2018年10月29日月曜日

持続の帝国 中国 4

 自由主義社会では自由と民主主義と法による支配、これが原則である。
 日本の政治家がこの原則をあえて言葉にするときは一党独裁の中国などを念頭においた発言である場合が多い。
 このなかで最も誤解されているのが中国の法による支配であろう。
 民主主義国では法は権力から人民をまもるものであるが、中国では法は権力が人民を統制するためにある。
 このことは共産党一党独裁の今にはじまったのではなく昔からそうである。したがって中国では法は権力者の都合によっていつでも変更される。
 日本を含む自由主義国はこの中国の都合 ”事情変更の原則” に悩まされてきた。

 2015年ホワイトハウスにおいて習近平主席は南シナ海の人工島には軍事施設を作らないと約束したがこれに違反し、また尖閣諸島については鄧小平の見解を覆し領有権を主張した。
 これらは自由主義世界にとっては明らかに約束違反であり不信行為であるが、当の中国にしてみれば当然の主張なのだ。なぜなら法律とか権利は権力者の都合によって変更可能なのだから。
 この原因について小室博士は中国の歴史から分析している。

 「『法律』というものに対する考え方が、日本人と中国人では根本的にちがう。中国人と欧米人とはもっとちがう。ここに問題の根本がある、と。
 つまり法律についての考え方がちがえば、中国人は法律に従ってやっているつもりでも、外国人から見れば大ウソをついているように見えてしまう。
 このことを徹底的に理解することが大事なのである。」
(小室直樹著徳間書房『小室直樹の中国原論』)

 日本にはもともと法という考えがなかったしその必要性も感じなかった。
法律がなくても一向に困らなかった。
 だが、外国から一方的に押しつけられた条約を改正するためには法律がないと相手にされないことがわかり、これを契機に日本人は法律を作り始めた。

 「そもそも日本人には法概念がなかった。別の見方をすれば、かえってそれがよかったとも言えよう。
 日本に法律がなかったおかげで、欧米流の法律をそのまま鵜呑みにできたからである。
 見かけの上であれ何であれ、明治以降は欧米流の法律でやってくることができたのである。
 では、中国の場合はどうかというと、何千年も前から立派な法律があった。これから詳しく触れる『法家の思想』である。」(前掲書)

 中国には伝統的に道徳を重んじる儒教思想と統治を優先する法家の思想がある。
 こと政治に関しては建前上は道徳を掲げるが実際の政治は法家の思想が優先されてきた。
 儒教にしろ法家の思想にしろ対象は個人ではなく社会である。極論すれば、よい政治をすることがすべてでこの目的のためには他のことは犠牲もやむなしという思想である。
 近代法は主権者から人民を守るという考えが基本にあるが、法家の思想はこれと逆で法律は権力者のためにあり、為政者が人民を統治する手段である。
 よい政治をすること、これに優る道徳はない。法家の思想を代表するのは韓非子である。

 「韓非子もはっきり言っている。法律を解釈するときは役人を先生としなさいと。この場合の『役人』というのは、いまでいう行政官僚のこと。
 一方、近代の欧米社会において、法律の最終的解釈を行うのは裁判所だ。裁判所の前では、行政官僚といっても普通の人とまったく同じである。
 とにかく、近代社会における司法権力の最大の役割は、行政権力から人民の権利を守ることなのだから。
 こうした考えが法家の思想には全然ない。いま指摘したように、法律の解釈はすべて役人がにぎっている。
 ということは、端的に言えば、役人(行政官僚)は法律を勝手に解釈していいということなのである。」(前掲書)

 日本においても法律の解釈に疑義が生じたとき裁判所に持ち込まないで行政官僚の裁定で決着することがあるが、中国の場合はこれが徹底している。
 とくに現代は『中国共産党宣伝部の指示があった場合』という ”事情変更の原則” が堂々と契約書などに明記されている。
 ひとたび契約に疑義が生じた場合、中国共産党の指示や内規をもちだされるとそれで決着してしまう。いくら抗議してもはたまた国際法を持ち出しても相手にされない。
 ではこのような中国と付き合うにはどうしたらいいのだろうか、またこのような中国の行く末はどうなるのだろうか。

2018年10月22日月曜日

持続の帝国 中国 3

 中国人の人間関係は『帮(ホウ)』というヨコ糸と『宗族』というタテ糸、この二つが幾重にも折り重なった複雑な二重規範の網から成り立っている。
 中国史を跋渉した小室直樹博士はこう言う。そしてこの複雑な人間関係を解明するには科学的分析によらなければならないとも。
 以下同博士の分析をもとに中国人の行動様式について考えてみよう。

 まずヨコ糸から。
 ヨコ糸は、知り合い→関係→情誼(チンイー)→帮、という順序で人間関係の結合の『輪』が強固になっていく。
 この人間関係の輪に入っていない知り合いでもない人はもはや人間として扱ってもらえない。
 逆に最も強固な帮関係にある人は無条件の信頼関係にある。親兄弟など肉親以上の関係で、金の貸し借りに証文など一切不要、その人のためには命さえ顧みない。

 「輪の内と外では、ちがった規範が行われる。輪の内の規範がはるかに重要であり、外の規範はずっと軽い。いわば化外の地であるから、そんなところに住む人間は死のうが生きようが、所詮どうでもいいのである。(中略)
 帮は、『輪』の一種、特殊場合だ。『輪』のうち、もっとも強固な『輪』が帮である。」
(小室直樹著徳間書房『小室直樹の中国原論』)

 人間関係の輪の内と外では、ちがった規範が適用される。輪の内の規範は絶対的であり、輪の外の規範は相対的である。
 つまりそれぞれの輪に強弱のちがいはあるがともに共同体である。共同体の特徴は、内の規範と外の規範がちがうという二重規範である。

 つぎにタテ糸の宗族について。
 帮、情誼などがヨコの共同体であるのにたいし、タテの共同体を形成するのが『宗族』である。

 「宗族は、父と子という関係を基にした父系集団である。父から子、という形で集団を作り、姓を同じくする。
 劉なら劉、李なら李と、必ず同一姓を名乗る。父系集団にも姓を有する父系集団(中国、韓国など)と有しない父系集団(古代イスラエルなど)とがあるが、宗族は姓を有する父系集団である。
 もう一つの特長は、同一宗族の中では絶対に結婚できないこと。これを部外婚制という。」(前掲書)

 日本では、遠くの親戚より近くの他人、去るもの日々に疎しというように、故郷を離れ何十年も経つと次第に親戚縁者とも疎遠になりがちとなる。
 ところが中国はちがう。全く見ず知らずの人同士がたまたま会って同一宗族であることがわかれば、たちまち意気投合し兄弟のごとく親しくなる。
 同一宗族に優秀な子がいれば見たことも会ったことがなくとも援助する。
 中国では部外婚制はかたく守られている。中国人で夫婦同姓などありえない。中国人にとって同姓というだけで恋愛感情さえ芽生えない。
 日本人はいとこ同士で結婚するが、中国人にとってこれはあり得べからざることである。
 中国共産党は宦官、纏足を止め、文字を略字、横書きにするなど目覚しい改革をしたが人間関係の根幹である部外婚制には一指もふれなかった。それが社会構造に根ざしているからである。
 宗族を否定すること、それは中国人のアイデンティティの喪失を意味する。そんなことはできない。

 このように中国人の人間関係は、帮と宗族に代表されるヨコとタテの網から成り立っている。このつながりがない人は、中国人にとっていわば化外の人である。
 このことを頭に叩きこんでおかないと中国を理解できないし、いつまでたっても中国人にたいして誤解と偏見をもち続けることになる。

2018年10月15日月曜日

持続の帝国 中国 2

 第二次世界大戦時 アメリカは敵国日本について徹底的に分析した。
 「菊と刀」で知られるルース・ベネディクトは日本人の行動パターンについて調査研究しその成果を政府に報告した。 アメリカは戦争相手の物理的戦力だけでなくその他の戦争遂行に必要な要素すべてを目的合理的に分析した。
 一方当時の日本がアメリカの国力や戦力以外に何か有効な分析を行なったという証拠はない。
 大本営は総力戦といったが真の意味で総力戦ではなかった。国の総力を挙げて戦うことを軍国主義というならば当時の日本は軍国主義ではなかった。

 米中貿易戦争は対岸の火事ではなくわが国の利害に直結する。
 中国を知るには国力、経済力、軍事力だけでなく中国人そのもの中国人の行動パターンを知らなければならない。第二次世界大戦の教訓がここにも生きる
 中国人を知るには中国の歴史を知るにしくはない。なぜなら中国の歴史は驚くほど正確に記述されかつよく知られているように反復に反復を繰り返すからである。
 革命は起こるが革命前と革命後の社会にさして変化はない。変わるのは為政者の姓のみ。ゆえに易姓革命といわれる。

 ”共産革命にもかかわらず中国の歴史の法則は不変である” こう断言するのは中国の歴史を跋渉した小室直樹博士である。

 「社会科学に実験はできない。自然科学とはちがって社会科学の進歩がおそい所以である。
 しかし、同型の事象が、続けてはてしなく生起してくれれば、実験をしなくても、実験をしたのときわめて類似性の高い条件が見出されるであろう。
 また、ウェーバー派の比較社会学の座標軸としても、中国史は絶好なのである。
 このように、中国史というサンプルは、歴史家を不幸にするが、科学者をこのうえなく幸福にするのである。
 『類似の事件』が『延々と繰り返し』生起するが故に、そこに法則を発見し得るからである。換言すれば、それはこういうことになる。
 『類似の事件が連続して起こるのは、事件が実は【仕組まれた】もので、偶発的なものでなかったことを示している』(安能努 中華帝国志 上 講談社文庫)『仕組まれたもの』とは、そこに定石があるということである。定型があるということである。
 その『定石』や『定型』を発見することが歴史における社会法則(政治法則、経済法則を含む)の発見にほかならない。
 それであればこそ、われわれは、中国史のなかに中国の本質を発見し得るのである。
 中国史は、如何なる調査よりも有効に、中国人の基本的行動様式を教えてくれるのである。
 このさい、中国人が歴史をどう意識するのかは関係ない。中国人の歴史知識とも関係ないのである。
 社会法則は、人間の意志や意識とは関係なく独立に動く。このことは英国古典派によって発見され、マルクスはこれを人間疎外と呼んだ。」(小室直樹著徳間書店『小室直樹の中国原論』)

 同じようなことが延々と続く、社会制度も社会構造も法律も革命の前と後で変わらない。変わるのは天子の姓のみ。
 このような中国を、ドイツの哲学者ヘーゲルは ”持続の帝国” といった。


 なぜ中国は変わらないのか。それは中国人の行動様式が変わらないからである。
 では中国人の行動様式とはなにか。その鍵は中国人の人間関係にある。
 かって中国の最高実力者 鄧小平は、訪日時に ”中国人は井戸を掘った人を忘れない” といって多忙な日程を割いて日中国交回復に尽力した田中角栄元首相の私邸を訪ねた。いかに恩義を大切にしているかを示すためである
 中国人はなにより人と人との繋がりを重視する。人間関係が中国人の行動パターンを決めるといってもいい。中国の歴史はこの積み重ねによって営々と築かれてきた。
 では中国人の人間関係はどういう仕組みになっているのか。仔細に見てみよう。

2018年10月8日月曜日

持続の帝国 中国 1

 トランプ米大統領は9月24日、知的財産侵害を理由に中国からの輸入品2000億ドル(約22兆円)に10%の関税を上乗せし、中国が交渉に応じない場合来年早々25%に引き上げる制裁に踏み切った。
 一方、中国は年間600億ドル(約6兆7千億円)相当のアメリカ製品に追加関税を米国と同時発動した。
 人民日報系の環球時報は9月25日付社説で、「中国は実力のある大国だ。経済的であろうと軍事的であろうと中国と敵対すれば、膨大な代価を支払うことになる」と米国を強く牽制した。
 世界1位と2位の経済大国の貿易戦争はますますエスカレートしている。

 この両国の争いについて多くの学者、政治家、あるいは専門家、識者などが今後の展開を予想している。
 曰く、両者の貿易量から米国が勝つに決まっている。中国は間もなく白旗をあげるだろう。
 一方、誇り高い中国人の性格からして決して譲歩しないだろう。両国とも引かない場合、軍事衝突もありうる。
 もっとうがった見方として、この貿易戦争は、覇権国アメリカが、その地位を脅かそうとする中国への逆襲である、などなど。

 日本は同盟国アメリカと戦後70年以上の付き合いがあり、たとえトランプ氏のような特異な大統領が現れ暴走してもアメリカ議会が制動装置となり歯止めをかけるであろうことを知っている。
 しかし共産党一党独裁の中国は、チベット、南シナ海、東シナ海とその膨張政策は止まるところを知らず、将来どうなるのか予想さえつかない。
 中国については、わが国との歴史的な絆、地理的近さにもかかわらずアメリカほど理解がすすんでいるとは言えない。否、理解していないというより誤解しているといったほうがより正確かもしれない。

 今度の米中貿易戦争に関連して、中国との関係を専門とする学者、政治家、ビジネスマン、識者などが頻繁にメディアに登場し論評している。
 見解は、予想通りというかご多分にもれずというか楽観論と悲観論が入り混じり定まっていない。
 これらの体験談は個別には正しい。それぞれが体験したことに嘘があるはずはないからである。
 が、結局この問題はどう決着がつくのかという問いに説得力ある答えを見出すことは困難である。個人の体験談は科学的知見を欠き社会学的判断のデータとはなり得ないからである。
 この問いに答えるためには、まず、中国の真の姿、表面を見ただけでは分からない部分を照射しなければならない。さもなくば何事も分からないし何事もすすまない。

2018年10月1日月曜日

ガブリエルの新実在論 5

 わたしたちが考えていること、理解していること、認識していることは精神の働きによるものである。
 考え、理解し、認識する主体であるわたしたちの精神が存在しなければそれらもまた存在しない。
 精神の働きがすべてなのでそれらが実在しているかどうかは証明できない。このような観念論を支持する人はおそらく少数派であろう。
 一方、存在するのは物質のみ、精神の働きといってもそれは単に物質の働きによるものにすぎないと考える人が大多数に違いない唯物論的考えは常識に反することがないので改めて説明するまでもなく受け入れられやすい。

 すでに見てきたようにガブリエルの哲学はこの意味においては常識に反している。
 存在するということはどこかに存在する筈である。つまり存在には場所の規定が含まれる。
 世界があるとすればどこかになければならないがそのような場所はどこにもない。したがって世界は存在しない。
 にもかかわらず自然科学は、およそ現実いっさいの基層ーほかならぬ世界それ自体ーを認識する立場である。
 世界が存在するという認識の立場で自然科学は間違っている。
 自然科学は巨大な幻想にもかかわらず自然科学以外のいっさいの認識は、自然科学の認識に還元されなければならない。あるいは、いずれにせよ自然科学の認識を尺度にしなければならないとする立場である。
 このようにすべての現象を自然科学のみで説明しようとする立場を自然主義というが、これは間違っていてかつ危険極まりない思想である。
 ガブリエルがもっとも反対し攻撃の対象としているのは唯物論とともにこの自然主義である。
 現代の革新的技術であるIT、バイオ、AIなどにしても無数にある存在の一つにすぎない。
 第二次大戦後、ソ連の唯物論とアメリカの自然主義は軍国主義へとひた走った。
 冷戦に勝利し唯一の超大国となったアメリカでは経済のグローバル化が進み強者の論理がすべてに優先するようになり弱者の論理は排除された。
 その結果、環境は破壊され人びとの間に格差が生じ民主主義が危機に瀕している。

 ガブリエルが特に力説していることは哲学に人間を呼びもどし危機に陥った民主主義を救うことである。
 彼の民主主義擁護論は人間主義の精神が根底にある。権力はつねに暴走する危険を孕んでいる。
 これらを防ぐためには民主主義の基盤に倫理をおかなければならない。
 ドイツ憲法第一条第一項に「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、および保護することは、すべての国家権力の義務である。」とある。
 この条文はドイツ観念論の創始者カントの精神が反映されたものであり二度の世界大戦を通じたドイツの苦い体験から生まれたものであるという。
 
 この民主主義についての考え方は、同じ第二次世界大戦の苦い体験をしたわが国の丸山真男教授の民主主義観と軌を一にしている。

 「民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化ー物神化ーを不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得るのです。
 それは民主主義という名の制度自体についてなによりあてはまる。
 つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。
 民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだといわれることの、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです。」
(丸山真男著岩波新書『日本の思想』)

 民主主義は民主主義を求める日々の努力のうちにある。これを怠れば民主主義はいつでも危険にさらされる。

 ヘーゲルの「ミネルバのフクロウは迫り来る黄昏に飛び立つ」というたとえのように哲学はもともと過ぎ去った時代の精神を思想として形成したものである。哲学者は預言者ではない。
 だがルソーやカント、あるいはマルクスなどに見られるように彼らの思想はあたかも預言者のように後世に影響を与えた。
 歴史的には哲学は同時代というよりむしろ後の時代に大きな影響を与えてきた。

 ガブリエルは、ドイツ観念論の後継者の一人である。同じドイツ観念論であっても絶対的なものは存在しないという点でヘーゲルとは対極にある。 
 彼の著作はドイツ国内では広く読まれているが英米など英語圏ではそれほどでもないという。

 すべての動物のなかで人間ほど危険な動物はいない。
罪もない600万人ものユダヤ人を虐殺したり、非戦闘員の頭上に平然と原爆を落とす。
 このようなことは時代や文明の発展度合いに関係なく行われてきた。そしてこれからも起こりうる。少なくともそういうことが行われないという保障はどこにもない。
 権力は自然主義と親和性がある。権力者はほっておけば自然主義者になりがちである。
 権力の暴走を食い止めるためには民主主義の土台に倫理がなければならないというガブリエルの哲学はこのことを踏まえた主張であり説得的である。
 彼の哲学はいずれドイツ以外にも浸透するであろうしそのことを願って止まない。