2013年6月24日月曜日

成長戦略

 アベノミクス第一の矢と第二の矢は望外の成功を収めつつある。
 これに比し、第三の矢 成長戦略はかねて懸念されていたことが現実となりつつある。
 株式市場は、この成長戦略に、いち早く落胆する反応をみせた。
 成長戦略の中核をなす、産業競争力会議の進路に疑問符がついている。
 もともと産業競争力会議の構成メンバーには首を傾げるものがあった。産業界の成功者および小泉政権時の旗振り役が主要なメンバーであったからである。
 産業界の夫々の成功者は、自らの成功体験をもとに成長戦略を描くだろうし、自らの業界がさらに成長するよう提言をするだろうと推測できる。
 典型的なのが、薬のネット解禁である。楽天の三木谷社長が薬のネット販売を解禁しなければ議員を辞するといい、これを当局がとりなし、氏の提言を採用した。
 三木谷社長の主張は業界人としては当然かもしれないが、国家の成長戦略に資する視点からみれば疑問なしとはしない。
 同じく民間議員の竹中氏は小泉政権時の重要閣僚であった。竹中氏は ”成長戦略の一丁目一番地は規制改革” といってはばからない。
 氏は小泉政権時、”改革なくして成長なし” の旗振り役であったことを思うに当然の主張であろう。
 問題はこの主張がアベノミクスの目指す成長戦略のベクトルに合致しているかどうかだ。
 アベノミクスは、20年にわたるデフレからの脱却を最優先に掲げている。
 デフレはいうまでもなく需要不足、供給過剰からくる物価下落に他ならない。
 一方、規制改革は、文字通り、規制を取り払うことによって、これまで参入できなかった人が容易に参入できるようになる。
 いわば生産力増強/供給推進政策であり、デフレ脱却の対極、デフレ推進政策に他ならない。
 この政策は、名城大学 木下教授がいうインフレ時の政策である。
 生産したものは必ず売れるという ”セイの法則” は、インフレ期や未成熟社会では通用するかもしれないが、成熟したデフレ期の日本社会には通用しない。
 この20年間、デフレに苦しんだ日本経済がなによりのその証左になる。
 成長戦略でさらに問題となるところは、官主導である。どの分野が成長し、どの分野がそうではないのか、一体だれが一番わかるのか。
 高度成長期の日本の産業政策は一つの参考となろう。
 高度成長期、日いずる国 日本は、城山三郎の小説 ”官僚たちの夏” に描かれたように、通商産業省の主導で、高度成長の道を驀進した。誰もが、官僚主導による高度成長を疑わなかった。
 が、当然のことながら、この時代も、成長した分野とそうでなかった分野がある。
 高度に成長した分野は、ホンダ、ソニー、パナソニックに代表される政府の産業政策の枠外で力強く発展した企業・業界であった。
 一方、コンピュータ、半導体、繊維産業等、比較的政府の干渉があった業界の産業政策の成否の評価は意見が分かれている。 日本の高度成長は、政府・官僚の産業政策とは係わりないところが実質上牽引したといってもいい。
 この事例を見る限り、どの産業・企業を育成すべきか政府に正しく判別できるのか疑問である。
 内閣府参与 浜田宏一博士は、アベノミクス第一の矢と第二の矢はマクロの経済政策だが、第三の矢 成長戦略はミクロの経済政策であると指摘している。
 同博士は第三の矢 成長戦略は前述したように生産力増強の政策でもあると指摘している。ミクロの政策であれば、政府の政策には馴染まないし、そして生産力増強政策はデフレ脱却に馴染まないどころかブレーキ要因でさえある。
 第三の矢については、政府が急遽検討している投資減税等マクロの政策に回帰することが政府のなすべき仕事ではないか。
 政府がミクロの政策に係わればかかわるほど混乱が助長される。政府の仕事ぶりの公平さに、国民の間で疑念が生じ兼ねないからだ。
 政府の干渉はマクロに止め、ミクロは民間に任せる。
 高度成長期の産業政策の教訓はそのように示唆している。

2013年6月17日月曜日

日本維新の会

 日本維新の会の橋下共同代表の慰安婦発言がきっかけとなり、日本維新の会の凋落が止まらない。
 党勢は今年3月ごろから陰りがみえていたが、5月24~25日に実施した日本経済新聞社の世論調査では参院選投票先では前月比6ポイント減の3%と急落し、民主党に抜かれた。(日本経済新聞)
 大阪維新の会の旗揚げで彗星の如く政界に新風を吹き込み一時は民主党の支持を上回り自民党にも迫る勢いであったことを思うに、昭和の政治家 川島正次郎の名言 ”政界一寸先は闇” がいまさらながら新鮮味を帯びる。
 日本維新の会の興隆は、橋下氏個人の人気が発端で、その後橋下氏の元に自薦他薦を含め、政界、官界、言論界、その他当代の人気者が馳せ参じ橋下氏自身もこれを積極的に受け入れた。
 民主党政権時の閉塞感も相俟って、国民の支持も広がり、いよいよ平成の維新到来かと思わせた。
 が、日本経済新聞社の指摘にあるように今年3月ごろから徐々に党勢に陰りが見えた。
 周囲の期待とは裏腹に、肝心の橋下氏自身の行動が煮え切らなかったところが大きい。
 言葉は歯切れよくとも行動が伴わない。大阪市長職に留まるのか、それともこれを辞して、国政選挙に打って出るのか。
 彼は、この何れでもなく、大阪市長のままで、国政選挙に打って出る可能性を模索した。
 彼は、これで大阪市民にも、国民にも支持が得られると考えたのだろうか。
 このような中途半端な決断は、波風たたない世相では、あるいは有効かもしれないが、激動の時代には通用しないし、人々の期待を裏切りかねない。

 19世紀フランスの第3共和政治下で、フランスを孤立させる外交方針展開していたドイツのビスマルクに対抗すべく反議会主義的・反共和主義的運動の主役を演じた、ジョルジュ・ブーランジェ将軍の悲劇はそのことを如実に物語っている。
 当時のフランスはドイツへの復讐に燃え、国民的英雄を待望する気運に充ちていた。
 そこに登場したのがブーランジェ将軍である。ブーランジェは当初、時勢が共和派に傾いていると見るや、共和制に加担する演説を行い共和派の支持をえた。
 が、内閣交代を機に、ブーランジェの人気に恐れをなした政府は彼を更迭した。このことがかえって彼の人気に拍車をかけ政府の権威は失墜した。
 これ以降ブーランジェは、これまでの方針を一転、反共和主義勢力に接近した。ついには反議会・反共和主義運動の主役にまで祭りあげられた。
 熱狂した群衆は彼を全盛期のナポレオン一世の姿に重ね合わせた。
 これでフランスが再びヨーロッパの支配者になる日がくるかもしれないと。
 そして彼にクーデターの実行を促すまでに立ち至った。
 彼の側近は、ついにブーランジェを指導者とするクーデター計画を練った。
 ブーランジェを熱狂的に支持する押し寄せる群衆を前に、彼がただ一言命令を発すれば、群衆は雪崩を打ってエリゼ宮に突入しただろう。政府も半ばクーデターを覚悟した。
 が、肝心のブーランジェ本人が実行をためらった。彼は、彼のルビコン河を渡るのをためらい岸辺に立ったまま動かなかった。
 クーデター計画は瓦解し、新しく内相になったコンスタンがブーランジェ一派の壊滅に乗り出した。
 政府は、ブーランジェに反逆罪容疑で逮捕状を発した。危険を感じたブーランジェはベルギーに亡命し、その後悲惨な結末を迎えた。
 ブーランジェがクーデター計画の実行をためらったのは、自分にはこれ程の人気があるから、何もクーデターに頼らずとも、正当の手続きで権力の座につける筈であると読んだからであった。
 これを日和見主義・自己過信が生んだ悲劇と言わずして何と言おう。

 日本維新の会は、党勢挽回のため米軍のオスプレイの八尾空港受け入れ提案など必死の努力をしているように見える。
 が、逆回転した激流を食い止めるのは至難の技だ。
 日本維新の会の ”太陽の季節” ははたして終わったのだろうか。
結果はいずれ判明する。

        ローマの太陽は没した。
        われわれの日は去った。
        雲が、露が、そして危険が訪れる。
        われわれの仕事は終わったのだ。
                  シェークスピア「ジュリアス・シーザ」

2013年6月10日月曜日

将棋とコンピュータ

 将棋の5人のプロ棋士と5本の将棋ソフトが戦う第2回電王戦が今年5月行われ将棋ソフトの3勝1敗1引き分けの結果に終わった。
 公式戦でプロ棋士が初めて将棋ソフトに負けた戦いでもあった。
 プロ棋士といえば将棋ファンにとってエリート中のエリート、天才集団である。
 この5人の天才があえなく団体戦で将棋ソフトに惨敗した。
 将棋ファンにしてみれば天才が機械に負け将棋の神話がもろくも崩壊した瞬間でもあった。
 一人の棋士は現時点で未だ備えが十分とはいえないコンピュータの入玉対策の虚をついて引き分けに持ち込んだが、対局後の感想で団体戦だから途中投了など考えられなかったと感極まって泣いた。
 チームワークという日本人のDNAが機械相手にも発揮されようとは驚きであるが、この棋士の涙は将棋とコンピュータの転機の象徴的なものとなるだろう。
 チェスの場合は、世界チャンピオンがとっくにコンピュータに負けており、今やコンピュータは人間同士の戦いを評価する側になっている。
 人間が指した手が、コンピュータがはじきだした最善手に合致しているかどうかが興味の対象となっている。
 将棋がいづれチェスの途を辿ることになるだろう。このことは囲碁にも当て嵌まる。ただ、囲碁はゲームの性質上、時期的にかなり先になるといわれている。
 プロ棋士が当たり前にコンピュータに負ける時代になったら将棋の魅力は失せるのだろうか。
 そうなるとも思えない。第一ゲームの性質が異なる。よく人間と自動車の競争にたとえられる。
 100m競走は今でもオリンピックの花形だ。そろばんとコンピュータの関係も同じだ。そろばんは脳を鍛えるとしていまだに根強い人気がある。
 そうはいっても、人間とコンピュータが戦えば、どうしても人間のほうを応援したくなる。
 人間に限りない可能性を追求してもらいたいからであり、それにまた、人々は自らを擬してもいるのだろう。
 が、コンピュータも人間の創造物であり、コンピュータソフトも人間の苦心の作である。
 こちらを全く応援しないというのも片手落ちを否めない。
 人間とコンピュータの共存共栄などと格好いいことをいっても所詮は戦いだ、冷静に受け止めるしかない。
 現に、将棋ソフトの作者は、人間とコンピュータの戦いでは、目的とするところは、将棋ソフトの性能向上であり、人間に勝つことではないといっている。
 時機がくればコンピュータが人間を凌駕することは必然と受け止め、彼らの狙いは、むしろ他の将棋ソフトとの戦いに勝つことを目標としている。
 この将棋ソフトの作者の考えは、ひろく人間とコンピュータの係わりを考える上でヒントになろう。
 いずれ名人クラスでもコンピュータに太刀打ちできない時がこよう。そうなったとしても将棋ファンのプロ棋士に対する眼差しは変わることはないし、将棋の面白さをいささかも減ずることはないだろう。
 かってイギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーはいった
 「12~13歳までにその民族の神話を学ばなかった民族は例外なく100年後滅んでいる」 と。
 コンピュータの出現によって日本の神話が滅ぶことなどなかった。
 天才棋士に対する神話も例外ではなかろう。




2013年6月3日月曜日

携帯電話

 おのぼりさんになって、久々に銀座に出かけた。電車の中は、かなりの割合で人々は携帯電話を操作している。殆どが、はやりのスマートフォンのようだ。
 数十年前の元旦の新聞に、未来の社会の想像図として、主婦が端末を操作し情報や家電を制御している様子があったように記憶しているが、それがまさに現実の世界になっている。
 便利な世の中になったからといって、必ずしも人々は幸せになるとは限らない、などと野暮なことをいうつもりはない。
 が、携帯電話が人々の生活様式を一変させたことは間違いない。
 詳しくは社会学者の分析を待たなければならないが、おおよそ次のことはいえるだろう。
 まっ先に思いつくのが、携帯電話の悪用だ。”オレオレ詐欺”は、高齢者から貴重な老後の資金を巻き上げる非情な犯罪の道具として使われている。”オレオレ詐欺”は手を替え品を替え未だに猛威を振るっている。
 次に思いつくのが、人ごみの中で、大声で、またはひそひそ声で携帯に向って話しかけていることだ。この光景に慣れてしまったのでなんとも思わなくなったが、冷静に考えるとこの光景は普通ではない。
 本来会話は人と人であるが、目のまえの光景はそうではない。目のまえで人間が機械に話しかけている。そんなことに違和感を覚えるおまえがどうかしているといはれそうだがなんとも腑におちない。
 携帯電話でゲームをする若者の集中力はすごい。この集中力を勉強に向けたらさぞかし学校で良い成績をあげるだろう、などと勉強に一向に集中できなかった身として余計なことを考えてしまう。
 一方、こんな若者が成長し、大人になり多数を占める社会は、いったいどんな社会になるのだろうかと、一抹の不安を感じないでもない。
 この心配が、「近頃の若者は・・・」と大昔から言われてきてはなにごともなかったように杞憂であってほしいと願う。
 あまりよろしくない例ばかりあげたが、携帯電話が、電話機能だけでなく、インターネットも当たり前に使えることによって、大袈裟にいえば、世界の情報が瞬時に、しかも手軽に、手にいれることができるようになったことは画期的なことである。
 10万馬力の鉄腕アトムではないが、我々は、携帯電話を持つことによって、情報に関しては、鉄腕アトムの力を得たことになる。  インターネットを利用することによって、博覧強記といわれた昔の大学者に匹敵する知識を瞬時に得ることもできる。
 知識が必ずしも知恵に結びつくとは限らない、などとスネた発言をするつもりはない。
 どのような手段で知識を得、それをどのようにして自らの血肉としていくかは、畢竟、属人的な問題であるからである。
 エベレストの頂上に到達するのに、徒歩でいくのも、ヘリコプターで舞い降りるのも、頂上に到達したことに変わりない。
 が、頂上に到達するまでの過程および到達したときの感激は比較するまでもない。
 携帯電話とかインターネットは、便利な道具であるが、過信すると思わぬ落とし穴が待っているかもしれない。
 我々人間の肉体は、そんなに急激に生まれ変われるとは思えないから。