わが国では、いま少子高齢化が加速度的に進んでいる。特に地方ではひところ限界集落ということがいわれていたが、今や消滅集落ということがいわれている。
さらに日本独特のものとして東京一極集中の極点社会ということもいわれている。
内閣府は、このままの勢いで人口減少が続けば日本の人口は、現在の12752万人から2060年に8674万人、2110年に4286万人まで減少する。
地方の問題として、2040年時点で約1800自治体のうち、523自治体は「消滅可能性」が高い、と試算している。(2014年2月24日内閣府資料『目指すべき日本の未来の姿について』)
第一次ベビーブームの団塊の世代(1947~1951生)と団塊の世代の子の第二次ベビーブームの頃、狭い国土に人口が多すぎだという人はいたかもしれないが、人口減少を危惧する声なぞ聞いたことがない。
折りしもバブルが発生し土地が暴騰した。やがてバブルは弾けその反動もあってか、少子化がすすみ核家族化し、さらに最近は一人暮らしが増えている。
雰囲気とか流れに弱いのは日本人の骨がらみの病であり変わりようがない。
雰囲気に流されるのはやむを得ないとしても、これを利用しようとする人がいても不思議ではない。
最近特に生産年齢人口減少の対策として外国人労働者の受け入れが議論の的になっている。賛否両論がある。
外国人労働者の受け入れは西欧諸国の事例をみるかぎり移民問題へと発展する重要な政策である。基本に立ち返り議論さるべき政策課題である。
移民政策には、その前提に人口問題がある。
「食料の伸びは等差級数的であるが人口の伸びは等比級数的である」はあまりにも有名。これを言ったのは近代人口問題の草分けイギリスのトマス・ロバート・マルサスであるが、彼は1798年に「人口の原理に関する一論」を発表した。
その骨子は
①人口は生活資料(人間が生きていくためのに必要な食料や衣料などの生活物資)が増加するところでは、常に増加する。逆に生活資料によって必ず制約される。
②人口は幾何(等比)級数的に増加し、生活資料は算術(等差)級数的に増加するから、人口は常に生活資料の水準を越えて増加する。その結果、人口と生活資料の間には、必然的に不均衡が発生する。
③不均衡が発生すると、人口集団には、それを是正しようとする力が働く。人口に対してはその増加を抑えようとする「積極的妨げ(主として窮乏と罪悪)」や「予防的妨げ(主として結婚延期による出生の抑制)」が、また生活資料に対してはその水準を高めようとする「人為的努力(耕地拡大や収穫拡大など)」が、それぞれ発生する。
④人為的努力によって改めてもたらされる、新たな均衡状態は、人口、生活資料とも以前より高い水準で実現される。」
(古田隆彦著PHP研究所『人口減少日本はこう変わる』 から)
人口は増加する一方ではない。減少することもある。戦争とか疫病以外でも、人口と食料などの生活資料のバランスが崩れたら人為的な人口抑制が働き人口は減少する。
人口は増減を繰り返し波動を辿る。(下図)
近年、西欧諸国は、このマルサスの人口波動に逆らうような移民政策を行ってきた。そしてわが国でも官民双方から、外国人労働者の受け入れを本格的に検討するようになった。
外国人労働者の受け入れは移民政策につながる。これは「国のありかた」を変える一大政策であり慎重にとり扱われるべきである。
賛成、反対双方の論拠を順次検証してみたい。
2014年6月30日月曜日
2014年6月23日月曜日
「目覚めた獅子」中国 8
法概念については中国と日本および欧米とはまるで違う。このことは経済活動のルールの根幹が異なっていることを意味している。
鄧小平は「儲けることはいいことだ。」といったが、これはなにも資本主義はいいからそれにしよう、と言ったわけではない。
彼は1992年の南巡講話で、計画経済も市場経済もすべて手段であり、社会主義と資本主義の質において違いはないと言っている。
日本や欧米のエコノミストが中国の将来は資本主義のルールを受け入れるか否かにかかっている、などと言うのは中国人にとって受け入れられるものではないし、仮に受け入れようと努力してもそれを許さない中国人の行動様式と歴史がある。
中国の将来については興味が尽きない。壮大な社会実験を見ているかのようだ。
近い将来アメリカを凌駕し世界の覇権を握ると言う人もいるし、経済の破綻をきっかけに体制が崩壊し社会が大混乱に陥ると言う人もいる。
先に紹介した余華氏は近い将来、革命が起きるかまたは一歩ずつ確実に民主的な社会に進むかであるといった。
津上俊哉氏は近い将来、中国がアメリカを凌駕し世界の覇権を握ることはない。さりとて習近平改革が失敗し瓦解しても日中両国にとっていいことは何もないといった。
中国人と親しく付き合ったことのある人はよく 「中国人は頭がいい」 という。津上氏もそう言っている。
丹羽宇一郎前中国大使は、先日松江市の講演で大使在任時公用車の国旗が奪われた事件に言及し、「その通りから5分も歩けば暴挙とは無縁の中国人の普段通りの生活がある。
中国は経済成長を遂げ大国に変化してきている。(日本人は)そのことを理解しなければならない。
また、12年の米ハーバード大への留学者を例に挙げ、日本人よりはるかに多くの中国人が進学していることを紹介。
日本はもっと教育に力を入れなければならない。技術も追い抜かれるかもしれない。」(YOMIURI ONLINE2014年6月18日)
といった。
これら個人的体験は中国の現状および将来像を知るうえで肌で感じた貴重な情報である。
しかし自ら体験した範囲に限定された中国像である限り、必ずしも中国の全体像に直結するとは限らない。
個人的体験を積み重ねても体験できない部分については類推の域をでない。自ずから限界がある。
まして膨大な国土、民族、人口およぶ悠久の歴史ある中国については特にそうである。
かかる場合全体を理解するには社会科学による研究が不可欠である。
社会科学による研究は、太平洋戦争で総力戦といいながらその実、日本が殆ど活用しなかった分野でもある。
中国を本当に理解するためには歴史に如くはないと小室博士は言う。
「社会科学に実験はできない。自然科学とはちがって社会科学の進歩がおそい所以である。
しかし、同型の事象が、続けてはてしなく生起してくれれば、実験をしなくても、実験をしたのときわめて類似性の高い条件が見出されるであろう。
また、ウェーバー派の比較社会学の座標軸としても、中国史は絶好なのである。
このように、中国史というサンプルは、歴史家を不幸にするが、科学者をこのうえなく幸福にするのである。
『類似の事件』が『延々と繰り返し』生起するが故に、そこに法則を発見し得るからである。(中略)
われわれは、中国史のなかに中国の本質を発見し得るのである。中国史は、如何なる調査よりも有効に、中国人の基本的行動様式を教えてくれるのである。
このさい、中国人が歴史をどう意識するのかは関係ない。中国人の歴史知識とも関係ないのである。
社会法則は、人間の意志や意識とは関係なく独立に動く。
このことは英国古典派によって発見され、マルクスはこれを人間疎外と呼んだ。」(小室直樹著徳間書店『小室直樹の中国原論』)
そして、フロイトの精神分析は本来民族単位の分析が本流であるとし、フロイトの理論を展開して次のように結論づけている。
「各個人に無意識があるごとく、民族などの集団にも無意識がある。
ゆえに、個人において幼児体験が決定的な意味をもつがごとく、民族においても、太古における『幼児体験』が決定的な意味をもつ。
幼児体験は、強力な複合体となって無意識の底に盤踞していて、人間行動を規定する。民族行動もまた同じ。
このように考えれば、歴史を貫徹している社会法則は、滅多なことでは変わるものではない。
ウェーバーも、人間の基本的行動様式は、滅多なことでは変わるものではないことを強調している。
人民革命や文化大革命にもかかわらず、毛沢東の教育にもかかわらず、中国史を貫く社会法則は不変である。」(同上)
中国は太古から幾度となく王朝がかわった。革命が起き天子が変わっても姓は変わるがその他は変わらなかった。易姓革命といわれた所以である。
社会法則に従えば、この伝統は将来とも変わることがないと考えるのが妥当だ。
現代は毛沢東による革命を経て、改革解放政策による社会主義市場経済を掲げる共産党王朝の時代といえる。
この王朝は幇と宗族という人間関係を背景に社会規範がなりたち、法家の思想によって統治されている。
日本や欧米の政治家・エコノミストは中国は国際社会のルールを受け入れるようにと働きかける。
国際社会のルールとは、その実、資本主義のルールに他ならない。中国にとってとても受け入れられるものではない。
ここに中国の将来は運命づけられている。
今日の近代社会は、資本主義とリベラル・デモクラシーと近代法が三位一体となって成り立っている。三位一体とはどれが欠けても成り立たないことは言わずもがな。
中国はこのどれにも該当しないことは既に述べた。
鄧小平は社会主義も資本主義も手段であって質において変わりはないといったが、これほど資本主義の理解から程遠いものはない。
余華氏は計画経済でも高度成長は可能であり、中国はそれを証明したといった。
確かに中国は高度成長を遂げ大量の外貨も稼いだ。
が、計画経済はソ連邦の崩壊で既に実証されているように、合理的な経営形態でないため組織が高度化すれば分業が困難になって成長が壁に突き当たる。
中国の場合は、行動様式が目的合理的精神よりも人間関係が重要視されるなど、おおよそ資本主義の精神と対蹠的であるためさらにひどいことになる。
さりとて理財商品や不動産バブルの崩壊も心配されているが共産党のコントロール下で日本や欧米流の急激な崩壊はあり得ないだろう。
人口13億5千万のうち共産党員8千5百万人(2012年末現在)による中国人民に対する実質支配。
共産党を宗主とする植民地的支配は経済の好調さで辛うじて社会の安定が保たれてきた。
が、経済の綻びを糊塗するにも限界がある。経済の停滞とともに共産党体制も茨の道を辿るであろう。
対外的には、近隣諸国との領土紛争、人権問題 国内的には、格差拡大、環境汚染、一人っ子政策のツケ、言論統制、少数民族問題など成長を阻害する要因には事欠かない。
人間関係優先の行動様式は深く中国社会に根付いており、高度な経済の発展に寄与する目的合理的精神を寄せ付けない。
成長の限界が訪れ、中国の歴史が証明するように王朝はいずれ代わる。変わったとしても社会規範は以前と同じ。この繰り返し。
習近平主席は「中華民族の偉大な復興を成し遂げる」という夢を語るが、そのハードルはあまりにも高い。
昨今の派手な経済的、軍事的プレゼンスにも拘わらず、中国は近い将来アメリカを凌駕することなく、むしろ経済の停滞とともに社会的混乱に陥ると見るべきだろう。
共産党が崩壊すれば、津上俊哉氏が言うように
「世界第2位の経済大国にして、複数核弾頭を搭載した大陸間弾道弾(MIRV)を擁する国がアンコントロールになる。」(文春新書 津上俊哉著『中国停滞の核心』)
この意味において、「中国が目覚めると世界を震撼させるだろう」 と言ったナポレオンの予言は不幸にも的中することになる。
鄧小平は「儲けることはいいことだ。」といったが、これはなにも資本主義はいいからそれにしよう、と言ったわけではない。
彼は1992年の南巡講話で、計画経済も市場経済もすべて手段であり、社会主義と資本主義の質において違いはないと言っている。
日本や欧米のエコノミストが中国の将来は資本主義のルールを受け入れるか否かにかかっている、などと言うのは中国人にとって受け入れられるものではないし、仮に受け入れようと努力してもそれを許さない中国人の行動様式と歴史がある。
中国の将来については興味が尽きない。壮大な社会実験を見ているかのようだ。
近い将来アメリカを凌駕し世界の覇権を握ると言う人もいるし、経済の破綻をきっかけに体制が崩壊し社会が大混乱に陥ると言う人もいる。
先に紹介した余華氏は近い将来、革命が起きるかまたは一歩ずつ確実に民主的な社会に進むかであるといった。
津上俊哉氏は近い将来、中国がアメリカを凌駕し世界の覇権を握ることはない。さりとて習近平改革が失敗し瓦解しても日中両国にとっていいことは何もないといった。
中国人と親しく付き合ったことのある人はよく 「中国人は頭がいい」 という。津上氏もそう言っている。
丹羽宇一郎前中国大使は、先日松江市の講演で大使在任時公用車の国旗が奪われた事件に言及し、「その通りから5分も歩けば暴挙とは無縁の中国人の普段通りの生活がある。
中国は経済成長を遂げ大国に変化してきている。(日本人は)そのことを理解しなければならない。
また、12年の米ハーバード大への留学者を例に挙げ、日本人よりはるかに多くの中国人が進学していることを紹介。
日本はもっと教育に力を入れなければならない。技術も追い抜かれるかもしれない。」(YOMIURI ONLINE2014年6月18日)
といった。
これら個人的体験は中国の現状および将来像を知るうえで肌で感じた貴重な情報である。
しかし自ら体験した範囲に限定された中国像である限り、必ずしも中国の全体像に直結するとは限らない。
個人的体験を積み重ねても体験できない部分については類推の域をでない。自ずから限界がある。
まして膨大な国土、民族、人口およぶ悠久の歴史ある中国については特にそうである。
かかる場合全体を理解するには社会科学による研究が不可欠である。
社会科学による研究は、太平洋戦争で総力戦といいながらその実、日本が殆ど活用しなかった分野でもある。
中国を本当に理解するためには歴史に如くはないと小室博士は言う。
「社会科学に実験はできない。自然科学とはちがって社会科学の進歩がおそい所以である。
しかし、同型の事象が、続けてはてしなく生起してくれれば、実験をしなくても、実験をしたのときわめて類似性の高い条件が見出されるであろう。
また、ウェーバー派の比較社会学の座標軸としても、中国史は絶好なのである。
このように、中国史というサンプルは、歴史家を不幸にするが、科学者をこのうえなく幸福にするのである。
『類似の事件』が『延々と繰り返し』生起するが故に、そこに法則を発見し得るからである。(中略)
われわれは、中国史のなかに中国の本質を発見し得るのである。中国史は、如何なる調査よりも有効に、中国人の基本的行動様式を教えてくれるのである。
このさい、中国人が歴史をどう意識するのかは関係ない。中国人の歴史知識とも関係ないのである。
社会法則は、人間の意志や意識とは関係なく独立に動く。
このことは英国古典派によって発見され、マルクスはこれを人間疎外と呼んだ。」(小室直樹著徳間書店『小室直樹の中国原論』)
そして、フロイトの精神分析は本来民族単位の分析が本流であるとし、フロイトの理論を展開して次のように結論づけている。
「各個人に無意識があるごとく、民族などの集団にも無意識がある。
ゆえに、個人において幼児体験が決定的な意味をもつがごとく、民族においても、太古における『幼児体験』が決定的な意味をもつ。
幼児体験は、強力な複合体となって無意識の底に盤踞していて、人間行動を規定する。民族行動もまた同じ。
このように考えれば、歴史を貫徹している社会法則は、滅多なことでは変わるものではない。
ウェーバーも、人間の基本的行動様式は、滅多なことでは変わるものではないことを強調している。
人民革命や文化大革命にもかかわらず、毛沢東の教育にもかかわらず、中国史を貫く社会法則は不変である。」(同上)
中国は太古から幾度となく王朝がかわった。革命が起き天子が変わっても姓は変わるがその他は変わらなかった。易姓革命といわれた所以である。
社会法則に従えば、この伝統は将来とも変わることがないと考えるのが妥当だ。
現代は毛沢東による革命を経て、改革解放政策による社会主義市場経済を掲げる共産党王朝の時代といえる。
この王朝は幇と宗族という人間関係を背景に社会規範がなりたち、法家の思想によって統治されている。
日本や欧米の政治家・エコノミストは中国は国際社会のルールを受け入れるようにと働きかける。
国際社会のルールとは、その実、資本主義のルールに他ならない。中国にとってとても受け入れられるものではない。
ここに中国の将来は運命づけられている。
今日の近代社会は、資本主義とリベラル・デモクラシーと近代法が三位一体となって成り立っている。三位一体とはどれが欠けても成り立たないことは言わずもがな。
中国はこのどれにも該当しないことは既に述べた。
鄧小平は社会主義も資本主義も手段であって質において変わりはないといったが、これほど資本主義の理解から程遠いものはない。
余華氏は計画経済でも高度成長は可能であり、中国はそれを証明したといった。
確かに中国は高度成長を遂げ大量の外貨も稼いだ。
が、計画経済はソ連邦の崩壊で既に実証されているように、合理的な経営形態でないため組織が高度化すれば分業が困難になって成長が壁に突き当たる。
中国の場合は、行動様式が目的合理的精神よりも人間関係が重要視されるなど、おおよそ資本主義の精神と対蹠的であるためさらにひどいことになる。
さりとて理財商品や不動産バブルの崩壊も心配されているが共産党のコントロール下で日本や欧米流の急激な崩壊はあり得ないだろう。
人口13億5千万のうち共産党員8千5百万人(2012年末現在)による中国人民に対する実質支配。
共産党を宗主とする植民地的支配は経済の好調さで辛うじて社会の安定が保たれてきた。
が、経済の綻びを糊塗するにも限界がある。経済の停滞とともに共産党体制も茨の道を辿るであろう。
対外的には、近隣諸国との領土紛争、人権問題 国内的には、格差拡大、環境汚染、一人っ子政策のツケ、言論統制、少数民族問題など成長を阻害する要因には事欠かない。
人間関係優先の行動様式は深く中国社会に根付いており、高度な経済の発展に寄与する目的合理的精神を寄せ付けない。
成長の限界が訪れ、中国の歴史が証明するように王朝はいずれ代わる。変わったとしても社会規範は以前と同じ。この繰り返し。
習近平主席は「中華民族の偉大な復興を成し遂げる」という夢を語るが、そのハードルはあまりにも高い。
昨今の派手な経済的、軍事的プレゼンスにも拘わらず、中国は近い将来アメリカを凌駕することなく、むしろ経済の停滞とともに社会的混乱に陥ると見るべきだろう。
共産党が崩壊すれば、津上俊哉氏が言うように
「世界第2位の経済大国にして、複数核弾頭を搭載した大陸間弾道弾(MIRV)を擁する国がアンコントロールになる。」(文春新書 津上俊哉著『中国停滞の核心』)
この意味において、「中国が目覚めると世界を震撼させるだろう」 と言ったナポレオンの予言は不幸にも的中することになる。
2014年6月16日月曜日
「目覚めた獅子」中国 7
去る6月1日シンガポールで開かれたアジア安全保障会議で、インドの出席者が、中国が南シナ海の大半に独自に9本の境界線を引き自国領と主張しているのは国際法とは相いれないと批判した。
これに対し中国人民解放軍の王冠中副総参謀長は、南シナ海のスプラトリー(南沙)諸島やパラセル(西沙)諸島は2千年以上前に中国が発見し管轄下に置いたと答えた。
日本政府はことあるごとに、東シナ海、南シナ海の問題解決には力による現状変更ではなく法の支配による解決をと、暗に中国を念頭に発言している。
軍事力や経済力を背景とした力任せの秩序破りをやめ法に従い問題を解決しましょうといわけだ。
至極まっとうな要求である。が、中国は言う、ケチをつけられる謂れはなにもない、我々は法に従って行動している、と。
なぜこうも見解が異なるのか。中国の法について分析してみたい。
まず、中国の司法の現状から。
中国の裁判制度は最高人民法院を頂点として二審制を採用している。
中国の憲法は裁判の独立を謳っているが下図に示すごとく最高人民法院は独立していない。
人事的にも予算的にも共産党の影響下にあり、実質上中国の裁判制度は共産党の意向が反映される仕組みになっている。
中国の国家機構構成図(Record China. 中国基本情報資料)
明治に至るまで、日本には法の概念はなかった。律令はあったが、とても近代法概念とは程遠い。
日本人は法律がなくてもさして困らなかった。外国と殆ど交流のなかった明治期までは法律が生活に役立つなど考えもしなかった。
ただ明治になってはじめて法律の必要性を感じた。条約改正である。これを嚆矢として近代法を導入した。何もないところに欧米流の近代法を導入した。
近代法を導入したはいいがそこは日本流、現代に至るも、法制局長官による憲法第九条解釈が大きな影響力を及ぼしているように、官僚の恣意的解釈がはばをきかせている。欧米ではあり得べからざることである。
建前はともかく、日本が無条件に欧米流近代法になじんでいない証左でもある。
サッカーJ1 元名古屋グランパスのアーセン・ベンゲル監督はかって言った。
「日本人はヨーロッパを美しく誤解している。日本では当たり前に通用する善意や思いやりは、ヨーロッパでは全く通じない。
隙あらばだまそうとする奴ばかりだ。日本が東京のような大都会とすれば、ヨーロッパはアフリカのサバンナのようなところだ。」
リップサービスと割り引いて考えても現代のヨーロッパ人の感想だ。近世のヨーロッパの社会秩序は現代よりよかったとは思えない。
サバンナで生活するには厳格な法概念は不可欠だ。ヨーロッパで近代法が誕生したのは自然な成り行きであった。
中国はどうか。
中国には既に二千数百年前に富国強兵と官僚体制を根本とする法家の思想があった。
これは非常に発達したもので改革の度ごとに法律をつくっている。
ところが中国の法律は儒教を背景とした法家の思想によって立法されているため、欧米流の近代法とは全く違う。
日本と違って高度に発達した二千年来の法家の思想を持つ中国は欧米流の近代法を受け入れることはしなかった。
これが法についての考えが、中国と日本および中国と欧米の間で天と地ほどの開きがある原因となっている。
ただ、中国は、1997年に刑法についてそれまでになかった欧米流近代法の罪刑法定主義を採用したように一部変化の兆しはある。
小室博士は中国の道徳の背景には儒教があると言う。
「仏教、イスラム教、キリスト教は、個人救済の宗教である。
ところが、儒教は個人救済なんて一切関係ない、集団救済の宗教である。中国の本質の一つは、ここに見てとることができる。
欧米近代社会のルールでは、個人でも集団でも、いったん契約を交わしたら相手が国家であれ何であれ、一方的な都合でその契約を破ることは許されない。
ところが、『よい政治を行うことが大事』だとする中国においては、政策が変われば個人と結んだ契約などどうでもいい。
個々人がどんな迷惑を被ったところで『よい政治』のためならばそんなこと知ったことではない、と考えるのである。
これを要約すれば、中国人が信用できるか否かの問題ではなく、道徳の根本の前提がちがうのだということなのである。」(小室直樹著徳間書店『小室直樹の中国原論』)
小室博士は、中国と日本および欧米は、道徳だけでなく法概念も前提がちがっているという。
「近代法がイギリス、アメリカといった国々で進歩してきたのは、いくつかの革命を通してである。そして欧米諸国に定着した。
ではそのテーマは何かというと、一言で言えば、法律というのは政治権力から国民の権利を守るものである、ということ。
近代法はそういう立場に立っている。
清教徒革命(1642~1660年)、名誉革命(1688年)、それからアメリカ独立宣言(1776年)、フランス革命(1789年)、これらに一貫して流れている精神は、法律とは権力に対する人民の抵抗であるという思想なのだ。
人民が主権者から自分たちを守る盾、それが法律であると。
ところが、このような精神がまったく欠落しているのが法家の思想(法教)、中国の法概念なのである。
立法だとか、法の行使だとか、そういう点についてはとても進んでいるが、『法律とは政治権力から国民の権利を守るものである』という考え方がまるでない。
考えてみれば、それも当然のことであろう。法家の思想において法律とは、統治のための方法なのだから、法律はつまり為政者、権力者のものなのである。
韓非子もはっきり言っている。法律を解釈するときは役人を先生としなさいと。
この場合の『役人』というのは、いまでいう行政官僚のこと。
一方、近代の欧米社会において、法律の最終的解釈を行うのは裁判所だ。裁判所の前では、行政官僚といっても普通の人とまったく同じである。
とにかく、近代社会における司法権力の最大の役割は、行政権力から人民の権利を守ることなのだから。
こうした考え方が法家の思想には全然ない。いま指摘したように、法律の解釈はすべて役人がにぎっている。
ということは、端的に言えば、役人(行政官僚)は法律を勝手に解釈していいということなのである。」(前掲書)
これに対し中国人民解放軍の王冠中副総参謀長は、南シナ海のスプラトリー(南沙)諸島やパラセル(西沙)諸島は2千年以上前に中国が発見し管轄下に置いたと答えた。
日本政府はことあるごとに、東シナ海、南シナ海の問題解決には力による現状変更ではなく法の支配による解決をと、暗に中国を念頭に発言している。
軍事力や経済力を背景とした力任せの秩序破りをやめ法に従い問題を解決しましょうといわけだ。
至極まっとうな要求である。が、中国は言う、ケチをつけられる謂れはなにもない、我々は法に従って行動している、と。
なぜこうも見解が異なるのか。中国の法について分析してみたい。
まず、中国の司法の現状から。
中国の裁判制度は最高人民法院を頂点として二審制を採用している。
中国の憲法は裁判の独立を謳っているが下図に示すごとく最高人民法院は独立していない。
人事的にも予算的にも共産党の影響下にあり、実質上中国の裁判制度は共産党の意向が反映される仕組みになっている。
中国の国家機構構成図(Record China. 中国基本情報資料)
次に法概念について。
明治に至るまで、日本には法の概念はなかった。律令はあったが、とても近代法概念とは程遠い。
日本人は法律がなくてもさして困らなかった。外国と殆ど交流のなかった明治期までは法律が生活に役立つなど考えもしなかった。
ただ明治になってはじめて法律の必要性を感じた。条約改正である。これを嚆矢として近代法を導入した。何もないところに欧米流の近代法を導入した。
近代法を導入したはいいがそこは日本流、現代に至るも、法制局長官による憲法第九条解釈が大きな影響力を及ぼしているように、官僚の恣意的解釈がはばをきかせている。欧米ではあり得べからざることである。
建前はともかく、日本が無条件に欧米流近代法になじんでいない証左でもある。
サッカーJ1 元名古屋グランパスのアーセン・ベンゲル監督はかって言った。
「日本人はヨーロッパを美しく誤解している。日本では当たり前に通用する善意や思いやりは、ヨーロッパでは全く通じない。
隙あらばだまそうとする奴ばかりだ。日本が東京のような大都会とすれば、ヨーロッパはアフリカのサバンナのようなところだ。」
リップサービスと割り引いて考えても現代のヨーロッパ人の感想だ。近世のヨーロッパの社会秩序は現代よりよかったとは思えない。
サバンナで生活するには厳格な法概念は不可欠だ。ヨーロッパで近代法が誕生したのは自然な成り行きであった。
中国はどうか。
中国には既に二千数百年前に富国強兵と官僚体制を根本とする法家の思想があった。
これは非常に発達したもので改革の度ごとに法律をつくっている。
ところが中国の法律は儒教を背景とした法家の思想によって立法されているため、欧米流の近代法とは全く違う。
日本と違って高度に発達した二千年来の法家の思想を持つ中国は欧米流の近代法を受け入れることはしなかった。
これが法についての考えが、中国と日本および中国と欧米の間で天と地ほどの開きがある原因となっている。
ただ、中国は、1997年に刑法についてそれまでになかった欧米流近代法の罪刑法定主義を採用したように一部変化の兆しはある。
小室博士は中国の道徳の背景には儒教があると言う。
「仏教、イスラム教、キリスト教は、個人救済の宗教である。
ところが、儒教は個人救済なんて一切関係ない、集団救済の宗教である。中国の本質の一つは、ここに見てとることができる。
欧米近代社会のルールでは、個人でも集団でも、いったん契約を交わしたら相手が国家であれ何であれ、一方的な都合でその契約を破ることは許されない。
ところが、『よい政治を行うことが大事』だとする中国においては、政策が変われば個人と結んだ契約などどうでもいい。
個々人がどんな迷惑を被ったところで『よい政治』のためならばそんなこと知ったことではない、と考えるのである。
これを要約すれば、中国人が信用できるか否かの問題ではなく、道徳の根本の前提がちがうのだということなのである。」(小室直樹著徳間書店『小室直樹の中国原論』)
小室博士は、中国と日本および欧米は、道徳だけでなく法概念も前提がちがっているという。
「近代法がイギリス、アメリカといった国々で進歩してきたのは、いくつかの革命を通してである。そして欧米諸国に定着した。
ではそのテーマは何かというと、一言で言えば、法律というのは政治権力から国民の権利を守るものである、ということ。
近代法はそういう立場に立っている。
清教徒革命(1642~1660年)、名誉革命(1688年)、それからアメリカ独立宣言(1776年)、フランス革命(1789年)、これらに一貫して流れている精神は、法律とは権力に対する人民の抵抗であるという思想なのだ。
人民が主権者から自分たちを守る盾、それが法律であると。
ところが、このような精神がまったく欠落しているのが法家の思想(法教)、中国の法概念なのである。
立法だとか、法の行使だとか、そういう点についてはとても進んでいるが、『法律とは政治権力から国民の権利を守るものである』という考え方がまるでない。
考えてみれば、それも当然のことであろう。法家の思想において法律とは、統治のための方法なのだから、法律はつまり為政者、権力者のものなのである。
韓非子もはっきり言っている。法律を解釈するときは役人を先生としなさいと。
この場合の『役人』というのは、いまでいう行政官僚のこと。
一方、近代の欧米社会において、法律の最終的解釈を行うのは裁判所だ。裁判所の前では、行政官僚といっても普通の人とまったく同じである。
とにかく、近代社会における司法権力の最大の役割は、行政権力から人民の権利を守ることなのだから。
こうした考え方が法家の思想には全然ない。いま指摘したように、法律の解釈はすべて役人がにぎっている。
ということは、端的に言えば、役人(行政官僚)は法律を勝手に解釈していいということなのである。」(前掲書)
日本政府がいくら力による現状変更ではなく法の支配による問題解決といったところで、中国と日本および欧米との法に対する考えがまるでちがっているから話がかみ合わない。
冒頭の人民解放軍 副総参謀長をはじめ、中国側の発言は、法概念の前提がちがっているため理解しようにも理解できるものではない。中国もまた日本および欧米の法を理解できない。
法解釈に限っていえば、双方にとって猿の惑星に来て議論しているようなものだ。
目覚めた獅子の行く末やいかに。
冒頭の人民解放軍 副総参謀長をはじめ、中国側の発言は、法概念の前提がちがっているため理解しようにも理解できるものではない。中国もまた日本および欧米の法を理解できない。
法解釈に限っていえば、双方にとって猿の惑星に来て議論しているようなものだ。
目覚めた獅子の行く末やいかに。
2014年6月9日月曜日
「目覚めた獅子」中国 6
ある国民の基本的な行動様式は、その国の長い間の歴史と伝統によって培われたものであり、一朝一夕に変わるものではない。
例えば、先の大戦下の日本人と現在の日本人の行動様式はどうか。天皇を頂点とする村落共同体から会社等を中心とする職場へと変わったが、生活の基盤が共同体であることに変化はない。 共同体の内と外の規範が異なる二重規範も同じ。表面的には変わっても基本部分は何ら変わっていない。
村落共同体下では共同で田植えした。これに手伝わなければたちまち村八分。現在は、職場の誰かの親族の葬儀があればこぞって参列する。社長の親族の葬儀ともなれば、これに参列しなければ冷や飯を食わされること間違いなし。
野球の選手は親が危篤であっても重要な試合であれば欠場しない。それが親の望みでもあるから。
このように日本社会は、今も昔も、仕事を中心に共同体が形成されている。
一方、妻の育児を手伝うためにに大事な試合を放棄して帰国する外国人選手にチームメイトもファンもただ唖然とする。
行動様式はかくも違う。
中国はどうか。およそわれわれが想像だにできないような共同体によって社会が構成されている。
タテの共同体たる宗族とヨコの共同体たる幇(ほう)以下である。中国の歴史を跋渉した小室博士は解説する。
「幇は共同体である。共同体の第一の特色は、二重規範にある。共同体の中の規範と外の規範とは全然ちがう。(中略)
幇内の規範は絶対的である。誰もが絶対に無条件で守らなければならない。
いかなることにも斟酌の余地は全くない。断じてあり得ない。
これに比べ、幇外の規範(倫理、道徳、法律)は、すべて相対的である。これを守るかどうかは、当人の人格・人柄、当該の条件・状況・事情による。つねに斟酌の余地がある。
ここが、中国の本格的理解の急所である。マルクスならば、『ここがロードス島だ、おどってみろ』と言うところだ。」(小室直樹著徳間書店『小室直樹の中国原論』)
なお中国のヨコの共同体は 知人→関係→情誼→幇 の順に強くなっていく。
「中国は父系社会である。父を同じくする者が一つの集団(父系集団)をつくる。これが父系社会である。
父→子、によって集団をつくるという原則は、何代までもくりかえすことができるから、父系集団はいくらでも大きくなりうる。
この父系集団が十分大きくなったとき、これを宗族という。(中略)
この宗族が中国人にとってどれほど重要であるか、血縁を知らぬ日本人には想像すらできまい。
日本人は、去る者日々に疎し、などと言い、遠くの親戚よりも近くの隣人を大事にし、頼りにする。
ひとたびムラから出て行った人の子供がムラに帰ってきても、なかなかとけこめるものではない。
それどころか、もとはムラの住人であった本人すら、何十年ぶりになつかしのムラに帰ってきても、人間関係がよそよそしくなっていて居心地はよくない。
日本人は、こんなことは世界共通の現象だと思っているかもしれないが、これこそ、とんでもない誤解だ。
これは、血縁なき社会たる日本の特徴なのである。
中国は全然ちがう。中国では、同一宗族に属する一度も会ったことのない若者が二人、サンフランシスコあたりでばったり顔を合わせたとき、そうだとわかると、たちまち、兄弟のごとく親しくなってしまう。
日本人には信じられないかもしれないが、れっきとした事実なんだから仕方がない。
宗族のなかに優秀な子がいると、見ず知らずの間柄でも、大金を投じて留学させてやる。こんなことは少しも珍しくない。」(小室直樹著光文社『資本主義中国の挑戦』)
中国はタテの宗族、ヨコの 知人→関係→情誼→幇 と順次強くなる複雑な共同体からなっている。それぞれの内の規範と外の規範は天と地ほど異なる。
中国人にとって、タテの共同体に属さず、いかなるヨコの共同体にも属さない人間は、中国人にとってはいわば化外の民にも等しく、極論すれば中華文明の及ばぬ未開人である。
勿論、時代がすすみ、グローバル化の現代においては、いかに中国人といえども、まともにこのように考える人はいまい。
が、宗族と幇からなるタテヨコの共同体は深く中国社会に根付いていて折にふれ中国人の心に頭をもたげ、行動を束縛して離さない。
ルース・ベネディクトが指摘した日本人の恥の文化が折にふれ日本人の心に頭をもたげるように。
このことを十分腑に落とし込まなければ中国を理解することなど到底無理だ。
先に記したように中国人の基本的な行動様式は、時代が変わり、体制が変わっても変わることはない。毛沢東以前も毛沢東以後も中国人の基本的行動様式は同じ。
中国でビジネスする困難さは夙に言われているがその背景にはこのような中国独特の日本とも西欧とも異なる共同体規範の存在がある。
さらに中国とのビジネスを困難にし見逃せないものに法に対する考え方がある。
これは、今日、日中間の諸問題の原因の一つになっているほど深刻な問題である。
例えば、先の大戦下の日本人と現在の日本人の行動様式はどうか。天皇を頂点とする村落共同体から会社等を中心とする職場へと変わったが、生活の基盤が共同体であることに変化はない。 共同体の内と外の規範が異なる二重規範も同じ。表面的には変わっても基本部分は何ら変わっていない。
村落共同体下では共同で田植えした。これに手伝わなければたちまち村八分。現在は、職場の誰かの親族の葬儀があればこぞって参列する。社長の親族の葬儀ともなれば、これに参列しなければ冷や飯を食わされること間違いなし。
野球の選手は親が危篤であっても重要な試合であれば欠場しない。それが親の望みでもあるから。
このように日本社会は、今も昔も、仕事を中心に共同体が形成されている。
一方、妻の育児を手伝うためにに大事な試合を放棄して帰国する外国人選手にチームメイトもファンもただ唖然とする。
行動様式はかくも違う。
中国はどうか。およそわれわれが想像だにできないような共同体によって社会が構成されている。
タテの共同体たる宗族とヨコの共同体たる幇(ほう)以下である。中国の歴史を跋渉した小室博士は解説する。
「幇は共同体である。共同体の第一の特色は、二重規範にある。共同体の中の規範と外の規範とは全然ちがう。(中略)
幇内の規範は絶対的である。誰もが絶対に無条件で守らなければならない。
いかなることにも斟酌の余地は全くない。断じてあり得ない。
これに比べ、幇外の規範(倫理、道徳、法律)は、すべて相対的である。これを守るかどうかは、当人の人格・人柄、当該の条件・状況・事情による。つねに斟酌の余地がある。
ここが、中国の本格的理解の急所である。マルクスならば、『ここがロードス島だ、おどってみろ』と言うところだ。」(小室直樹著徳間書店『小室直樹の中国原論』)
なお中国のヨコの共同体は 知人→関係→情誼→幇 の順に強くなっていく。
「中国は父系社会である。父を同じくする者が一つの集団(父系集団)をつくる。これが父系社会である。
父→子、によって集団をつくるという原則は、何代までもくりかえすことができるから、父系集団はいくらでも大きくなりうる。
この父系集団が十分大きくなったとき、これを宗族という。(中略)
この宗族が中国人にとってどれほど重要であるか、血縁を知らぬ日本人には想像すらできまい。
日本人は、去る者日々に疎し、などと言い、遠くの親戚よりも近くの隣人を大事にし、頼りにする。
ひとたびムラから出て行った人の子供がムラに帰ってきても、なかなかとけこめるものではない。
それどころか、もとはムラの住人であった本人すら、何十年ぶりになつかしのムラに帰ってきても、人間関係がよそよそしくなっていて居心地はよくない。
日本人は、こんなことは世界共通の現象だと思っているかもしれないが、これこそ、とんでもない誤解だ。
これは、血縁なき社会たる日本の特徴なのである。
中国は全然ちがう。中国では、同一宗族に属する一度も会ったことのない若者が二人、サンフランシスコあたりでばったり顔を合わせたとき、そうだとわかると、たちまち、兄弟のごとく親しくなってしまう。
日本人には信じられないかもしれないが、れっきとした事実なんだから仕方がない。
宗族のなかに優秀な子がいると、見ず知らずの間柄でも、大金を投じて留学させてやる。こんなことは少しも珍しくない。」(小室直樹著光文社『資本主義中国の挑戦』)
中国はタテの宗族、ヨコの 知人→関係→情誼→幇 と順次強くなる複雑な共同体からなっている。それぞれの内の規範と外の規範は天と地ほど異なる。
中国人にとって、タテの共同体に属さず、いかなるヨコの共同体にも属さない人間は、中国人にとってはいわば化外の民にも等しく、極論すれば中華文明の及ばぬ未開人である。
勿論、時代がすすみ、グローバル化の現代においては、いかに中国人といえども、まともにこのように考える人はいまい。
が、宗族と幇からなるタテヨコの共同体は深く中国社会に根付いていて折にふれ中国人の心に頭をもたげ、行動を束縛して離さない。
ルース・ベネディクトが指摘した日本人の恥の文化が折にふれ日本人の心に頭をもたげるように。
このことを十分腑に落とし込まなければ中国を理解することなど到底無理だ。
先に記したように中国人の基本的な行動様式は、時代が変わり、体制が変わっても変わることはない。毛沢東以前も毛沢東以後も中国人の基本的行動様式は同じ。
中国でビジネスする困難さは夙に言われているがその背景にはこのような中国独特の日本とも西欧とも異なる共同体規範の存在がある。
さらに中国とのビジネスを困難にし見逃せないものに法に対する考え方がある。
これは、今日、日中間の諸問題の原因の一つになっているほど深刻な問題である。
2014年6月2日月曜日
「目覚めた獅子」中国 5
中国の高成長は、天安門事件以降の1991年にはじまった。
中国は豊富で低廉な人件費を武器に改革開放政策のもと外資を呼び入れ、アメリカ、ヨーロッパ、日本へ集中豪雨のごとく製品を輸出し、これらの国々には中国製品で溢れかえった。
が、2008年のリーマンショックを契機に先進国の購買力に陰りがでるや、中国は世界に先駆けて4兆元投資による景気持ち上げ策を強行し、それまでの輸出主導から一転して投資へと景気のエンジンを切り変えた。
2008年以降毎年20%以上のペースで投資を伸ばしたことは既に述べた。
行き過ぎた投資による経済成長も当然のごとく壁に突き当たった。輸出と投資による成長も限界にきて、2012年あたりから中国の成長に暗雲が漂った。
そして習近平政権になってからはじめての2013年11月 三中全会でこれまでの投資による経済成長は限界にきているとの懸念が表明され、規制緩和、権限委譲、三次産業の振興等による経済成長に舵が大きく切り替えられた。
中国の成長の行方は三中全会で決定された事項の成否にかかっているといってもいい。その経済政策は下記のごとくかってないほど大胆で、革新的、意欲的である。
経済成長の勢いを最大限に生かすには市場に権限を委譲しイノベーションを強化しなければならない。そのためには企業が市場の主役を担わなければならない。
中国は国有企業が圧倒的に優位である。
三中全会決定では自由な競争、法治の徹底をうたっているが、国有企業と集団所有企業のいわゆる公有企業が主導的地位であることが明記されている。
共産党政権による政策決定の限界がここに垣間見れる。
公有企業優先でイノベーションを進める。ただでさえ非効率な公有企業がイノベーションを押し進める。
そんなことでイノベーションが易々とできるくらいなら経済学200年の歴史はなんであったのかということになる。
10年前に比べ改革の文言がより多く盛り込まれていることは習近平政権の意気込みが感じられるが、習近平政権は政治的には少数民族弾圧、メディア統制、毛沢東礼賛など保守的政策に傾いている。
政左経右ともいわれる中国の前途を見極めるのは難しい。
「 『政左経右』は果たして成り立つのだろうか?『誰も逆らえない専制君主が正しい政策を効率よく推し進める』ーしかし、世界の歴史は『そうは問屋が卸さない』ことを物語っている。
三中全会が強調する『市場経済』の理念も突きつめていくと、『開明的な専制君主』とは本質的な衝突がある。
(中略)
習近平主席は三中全会決定で『背水の陣』を敷いた。
この改革が停滞するようなら、我々は中国が真正の経済危機に陥ることを想定に織り込まなければならなくなる。
だからこの『習近平改革』の成功を祈りたいというと、日本では『親中派め!』 と悪口を言われそうだが、ここは冷静に考えてほしい。
いま中国共産党が力を失えば、世界第2位の経済大国にして、複数核弾頭を搭載した大陸間弾道弾(MIRV)を擁する国がアンコントロールになる。
それは隣国日本に、世界にどういう影響を及ぼすか。いまの共産党体制が崩壊しても、中国という国がなくなる訳ではない。
後を継いで政権を担うのは、どういうグループになるのか。そのグループがいまの共産党よりマシである保証はまったくないのである。
後継政権は体制崩壊後の困難を山ほど抱えるだろう。未熟な政権がその困難に直面したとき、対外的にフレンドリーな態度をとる可能性は、むしろ低いと思っておいた方がよい。
嫌いな中国や共産党の崩壊を願うのは『熊さん八っつぁん』の感覚である。」
(文春新書 津上俊哉著『中国停滞の核心』)
今や中国抜きで世界の政治や経済は語れない。中国の20年超にわたる高度成長によって先進諸国は経済的に互恵関係を築けたことは紛れもない事実である。
が、忘れてならないことは、人民とは一線を画し共産党政権の存立があらゆるものに優先するという思想が三中全会決定の底流をなしていることである。
言論統制、少数民族弾圧、、遅々として進まない格差是正と環境汚染対策等の中国の現実から判断すれば、中国は共産党官僚を宗主とする新種の植民地ともいえる。
共産中国といかに付き合うべきか?
植民地政権や独裁政権との付き合い方の例は枚挙に暇がないというのがその答えである。
が、これで中国との付き合い方が分かったなどと思うのは浅薄の謗りを免れない。
それはあくまでも中国に対する日本や西欧の基準を尺度にした理解に過ぎない。
中国の歴史や中国人の行動様式抜きの理解など、ほんの上っ面に過ぎず、とても中国を理解したなどと言えない。
中国を真に理解するためには、中国の歴史や中国人の心に深く溶け込んでいる行動様式を理解することが不可欠である。
中国は豊富で低廉な人件費を武器に改革開放政策のもと外資を呼び入れ、アメリカ、ヨーロッパ、日本へ集中豪雨のごとく製品を輸出し、これらの国々には中国製品で溢れかえった。
が、2008年のリーマンショックを契機に先進国の購買力に陰りがでるや、中国は世界に先駆けて4兆元投資による景気持ち上げ策を強行し、それまでの輸出主導から一転して投資へと景気のエンジンを切り変えた。
2008年以降毎年20%以上のペースで投資を伸ばしたことは既に述べた。
行き過ぎた投資による経済成長も当然のごとく壁に突き当たった。輸出と投資による成長も限界にきて、2012年あたりから中国の成長に暗雲が漂った。
そして習近平政権になってからはじめての2013年11月 三中全会でこれまでの投資による経済成長は限界にきているとの懸念が表明され、規制緩和、権限委譲、三次産業の振興等による経済成長に舵が大きく切り替えられた。
中国の成長の行方は三中全会で決定された事項の成否にかかっているといってもいい。その経済政策は下記のごとくかってないほど大胆で、革新的、意欲的である。
三中全会で示した経済分野の改革方針(三井物産戦略研究所八ッ井琢磨氏資料)
土地制度
・都市と農村の統一的な建設用地市場を構築
・農村集団経営の建設用地の譲渡、賃貸を許可
・農業請負経営権の抵当、担保の権利を認める
金 融
・人民元レートの市場化メカニズムの改善
・金利市場化、資本取引自由化の実現の加速
・預金保険制度、破綻処理制度の整備
戸籍制度
・小都市への移住制限を全面的に開放
・常住人口全てに都市基本公共サービスを提供
・都市部の農民を社会保障体系に組み入れ
国有企業
・国有企業の投資事業に非国有企業の出資を許可
・国有独占業種で行政・企業機能を分離
・公有制は主体的地位、非公有制も支持
人口政策 社会保障
・夫婦の一方が一人っ子なら 2 人目出産許可
・段階的な定年退職年齢の引き上げを検討
・国有企業の国庫納付拡大、社会保障財源に
税 財 政
・増値税改革の推進、不動産税の立法作業加速
・地方税体系の改善
・中央と地方の収入区分を調整
価格政策
・水、エネルギー、交通、通信などで価格改革
・市場で価格形成できるものは市場に任せる
・農産物の価格形成メカニズムを改善
対外開放
・金融、教育などサービス分野で投資規制緩和
・上海自由貿易区を通じた改革の深化
・周辺地区を基礎とした FTA 戦略の加速
経済成長の勢いを最大限に生かすには市場に権限を委譲しイノベーションを強化しなければならない。そのためには企業が市場の主役を担わなければならない。
中国は国有企業が圧倒的に優位である。
三中全会決定では自由な競争、法治の徹底をうたっているが、国有企業と集団所有企業のいわゆる公有企業が主導的地位であることが明記されている。
共産党政権による政策決定の限界がここに垣間見れる。
公有企業優先でイノベーションを進める。ただでさえ非効率な公有企業がイノベーションを押し進める。
そんなことでイノベーションが易々とできるくらいなら経済学200年の歴史はなんであったのかということになる。
10年前に比べ改革の文言がより多く盛り込まれていることは習近平政権の意気込みが感じられるが、習近平政権は政治的には少数民族弾圧、メディア統制、毛沢東礼賛など保守的政策に傾いている。
政左経右ともいわれる中国の前途を見極めるのは難しい。
「 『政左経右』は果たして成り立つのだろうか?『誰も逆らえない専制君主が正しい政策を効率よく推し進める』ーしかし、世界の歴史は『そうは問屋が卸さない』ことを物語っている。
三中全会が強調する『市場経済』の理念も突きつめていくと、『開明的な専制君主』とは本質的な衝突がある。
(中略)
習近平主席は三中全会決定で『背水の陣』を敷いた。
この改革が停滞するようなら、我々は中国が真正の経済危機に陥ることを想定に織り込まなければならなくなる。
だからこの『習近平改革』の成功を祈りたいというと、日本では『親中派め!』 と悪口を言われそうだが、ここは冷静に考えてほしい。
いま中国共産党が力を失えば、世界第2位の経済大国にして、複数核弾頭を搭載した大陸間弾道弾(MIRV)を擁する国がアンコントロールになる。
それは隣国日本に、世界にどういう影響を及ぼすか。いまの共産党体制が崩壊しても、中国という国がなくなる訳ではない。
後を継いで政権を担うのは、どういうグループになるのか。そのグループがいまの共産党よりマシである保証はまったくないのである。
後継政権は体制崩壊後の困難を山ほど抱えるだろう。未熟な政権がその困難に直面したとき、対外的にフレンドリーな態度をとる可能性は、むしろ低いと思っておいた方がよい。
嫌いな中国や共産党の崩壊を願うのは『熊さん八っつぁん』の感覚である。」
(文春新書 津上俊哉著『中国停滞の核心』)
今や中国抜きで世界の政治や経済は語れない。中国の20年超にわたる高度成長によって先進諸国は経済的に互恵関係を築けたことは紛れもない事実である。
が、忘れてならないことは、人民とは一線を画し共産党政権の存立があらゆるものに優先するという思想が三中全会決定の底流をなしていることである。
言論統制、少数民族弾圧、、遅々として進まない格差是正と環境汚染対策等の中国の現実から判断すれば、中国は共産党官僚を宗主とする新種の植民地ともいえる。
共産中国といかに付き合うべきか?
植民地政権や独裁政権との付き合い方の例は枚挙に暇がないというのがその答えである。
が、これで中国との付き合い方が分かったなどと思うのは浅薄の謗りを免れない。
それはあくまでも中国に対する日本や西欧の基準を尺度にした理解に過ぎない。
中国の歴史や中国人の行動様式抜きの理解など、ほんの上っ面に過ぎず、とても中国を理解したなどと言えない。
中国を真に理解するためには、中国の歴史や中国人の心に深く溶け込んでいる行動様式を理解することが不可欠である。
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