、政治的説明責任の中枢を形成する努力をしていない。
 国民の代表である政治家がこれほど無力なのは、ほとんど支持されていないからだ。政治家は充分に信頼されていない。そして、頻繁なスキャンダルも政治家が力をもてない原因となっている。
 政治家は本質的に堕落した拝金主義の利己主義者であるという偽りの現実が、スキャンダルのせいで強調されるのだ。 これらの要因がすべてからみあって、日本の現状の原因となっている。
 つまり、日本ほど大規模かつ高度な経済システムがあれば、国民に利益がもたらされるはずなのに、実際の日本の経済システムはそうした利益をもたらしていないのである。
 だが、中流階級は政治勢力から除外されているため、利益を求めて闘うことができない。
 こうして、日本はうわべだけの民主主義国になっている。そうした構造のなかで多くの『民主主義的』儀式が行なわれ、日本の市民を欺く偽りの現実が維持されている。
 うわべだけの民主主義のなかで実際に機能している権力システムは、『官僚独裁主義』と呼ぶべきものだ。
 日本の独裁主義は特異な現象だ。なぜなら、私のよく知っている他の独裁政治体制とちがって、権力が最終的に一人の人間もしくは一つの集団に集中していないからである。
 日本の政治権力は拡散している。政治権力は、官僚と経済界および政界のエリートの上層部というかなり厚い層に分散している。
 そして、この分散した政治権力が日本の政治システムをつくっているのだが、社会が政治化されているために、人びとは権力がどこから行使されているのか感じとれない。実際、権力はいたるところから行使されているように見える。」
(カレル・ヴァン・ウォルフレン著鈴木主税訳新潮文庫『人間を幸福にしない日本というシステム』)

 法による支配、法による権力の行使ではなく、人脈や金脈など複雑にからみあったシステム全体が自己の都合で権力を行使している。

 「首相や閣僚は国の正式な責任者でありながら、実際には、憲法に定められた権力を行使することすらできない。
 本物の指導性を熱望する政治的指導者は必ず、不信と絶えざるサボタージュという、とらえどころがなくて乗り越えがたい壁にぶつかる。
 日本では誰も明確な支配権を与えられていない。日本では個人も集団も、だれも国のすることに責任を取りはしない。日本における指導力はつねに不完全だといえる。」
(カレル・ヴァン・ウォルフレン著篠原勝訳早川書房『日本権力構造の謎 下』)

 かって昭和天皇が病に臥されたとき国民はいっせいに自粛した。このためこれに関連する生業の人たちは商売あがったりで悲鳴をあげた。
 当時、政治学者の丸山真男は、この現象はいわば自粛の全体主義とでもいうべきもので太平洋戦争に突入した全体主義になぞらえた。
 だれが命令したのかわからないが目にみえないなんともいえない強制力がある。
 それは、昭和天皇の健康を気遣うのではない内面性に欠けた道徳的退廃であり命令者が特定されない無責任体制であると断じた。
 丸山真男の指摘は権力がどこから行使されているのか感じとれないというウォルフレンのそれと符号する。
 民主主義においては権力は法にもとづき執り行われるのが原則である。
 だが、わが国ではこれは建前にすぎず『法による権力行使』は事実上床の上の飾り物にされている。
 では、わが国の権力が法ではなくシステムによって行使されるようになった原因は何か。

2018年12月10日月曜日

建前社会 日本 1

 われわれはそれと意識することなく本音と建前を器用に使い分ける。それが物事を円滑に運ぶことを知っているからである。
 田舎より洗練された都会、中でも長い都の伝統ある京都にその傾向が強いことはよく知られている。
 本音と建前を使い分ける度合いは同じでなければならないということはない。地方によって使い分けがあるのはごく自然なことである。

 ところが外国が相手となる国家間では話は全く異なる。本音と建前が乖離しすぎるとまず相手に理解されない。理解されたとしてもそれは弱みを糊塗しているにすぎないと見られかねない。
 事実なべて本音と建前の乖離が大きすぎると国家弱体化のシグナルとなる場合が多い。

 このことを権力と責任の視点から鋭く指摘したのがオランダ人ジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレンである。
 彼は30年以上にわたって日本人の生活と政治社会を観察した。その結果にもとづき偽りの真実を暴き一外国人ジャーナリストとして日本に提言している。
 外国人による日本を礼賛する書は多い。が、辛口評のそれは少ない。
 人は自分が見たいものを見るように、心地いい言葉に耳を傾ける。が、棘のある話は聞きたくない。日本人による日本の悪口も当然のごとく歓迎されない。

 本音と建前が乖離しすぎるとどういうことになるか。一番困ったことは、言っている方もこれを聞いている方もどれが真実か分からなくなってくることである。
 事実が事実として捉えられなくなる。すべての処方箋はまず事実を事実として認識することからはじめなければならないが、この最初でつまずくことになってしまう。
 これに関連してカレル・ヴァン・ウォルフレンは日本社会の権力と責任についてどう見ているか。彼の言説を分析し、是非につき考えてみたい。

2018年12月3日月曜日

会社は誰のものか

 カルロス・ゴーン前日産会長の会長解任劇は会社は誰のものかということを改めて考えさせる。
 資本主義においては言うまでもなく「会社は株主のもの」である。このことに一点の曇りもない。
 だがこれに反する見方をする人が少なからずいることも確かだ。
 会社は法律上は株主のものかもしれないが、実質は経営者と従業員のものである。公器という意味では社会のものでさえある。株主は概念上の所有者にすぎない。こう主張してはばからない。そしてこういう主張は多くの日本人に受け入れられやすい。
 それが証拠にかってフジテレビの経営権をめぐるライブドア事件でホリエモンが激しいバッシングを受けたことが挙げられる。
 資本の論理から理はホリエモンにあったが世論と当局にあえなく葬り去られた。

 日本人は金の力だけで会社を乗っ取ることに拒絶反応する。生理的に受け付けない。血が通っていないという。
 資本主義においては、株主は持ち株数に応じて会社の資産を所有する。これが資本主義の前提である。このことは17世紀のオランダ東インド会社以来変わっていない。
 資産を所有するとは自由に使用、収益、処分することができる権利である。
 株主は自分の資産を焼いて食おうと煮て食おうとかまわない。なぜなら資本主義における所有は絶対であるからである。
 これは道徳、社会通念、善悪、好悪の問題ではない。資本主義が成立するための基本的条件である。これなくして資本主義は成立し得ない。
 資本主義社は、株主が自社の利益を最大化するという原則に支えられている。この原則のためには、意欲的な従業員と満足した顧客を生み出し、コミュニティのよき隣人、責任ある社会の一員となることが求められる。

 資本主義に欠点があることは紛れもない事実である。
 目先の利益に汲々とする。従業員を酷使する一方報酬は従業員に少なく役員に過大に与える。利益のためには環境破壊も辞さない。一言でいえば「強欲」が資本主義の欠点である。
 だが資本主義にはこの欠点を社会にあげつらい反映させる余地がある。欠点を是正するよう影響力を及ぼすことができる。
 が、影響を及ぼすことと会社を所有することは別である。会社は株主のものであり、株主は利益の最大化のために取締役を選ぶ。取締役会は株主の意向を受けて経営者を選ぶ。

 日本では実質的にこの原則が守られていない、この意味において日本は資本主義ではない。
 日本で生起する会社にまつわる摩訶不思議なことー欧米人にはそう映るーはここに淵源がある。