2015年11月30日月曜日

資本主義と自由について 1

 アダム・スミスは、”見えざる手” によって導かれる市場の自由放任を主張した。
 アメリカの経済学者ミルトン・フリードマンはこの思想をさらに徹底した。
 彼の主張は1980年代のロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーなど英米の政治家によって支持された。

 彼曰く、個人の自由は最大限に尊重されなければならない。ただし、国防と必要最小限の政府の機能は例外である。
 自由の尊重とは、個人の自由を尊重するとともに他人の自由を侵害しないことが条件である。
 このことは、ある点では平等を、ある点では不平等を支持することになるという。

 「自由と平等を促進するような政策、たとえば独占を排除して市場機能を強化するような政策こそ、自由主義者にとって好もしい。 不運な人々を助けるための慈善活動は、自由の生かし方として自由主義者にとって望ましい。
 貧困をなくすための政府の事業も、多くの市民にとっての共通目標を達成する効率的な手段として、自由主義者は是認するだろう----ただし、自発的な行動ではなく政府による強制に委ねることを残念に思いながら。
 ここまでは、平等主義者も同じであろう。だが、平等主義者はさらに一歩踏み出そうとする。
 彼らが 『誰かから取り上げて別の誰かにあげる』 ことを認めるのは、目標を達成するための効率的な手段だからではなく、 『正義』 だからなのだ。
 この点に立ち至ったとき、平等は自由と真っ向から対立する。ここでは平等か自由のどちらかしか選べない。
 この意味で、平等主義者であると同時に自由主義者であることはできないのである。」
(ミルトン・フリードマン著村井章子訳日経BP社『資本主義と自由』)

 彼は、何事によらず政府が個人に対して干渉したり強制したりすることはよい結果をもたらさないという。

 「政府の施策が持つ重大な欠陥は、公共の利益と称するものを追求するために、市民の直接的な利益に反するような行動を各人に強いることだ。
 利害の衝突や利害を巡る意見対立が起きたようなときにも、衝突の原因を取り除いたり対立する相手を説得するといったことはせずに、相手に利益に反することを強制しようとする。
 政策が依って立つ価値観は、当事者の価値観ではなくて、第三者の価値観なのだ。
 だから 『これこれが諸君のためになる』 と押し付けたり、『誰かから取り上げて別の誰かにあげる』 ようなことになる。
 しかしこのような政策は、反撃を食う。人類が持っている最も強力で創造的な力の一つ、すなわち何百何千万の人々が自己の利益を追求する力、自己の価値観にしたがって生きようとする力の反撃に遭うのである。
 政府の施策がこうもたびたび正反対の結果を招く最大の原因は、ここにある。この力こそは自由社会が持つ大きな強みの一つであり、政府がいくら規制しようとしてもけっして抑えることはできない。
 いま私は利益という言葉を使ったが、これは何も狭量な私利を意味するのではない。その人にとっての尊い価値、財産や命を投げ出しても守りたい価値すべてをこの言葉は意味している。
 ヒトラーに抵抗して大勢のドイツ人が命を失ったのも、そうした気高い利益を追求した結果である。
 莫大な労力と時間を慈善事業や教育活動や宗教活動に注ぐ人々も、そうだ。
 こうした利益を何より大切にする人は、たしかにごく少数であろう。が、それを存分に追求することを認め、大多数の人の心を占める狭い物質的な利益に屈服させないことこそが、自由社会の良さなのである。
 だから資本主義社会は、共産主義的な社会ほど物質至上主義に陥らない。」(前掲書)

 ミルトン・フリードマンの自由に対する信念は筋金入りで揺るぎない。
 彼のこの信念は、レーガノミクスやサッチャリズムとなって結実し、わが国では、橋本内閣や小泉内閣の政策に影響を及ぼしたと言われている。
 これほどの影響をあたえた彼の思想であるが、万事よいことずくめではない。
 全ての他の思想と同じく与えた影響には光もあれば影もある。その評価も分かれ議論百出であるが、あえて今一度考えてみたい。

2015年11月23日月曜日

日本型資本主義 4

 社会の格差をデータで指摘したトマ・ピケティの『21世紀の資本』が西欧世界で脚光を浴び、それが日本にも波及している。
 格差が著しいアメリカでの反響が特に大きいという。
 格差の問題はいかなる社会体制でもまた時代を問わず常に存在してきた。
 わが国も例外ではないが、アメリカの格差と比較すればまだ穏やかであろう。
 資本主義体制の日本にとっては格差も大きな問題ではあるがそれ以前に解決すべき課題がある。
 資本主義に不可欠な自由な社会基盤が真に担保されているのかという疑問である。
 社会科学者も指摘したように最も成功した社会主義国と言われるようなお国柄である。

 それでは資本主義国 日本の実状はどうか。
 日本は民主主義と市場主義経済の国であることに異論はない。だがそれは建前であり、実態は管理された民主主義と市場主義経済の色が濃い。
 真の民主主義と市場主義経済社会にはみられない日本特有のジャーナリズムと官の関与があるからである。
 分かり易い例を一つ。
 日本社会には、”記者クラブ” なるものが存在する。情報は管理され真に国民が知りたいことは知り得ず建前の情報しか流れてこない。
 新聞、テレビなど現時点でメジャーなメディアの情報はこの手のものばかりである。
 記者クラブは政府機関に限らずひろく民間の隅々まで浸透している。この意味において情報管理はわが国全体に行き渡っている。
 国民が真の情報を知るには、雑誌やインターネットなどの真偽織り交ぜた厖大な情報のなかから推測する他なく、国民の多数は管理された情報を知らされるだけである。  
 この傾向は強くなるばかりで、国境なき記者団が発表した、2015年度の『世界報道自由度ランキング』では日本は過去最低の61位にまで成り下がっている。

 また日本社会には官による ”行政指導” なるものがある。
 行政指導は法律に定められているわけではない。まして国会で議決されたものなどでもない。
 所掌の官僚が裁量により判断し当該業界に指示するやり方である。
 業界もまた阿吽の呼吸でこれを受け止める。この暗黙のルールは無言の圧力となって業界を締め付けこれに逆らうことはできない。逆らえばその結果どうなるかが見えているからである。
 何のことはない、日本は官民が一体となった管理社会ではないか。共産党一党独裁の中国を非難してばかりはいられない。
 真の意味で自由と民主主義を母体とする市場主義経済などとは言えない。

 政府の方針にもまして強い影響力をおよぼしかねない行政指導であるが、この指導は官僚に特有な伝統主義で粛々と実行される。
 伝統主義とは伝統を大切にするという意味ではなく、以前に行われたこと、そのこと自体が正しいとするエートスである。
 社会科学者の大塚久雄博士は伝統主義について説明している。

 「先祖や父母たちがやってきた、そして、自分たちも今までずっとやってきた、そういうことがらを、過去にやった、あるいは過去に行われたという、ただそのことだけで、将来における自分たちの行動の基準にしようとする倫理、あるいはエートスです。」
(大塚久雄著岩波新書『社会科学における人間』)

 役人の世界では、あらゆる不正のもまして許されないものがあるという。それは前例を覆すことである。
 前例に逆らえばその役人の前途は途絶えかねない。
それでは一体、役人はいかなる心構えで仕事するのだろうか。
 『仕事せず』 がその答えである。

 「 『仕事せず』 とは一見仕事しているように見せかけながらも、本当の仕事はするな、具体的に言えば、行政官として新規の事業を自分から旗を振ることは避けろ、ということなんですよ。・・・・・・
 たとえば、ある政策が国民のために役立つとわかっていても、ひとりで動きだせば反対者も必ず出てくる。
 押し切って政策を実現させれば、失敗したら当然、責任を取らされる。
 役所は減点主義で勤務評定にはプラスの面はあまり評価の対象にはならないのです。
 いかにマイナスを出さないようにするか。これが役人の真髄なんですよ。」
(宮本政於著 講談社 『お役所の掟』 )

 革新が命である資本主義にはあり得べからざるエートスである。
 課題を解決するには、何が問題かを正しく認識することが前提である。
 革新が命である資本主義、これとベクトルが180度異なる伝統主義。この違いを認識すること。
 この違いが認識できなければ、瑞穂型資本主義といっても所詮それは空虚に響く。

2015年11月16日月曜日

日本型資本主義 3

 ”ウォール街から世界を席巻した、強欲を原動力とするような資本主義” と再登板前の安倍首相が語ったようにアングロ・サクソン型資本主義は日本人に対して必ずしもよい印象を与えていない。
 
中国は鄧小平の号令によりそれまでの計画経済から社会主義的市場経済政策を採用し資本主義への道を歩むかと思われたが現状はとても資本主義とは言えない。資本主義の母胎となる自由な社会基盤を欠くからである。
 日本は海外の社会科学者から最も成功した社会主義国だと皮肉を込めて揶揄されるように真の資本主義社会とは言えない。
 資本主義社会ではあり得べからざる度を過ぎた官僚の介入を許しているからである。
 資本主義精神である目的合理的精神と行動的禁欲はアングロ・サクソンのピューリタンの中で芽生え発展した。

 アングロ・サクソン型資本主義こそ資本主義の本家本元である。
 資本主義発祥の地イギリスは、中世時代の海賊の本性を発揮し海外の植民地から富を略奪し資本を蓄積し、その資本で産業を興し資本主義社会を実現した。
 資本を蓄積した社会はイギリス以外にも数多く存在したが、何処にも資本主義は芽生えなかった。
 資本主義の精神を欠いていたからである。
 資本主義社会は革新的な企業家・経営者と資本を提供する資本家・銀行家によって成り立つ。
 企業家・経営者は株主利益を最大化するように目的合理的に経営する。
会社は株主のものであるからである。

 ドナルド・ドーアは自著 『金融が乗っ取る世界経済』 のなかで次のように言っている。
 「資本主義が発達するにつれ経済の中で金融の占める割合が大きくなってきた。企業利益のなかで金融の占める割合がアメリカでは1946年から50年の間に9.5%だった金融業の利益の構成比は、2002年に41%に達した。・・・・・
 新自由主義思想が支配する民主国家では、生存権、発言の自由など様々な権利があるが近年 ”所有権” が他の権利より優勢になってきた。」 と。
 新自由主義的アングロ・サクソン型社会では経済の金融化がすすみ富の分配が不均等になり、格差が拡大する。
 またデリバティブ、サブプライムローンに見られる不確実性、不安の増幅と信用の失墜が見られるがこれらは金融資本主義に伴い発生する特性でいわば金融資本主義の副作用である。
 だが資本主義にはこれら痛みを伴う副作用を補って余りある特性がある。
 イノベーション・革新である。近年のイノベーションはバイオ、インターネット等すべてアングロ・サクソン資本主義社会の中で育った。
 資本主義社会でイノベーションが起きなかったらどうなるか。資本主義は衰退し行き着く先は、限られたパイを奪い合う活力なきゼロサム社会に成り果てるであろう。
 この意味において革新・イノベーションは資本主義の命と言ってもいい。
 アングロ・サクソン型資本主義は、劇薬であり、これを飲むにあたっては副作用も覚悟の上でということになる。
 瑞穂の国はいずれの道を採るべきか。

2015年11月9日月曜日

日本型資本主義 2

 2013年4月安倍首相の肝いりで 『目指すべき市場経済システムに関する専門委員会』 という日本型資本主義を議論する専門調査会を設置した。
 目指すところは、企業の利益配分を株主偏重から家計に払う賃金を増やしやすくする環境整備である。
 そして2015年の春闘を前に安倍首相は自ら率先して主要な経済団体に対し賃上げを要請し、経営者側も首相の要請にそれなりに応えた。
 会社はだれのものかとの問い対し,日本の経営者が答える決まり文句がある。

 「法的には会社は株主のものかもしれないが、株主は儲からないとなればすぐ株を売り払ってしまう。
 会社はそこで汗水流して働く経営者と従業員によって成り立つ。実質上会社は経営者と社員のものだ。」

 わが国には戦前、機能集団である会社とは別に村落共同体があった。
 戦後この村落共同体が機能集団である会社に紛れ込み、会社が機能集団と村落集団を併せ持つ集団と化した。
 本来機能集団である会社にはあるまじき会社主催の運動会、文化祭など村落集団が受け持つべき役割をも果たすようになった。
 終身雇用制度と企業内組合による労使協調によって経営者は短期の業績に振り回されることなく腰を据えて長期計画を建てることができた。
 従業員は会社の発展のためとあれば粉骨砕身、場合によっては無報酬で残業を引き受けた。
 会社、経営者、従業員は運命共同体であり、会社のためとあれば極端な場合、違法行為をも辞さない集団と化した。
 会社の内と外の規範が異なることが、この種の集団の特徴であることは、社会学者が指摘するところである。
 また日本経済の際立った特徴として政治家と官僚の深いかかわりがある。
 彼らは利権や利益配分などで財界と癒着し、政官財トライアングル癒着の ”日本株式会社” と揶揄された。
 この現象は高度経済成長期に頂点に達し、日本型資本主義の成果と内外で喧伝された。

 日本型資本主義の大雑把なスケッチはおおよそこんなものであろうか。
 社会学者によれば、資本主義社会になるには、それに叶う条件が充たされなければならないと言う。
 明日から資本主義になりますと宣言しただけでなれるものではない、と。
 その条件とは、行動的禁欲と目的合理的精神を併せ持つ社会であり、労働は救済であるという社会にのみ資本主義は芽生えると言う。

 日本型資本主義は、果たしてこの定義にあてはまるだろうか。
 日本にはもともと資本主義が芽生える素地があったという学者もいる。
 日本の主神 天照大神ははみずから繭を育て機を織った。天皇陛下は毎年決まって田植えをされ、稲を刈り取られるではないか。
 薪を背負って勉学に勤しんだ二宮金次郎の銅像が日本中の小学校校庭にあったではないか。
 これぞ日本人が資本主義精神を生得持ち合わせている証左ではないのか。

 たしかに日本では勤勉が尊ばれ日本人が資本主義の素養を備えていたことは間違いない。
 資本主義社会においては形式的には会社は株主のものである。
 形式的にというが、契約がすべての資本主義社会ではこの形式が全てであり、これ以外の解釈はない。
 また日本人が資本主義精神を充たしているかと言うと必ずしもそうではない。
 特に目的合理的精神の欠如はいかんともし難い。先の大戦でのこの精神の欠如は眼に余る。
 日本は軍国主義と非難されたが、日本が軍国主義であったのは精神論のみであり、戦争に勝利するという目的に対する合理的精神が欠如していたと戦争史家は指摘している。
 このような観点に立てば日本型資本主義が、資本主義でないこと思い半ばに過ぎよう。
 このことを十分腑に落とし込にでおかないとその後の展開が読めなくなってしまう。
 次にアングロサクソン型資本主義とは如何なるものだろう。

2015年11月2日月曜日

日本型資本主義 1

 自民党の安倍晋三議員が再び首相に返り咲く直前の2012年12月雑誌文芸春秋2013年1月号に ”新しい国へ”  というタイトルで自らの資本主義観を披露している。

 「私は瑞穂の国には、瑞穂の国にふさわしい資本主義があるのだろうと思っています。
 自由な競争と開かれた経済を重視しつつ、しかし、ウォール街から世界を席巻した、強欲を原動力とするような資本主義ではなく、道義を重んじ、真の豊かさを知る、瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい市場主義の形があります。」 

 だが安倍議員は首相就任後、瑞穂の国の資本主義など忘れたかのごとく、自らドリルとなって規制を打ち砕きわが国の構造を改革すると内外に宣言し、ひたすらアングロサクソン・新自由主義的政策を推進している。


 またイギリス人社会学者で日本研究家として知られるロナルド・ドーアは2001年に日・独とアングロサクソンの資本主義の違いについて言及しその行く末についてこう述べた。

 「日本型およびドイツ型の資本主義が、ゆくゆくは英米型資本主義に同化するのか - つまりイギリスとアメリカの間の違いぐらいしか両国と違わないようになるのか - という問いかけに対しては、今になっても、この本の最終章を書いた時よりも断定的な結論を下す勇気はない。『結論のない結論』で読者には申し訳ないのだが、あと10年ぐらい待っていただきたい。」
(東洋経済新報社ロナルド・ドーア著藤井眞人訳『日本型資本主義と市場主義の衝突』)

 そして12年後の昨年、日本がより一層新自由主義的政策に傾き日本観が変わったと嘆いた。

 「私の対日観を変えたのは、その後の憂うべき右傾化である。その原因は、中曽根や小泉など、我の強い政治家個人の世界観の影響もあっただろうが、12年前に書いた『日本型資本主義と市場主義の衝突』(東洋経済新報社)で述べたように、米国のビジネス・スクールや経済学大学院で教育された日本の 【洗脳世代】 が、、官庁や企業や政党で少しずつ昇級して、影響を増して、新自由主義的アメリカのモデルに沿うべく、 【構造改革】 というインチキなスローガンの下で、日本を作りかえようとしてきたことが大きな原因だったと思う。」
(藤原書店ロナルド・ドーア著『幻滅』)

 安倍議員によって、”瑞穂の国の” と形容され、またロナルド・ドーアによって”日・独形”と形容されて、アングロサクソン型資本主義と対比される日本型資本主義であるが、この日本型資本主義とは何だろう。アングロサクソン型資本主義とどう違うのか。
 そして日本にとってとるべき道とは。
 わが国は今趨勢としてロナルド・ドーアが指摘したように日本型資本主義からアングロサクソン形資本主義により比重が移っている。
 ここで一度立ち止まってこの問題是非につき問うてみたい。