2010年9月尖閣諸島近く日本の領海内で海上保安庁の巡視船に中国漁船が体当たりした事件が発生した。
この事件直後中国の海軍と日本の海上自衛隊の艦船はそれぞれの後方に待機していていて決して全面にでてくることはなかった。
南シナ海のパラセル(西沙)諸島、スプラトリー(南沙)諸島では中国海軍が前面に出て権益むき出しの行動に出たが、尖閣諸島では後方待機に終始した。
少なくとも中国海軍は海上自衛隊の戦力をフィリピンやベトナムの海軍と違うとこをはっきりと認識していた。
アジアにおける中国の派手なプレゼンスにもかかわらず、必ずしもそれが実態を反映しているとは言い難い。
親しく米軍および米軍の中国戦略を取材した日高義樹氏は中国の間違いを指摘している。
「中国の指導者たちは、経済を拡大しアメリカとの経済関係を強化していけば、オバマ大統領の協力によって政治力を手にすることができると考えた。
あとは軍事力を強化すれば、世界を動かすことができると思ってしまった。そして中国は軍事力増強の道を走りはじめた。
ここまでであれば、まだ中国の間違いやオバマ大統領の思い違いを修正することは可能であった。
だが中国は貿易で稼いだ莫大な資金を使って、ロシアの古い空母を買い、潜水艦を増やし、核兵器をつくりつづけた。
しかし兵器を増やすだけで、国際的な影響力が強くなるなどということはありえない。
中国は軍事力を拡大するとともに、自国が世界的な力を持ったと錯覚した。
世界の列強と言われた国々が行ったような膨張侵略政策をとり、周辺の国々に圧力をかけはじめた。(中略)
経済力を政治の力にするのが難しいことは、日本を見れば明白である。
また経済力があるからといって、強い軍事力を簡単に持てるわけでもない。
強力な軍事力を持つためには国家体制を整備し、国民を訓練し、技術力を向上させて強力な兵器と強い軍隊を持たなければならない。
中国はそのすべてに欠けている。中国は安い商品を世界中に売ることによってGDPを拡大し、世界第二の経済力を持つようになった。
中国はそれがそのまま中国の国力になったのだと誤解した。
中国は貿易で稼ぎ出した資金を使って兵器を買い集めているだけである。
中国が強力な軍事力を持っていないことは、いまや誰の目にも明らかである。」
(日高義樹著PHP研究所『中国、敗れたり』)
日高氏は同書で中国軍の弱点、特に海軍兵装の弱点を具体的に指摘している。
「 『もし中国と日本の艦船同士が戦闘をすれば、中国側はみな撃沈されるでしょう。
日清戦争の際の海戦と同じ結果です。ただしこの種の日本側優位の展開は戦闘の冒頭だけではありますが・・・・・』
東シナ海の艦船同士の戦いに限っていえば、ということだろう。だがパール氏(ダグラス・パール カーネギー国際平和財団副所長)はそこで一息ついて、もし日中が戦争を始めれば、日本にとって悪いこと、不利なことも多々起きる、とつけ加えた。
具体的にはおそらく中国側のミサイルを念頭においての発言だろう。
なにしろ中国は日本全土を射程におさめた弾道ミサイルや巡航ミサイルを数百単位の基数、配備しているのだ。そのうえに中国は核兵器をも保有する軍事大国なのである。
同盟パートナーである米軍という強力な盾があってこそ、日本側の対中抑止力も効果を発揮するが、日本独自では話にならないのが現実だろう。
(古森義久著小学館新書『中国の正体を暴く』)
尖閣諸島をめぐる海戦のみに限っては現時点では日本有利の見方が優勢のようだ。
仮に緒戦でそのような結果になった場合その後の展開はどうなるか。
まず敗北の責任の矛先は軍さらに共産党政権に向かう。
戦後一貫して反日教育をうえつけられた中国人民が緒戦の敗北のまま和平に得心するとはとても考えられない。
軍と共産党政権は戦線を拡大し反撃するか和平かの選択を迫られる。
共産党政権はその威信と存立にかけて戦線拡大・反撃の選択肢をとるであろう。
平時でさえ安定しているとはいえない中国の治安は、かかる事態を迎えては収拾つかなくなるからである。戦線拡大によってのみ治安は保たれる。
しかし戦線拡大が米軍の介入を招いたら中国に悲劇をもたらす。米中の戦力差が乖離しているからである。
したがって中国は米軍が介入しない程度に戦線を拡大することだけが選択肢となる。しかしそのようなことがはたしてできるか。
日本における米軍基地とは無関係に戦線拡大など絵空事にすぎないのではないか。
尖閣諸島をめぐる緒戦での中国軍の敗北は、その後の展望が拓けず共産党政権自体の存立を脅かすことにつながりかねない。
ここで最も危険なシナリオは、共産党政権が自身の存立が危ういのであれば、座して崩壊を待つのではなく、米中戦争の賭けに出ることである。
そうなれば核戦争の入り口に立つことを意味する。愚かにもそのような賭けをするとは思えないが・・・・・。
尖閣諸島は1895年明治政府により正当な手続きで領土編入され日本固有の領土となった。
それから一世紀近く経た1968年国連による同諸島付近海底調査で石油や天然ガス埋蔵が確認されるや俄然中国は領有権を主張しはじめた。
中国の鄧小平は1978年訪日の際、尖閣諸島について 「次の世代は、きっと我々よりは賢くなるでしょう。そのときは必ずや、お互いに皆が受け入れられる良い方法を見つけることが出来るでしょう。」 と棚上げを提案した。
日本政府はこの鄧小平発言は一方的な発言であり決して受け入れたわけではないとしながらも、尖閣諸島は日中で暗黙のうちに事実上棚上げされてきた。
ところが2012年9月日本政府による国有化を機に尖閣諸島は一気に日中の紛争の場と化した。
尖閣諸島問題は今や一触即発、日中に横たわる最大の懸案となった感がある。
日本が固有の領土であることをを証明する古地図を発見したと言えば、中国は中国固有を証明する地図など何百枚でも出せるといって反論する。
この紛争はどのように解決されるのだろうか。あるいは未解決のまま放置されるのだろうか。
中国の核兵器がこの問題を解く重要な要素となろう。もし中国が核武装していなければ、戦争で解決するということも考えられないわけではない。
だが今や中国は核武装している。中国の核戦力はどの程度か。
中国は公式には保有する核戦力の実態を明らかにしていない。米議会の諮問機関である米中経済安全保障調査委員会の年次報告書から中国の核戦力の一端を知ることが出来る。
またこの年次報告書から中国の軍事力はアメリカにとっても脅威であることが分かる。
「中国の核ミサイル能力などが今後5年で急速に近代化することで、中国の軍事・外交面での能力が広範囲に強まると指摘。 『米国の核抑止力、とりわけ日本に対する部分が潜在的に弱まる』 と警鐘を鳴らした。
報告書は、習近平(シーチンピン)国家主席について 『外交・安全保障面における積極的で、時には攻撃的ともいえる姿勢が彼の特徴だ』 と分析。
尖閣諸島を含む東シナ海での防空識別圏設定や南シナ海での一方的な油田開発などを列挙し、『(習氏は)過去の政権よりも、二国間関係で格段に高い緊張を引き起こすことをいとわないことがはっきりしてきた』とした。
さらに、『東アジアの同盟国を見捨てて中国に融和姿勢をとるか、同盟国を守って紛争の危機に直面するかを米国に選ばせようとしている』と警告した。
核戦力については、射程が約7千キロを超す潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)『巨浪2』が初期運用能力を得たとし、『中国は初めて海からの核抑止力を手に入れた』と分析した。
巨浪2はハワイ東部から発射すれば米全土を射程に収め、今後3~5年の間に巨浪2を搭載した原子力潜水艦を最大5隻配備すると予測。
米全土を射程に収める移動式の大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射実験も実施したとし、米国にとっても脅威が増していると分析している。」
(2014年11月21日ワシントン=奥寺淳)http://www.asahi.com/articles/ASGCP5557GCPUHBI01Q.html
このように中国は世界最大の軍事力を誇るアメリカに対しても脅威を与えるほどの軍事力を備えた。
2014年防衛白書の資料からもそのことがうかがえる。
(下図 資料1、資料2)
毛沢東の号令のもと、1963年中国の陳毅外交部長が「中国人はたとえズボンをはかなくても、核兵器をつくってみせる」 と日本のジャーナリストに語ってから半世紀、とうとうここまで成し遂げた。
アメリカにとって脅威なのは ICBM DF-31(射程距離8000~14000km)とDF-5(射程距離12000~13000km)がアメリカ全土を射程距離にとらえていることである。
単純な物量兵力は中国が日本に対し陸上で11倍、海上で3倍、航空で6倍である。
この物量の差は日中の軍事予算の推移から今後さらに拡大する傾向にある。しかも核武装の中国にたいし日本は非核三原則を堅持している。
このような両国が仮に尖閣諸島で武力衝突したらその帰趨はどうなるか。
単純に日本敗北とは限らない。戦争は物量のみで決まるわけではない。
2012年8月米海軍大学校のジェームズ・ホルムズ准教授は雑誌『フォーリン・ポリシー』で尖閣諸島をめぐってアメリカが介入せず日中のみで武力衝突となった場合、日本有利と予測している。
この予測の当否はさておき、かりに中国が敗北したらどうなるか。また日本が敗北したらどうなるか。
この2つのケースを核兵器時代の戦争の具体例として考えてみたい。
クラウゼヴィッツの戦争についての古典的定義 『戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない』 についてクラウゼヴィッツは次のように敷衍している。
「戦争は政治的やりとりの一部分にすぎず、したがって決してそれ自身独立したものではない。
もちろん、戦争が政府や国民間の政治的やりとりのなかからだけ発生するということは、誰でも知っていることである。
しかし、このことは普通、次のように考えられている。すなわち、戦争がはじまるとともに政治的なやりとりは中絶し、独特の法則にしたがう全然ちがった状態が成立するというのである。
これにたいしてわれわれは次のように主張する。戦争は、他の手段を用いる、政治的やりとりの継続にすぎない。
ここにわれわれは、『他の手段を用いる』といったが、これは、この政治的やりとりが戦争によって中絶するものでも、全然異なった他のものに転化するものでもなく、用いられる手段が何であれ、政治的やりとりは本質において継続しており、軍事的事件の流れは、戦争から講和にいたるまでつづいている政治の姿にすぎないことを言い表わそうとするためであった。
またそれ以外に考えようがあろうか? 外交文書の往来がとだえたからといって、政府間や国民間の政治関係もとだえてしまうものだろうか? 戦争とは政治的関係の内容を他の表現法で発表したものにすぎないのではないか?
なるほどそこには特別な文法はある。しかし特別な論理はないのである。
要するに戦争は、決して政治的やりとりから切り離すことはできない。観察にあたって、これを切り離すようなことをすれば、関係のあらゆる糸は切断され、意味も目的もないものができあがる。
この考え方は、戦争が完全に戦争であり、敵対精神の無制限な発揮であるような場合でさえ、不可欠である。
というのは、戦争の基礎となり、その主要な方向を規定する諸事物、たとえば、自軍の兵力、敵の兵力、両国の同盟者、両国の国民及び政府の性質等は、いずれも政治的性質をもっていないだろうか?
それらものは、全政治的関係と密接に結びつき、それから切り離せないのではなかろうか? - さらに次のことを考慮にいれるならば、この考え方は、二重に不可欠となる。
すなわち、現実の戦争というものは、戦争の本質通りに、首尾一貫して最極端まで行われるものでは決してなく、常に中途半端で、矛盾を含んでいる。
したがってそれは、その独自の法則に従うことができず、他の全体の一部分とみなされねばならないということである。そしてこの全体が政治なのである。」
(クライゼヴィッツ著淡徳三郎訳徳間書店『戦争論』)
このクラウゼヴィッツの説を、言い方を変えれば ”戦争とは国際紛争を解決するための政治の枠組みの最終手段” といえる。 政治の枠組みであるからそれはれっきとした制度である。
この説が成り立つためには、戦争はあくまでも政治の従属物でなければならないという前提がある。
クラウゼヴィッツは『敵対精神の無制限な発揮であるような場合』でさえ政治的やりとりから切り離せない、としながらも 『現実の戦争というものは、戦争の本質通りに、首尾一貫して最極端まで行われるものでは決してなく、常に中途半端で、矛盾を含んでいる』 といっている。
ところが第一次世界大戦、第二次世界大戦とすすむにつれ大量破壊兵器が開発され、戦争の様相が変わってきた。
敵を打倒するという目標が戦争の目的そのもの - 戦争の自己目的化に陥り入り易くなっている。
そうなれば戦争が政治のやりとりから切り離されクラウゼヴィッツが懸念したように意味も目的もないものになってくる。
まして核兵器を使った戦争ともなればその懸念はより一層強くなる。
第二次世界大戦で米軍は広島、長崎に原子爆弾を投下し、非戦闘員20万人以上が犠牲となったが、これは『戦争の本質通りに、首尾一貫して最極端まで行われた』 戦争でありクラウゼヴィッツが現実に予測していなかった戦争である。
だがこのことが彼の命題 『戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない』 と矛盾するものではない。
彼が予測しえなかったことが起きて、彼の命題に疑問が生じたにはたしかだが戦争の本質は変わることはない。
アメリカは原子爆弾投下の理由の一つに戦争の早期終結を挙げている。政治的やりとりにほかならない。
核兵器による全面戦争は、勝者も敗者もない戦争となるといわれて久しい。
「核兵器などという最終的武器が登場したのだから、戦争はもう不可能になったのだろうか。
みんながそう言っている。本当にそうなんだろうか。もし戦争が技術的にか政治的にか不可能になったとすれば、国際紛争の解決はどうなるのだろう。
深刻な紛争でも未解決のまま放っておくのか。いやいや、そんなはずはない。紛争は解決されねばならぬはずだ。
もし、戦争が不可能となったのであるならば、戦争以上の手段を大急ぎで開発せねばならない。
オルテガ(20世紀のスペインの哲学者)は、こうして自らの当惑を残しながらも、戦争は国際紛争解決の最終手段であり、戦争の超克は戦争以上に合理的な手段を創造するほかに方法はない、とする命題を放棄するわけにはいかないと考える。
しかし、そのような明確な表現は遠慮する。そして、ただ、この章の最初のほうで紹介したエピソード、(17世紀スペイン王国の)ボルハ枢機卿の言葉を引用して、講演を終わるのである。
『陛下、戦争とは、つける薬のないものにつける薬であります』 」
(小室直樹著光文社『新戦争論』)
”つける薬のないものにつける薬” とは、散文的に言い換えると ”国際紛争解決の最終手段である” と小室博士は解説している。
次稿でこれに関連しわが国と中国との尖閣諸島問題を具体例として考えてみよう。
ロシアのプーチン大統領は、同国が昨年3月ウクライナ南部クリミア半島を併合した際、核兵器を臨戦態勢に置く用意もあったことを去る3月15日のロシア国営テレビ番組で明らかにした。
プーチン大統領とは如何なる人物か。
「 『プーチン大統領が行った、チェチェンをはじめ国内の反政府主義者に対する弾圧、そして国内のジャーナリストの暗殺、さらには民間資本家に対する略奪行為は、歴史にも比類がないほど非情でおぞましいものだ』 ロシア専門家で、アメリカの保守的シンクタンクであるアメリカンエンタープライズのレオン・アロン博士は、このように厳しくプーチン大統領を指弾しているが、このプーチンの残虐なやり方を、日本はじめ世界の人々はなぜか見過ごしてきた。(中略)
ユダヤ系ロシア人でアメリカでも活躍しているジャーナリストのマーシャ・ゲッセンは『顔のない男』という著書の中で、”プーチンほど残虐な指導者はいない”と非難している。」
(日高義樹著徳間書店『アメリカはいつまで日本を守るか』)
マーシャ・ゲッセンは、同書でプーチンを 『病的な泥棒で、生まれつきの犯罪者だ』 とまで決めつけている。
少なくともこのような一面を持っているかもしれない人物が核のボタンを手中にしている。
そしてその核兵器は世界一の軍事大国アメリカが保有する核兵器とほぼ匹敵する。(下図)
核による傘とか核による抑止とかいわれてきたがそれが絶対的な安全を保障するものでないことを改めて思い知らせるプーチン大統領の発言である。
世界の核兵器2014年
国名 | 戦略核 | 戦術核 | 予備/非配備 | 保有核 | 総数 |
ロシア | 1600 | 0 | 2700 | 4300 | 8000 |
米国 | 1920 | 184 | 2661 | 4765 | 7315 |
フランス | 290 | ─ | ? | 300 | 300 |
中国 | 0 | ? | 180 | 250 | 250 |
英国 | 160 | ─ | 65 | 225 | 225 |
イスラエル | 0 | ─ | 80 | 80 | 80 |
パキスタン | 0 | ─ | 100-120 | 100-120 | 100-120 |
インド | 0 | ─ | 90-110 | 90-110 | 90-110 |
北朝鮮 | 0 | ─ | <10 | <10 | <10 |
合計(概数) | 4000 | 180 | 6000 | 10100 | 16400 |
FASのサイト(Status of World Nuclear Forces)から(2014年4月30日更新)
核兵器が開発されて以来日本だけが唯一の被爆国になった。 核兵器はその威力のゆえに核戦争はできないといわれてきた。 現に広島、長崎の原爆投下以降70年間 戦争で核兵器は使用されていない。
人類は太古以来絶えることなく戦争を繰り返し戦争の合間に平和が訪れたといってもいい。
核兵器の出現はこの流れをかえるのだろうか。皮肉に聞こえるが、人類は核兵器抜きの戦争だけの繰り返しに満足するのだろうか。
プロイセンの将校クラウゼヴィッツは戦争論で 『戦争とは他の手段をもってする政治の継続である』といった。
政治の延長であり、紛争解決の最終手段が戦争である。そうであれば戦争はれっきとした制度ということになる。
この古典的なクルゼヴィッツの定義は核兵器時代の戦争にも当てはまるのだろうか。
プーチン大統領の発言を機会にこの問題について考えてみたい。
同時に非核保有国であるわが国の防衛について考えてみたい。