文法の問題が取り沙汰されるようになったのは戦後になってからである。その原因は英文法を学校文法に取り入れたからである。
1942年6月三上章が発表した主語抹殺論の処女試論「語法研究への一提試」が黙殺されたことはすでに述べた。
日本語はヨーロッパ語とくに英語とは対極にある。語順もさることながら際立った違いは「主語」である。
言語学者の角田太作によれば世界の言語の中で英語ほど強力な主語はない、英語における主語はいわば絶対君主のような存在であるという。
英語で主語が省略されることはない。主題や動作の主体が不在であれば代わりに It を主語にもってくるほどである。主語を省略した英語は意味をなさない。
日本語では文脈でそれとわかれば主語が省略される、むしろ省略することがあたりまえになっている。省略するのが当たりまえの語を「主語」というには違和感がある。
日本語の主語は述語を修飾する話題あるいは動作主程度の役割で形容詞、副詞などと同列で述語にくらべれば言葉の比重は軽い。修飾語は省略しても意味は通じる。
このように異なる英語と日本語を同じ文法で教える学校文法に異論があるのは当然であろう。
日本語は英語のアルファベット一種ではなく漢字、カタカナ、ひらがながあり漢字には音読みと訓読みがある。
さらに外国人にとってだけでなく日本人にとっても難解な尊敬語と謙譲語がある。
外国人にとっては話すだけでなく読み書きまでマスターするのは容易ではないだろう。が、日本語が難解であることと日本語が不便であることは別のことである。
言語は文明の重要な構成要素である。文明が異なれば異なるほどその国の言語をマスターするのも難しくなる。
日本語は特殊なのだろうか。言語研究者によれば世界の言語との比較で日本語は決して特殊ではないという。
「日本語は『ア、イ、ウ、エ、オ』の五つの母音を持っている。世界の言語の中で、母音の数は五つである言語が最も多い。
日本語では、主語、目的語、動詞の語順はSOVが普通である。世界の言語の中でSOVが普通であるものが最も多い。
どの言語でも、母音はその音韻の中で最も重要な項目の一つであり、語順はその文法の中で最も重要な項目の一つである。
更に、音韻と文法は語彙と共に、その構造の中核を成すものである。
即ち、母音と語順という、言語の構造の最も中心的な面で、日本語は世界で最も普通の型の言語なのである。」
(角田太作著くろしお出版『世界の言語と日本語』)
因みに角田太作は文法分析を主語、主格、主題、動作者の四つのレベルに分け、主語を主格と区別している。角田文法も三上文法と同じく学校文法には採用されていない。
日本語はことばの体系としては論理性を欠いていると主張する人もいる。
英語などヨーロッパ語は強力な主語と構文の順序が厳格に規定されている。これに比し日本語は述語という大きな土台のうえに構築された柔構造の言語である。
述語以外は「を・に・へ・と・より・で」など格助詞により変幻自在に構文の順序を入れ替えることができる。このため日本語は一見論理的ではないように見える。
だが構文に柔軟性があることと言語が論理的であるかどうかは別である。
強力な主語の英語に対し弱い日本語、述語が主語の次にくる英語と文の最後にくる日本語の違いに論理・非論理の違いはない。
「コンピューターによる機械翻訳の研究によれば、日本語の体系が論理的な性格のものであることが示されている。
また、日本語では、話しことば、また書きことばの両者についた、結論が末尾に来るから、どんなふうに論がすすむかわからないという指摘もあるが、これは、ことば(言語)の体系に、非論理性が含まれていることを示すものではない。ただ単に、表現上の問題にしかすぎないのである。」
(桜井邦明著祥伝社『日本語は本当に【非論理的】か』
日本語は特殊な言語でなく普通の言語である。柔軟ではあるがそれがため論理性を損なわれているわけではない。
どの点から見ても日本語が不便で不確実という確たる根拠はない。それにもかかわらず日本語を廃止して英語やフランス語にしようとか漢字を廃止してローマ字化しようなどと繰り返されてきた。
今後もそのような主張する人が現われるかもしれない。ことは文明の中核を担う言語にかかわる。是非の行方によってはその与える影響ははかり知れない。
2019年3月25日月曜日
2019年3月18日月曜日
日本語考 6
三上章の主語抹殺論は斬新な改革が常にそうであるように決して好意をもって受け取られなかった。
次の一文がそれを端的に言い表わしている。
「『一介の高校数学教師の奇説』として、国語学界はまともに相手にしなかったのである。『一介の』という表現が三上文法を語る際に、枕詞のように使われた。
ふたたび山口光(三上文法研究会世話人)の言葉を借りれば、『主語抹殺論以下の数多くの問題提起が、結局は黙殺された』。三上の『土着主義』は、英文法追随で保守的な国語学界を批判するものであったから、その歯に衣を着せない批判に学界は不快感を抱き、感情的に反応したのである。
彼らの最大の作戦は何も言わず、答えないことであった。大学で国語学や言語学を教えてもいない素人が何を言う、と冷ややかに黙殺したのである。」
(金谷武洋著講談社『主語を抹殺した男』)
日本特有の閥、ここでは国語学界という旧態依然たる学閥に無視されたのだ。
黙殺された結果、現在の学校文法はいまだに英文法をそのまま日本語にあてはめた解釈、「文には主語と述語がある、日本語ではしばしば主語が省略される」が正しい文法とされている。が、現場で教えていえる日本語教師はこれに違和感を抱いていることは既に述べた。
何が正しく何が正しくないのか。三上章の主語抹殺論に対しては正面から反論らしい反論がなされていない。
学者の思惑とは別に現場は混乱している。金谷武洋氏はその実態を例をあげ説明している。
関西の小学校5,6年生を対象とした国語の試験で主語と述語を当てさせる問題で正答率は89年の調査では33.3%、今年は15.9%であった。(『論座』2002年6月号)
今の日本語文法は英文法に倣っているから英語をよく知らない小学生のこの試験結果は当然ともいえる。
時の洗礼を受ければいつの日か文法論争に決着する時がくるであろう。
教科書文法が教育現場を混乱させている現状を鑑みれば三上文法に理がある。三上文法が他の言語に追随するのではなく独自に構築している点も評価されて然るべきだろう。
決定的に重要なことなので繰り返して言おう。三上文法が受け入れられなかったのはその理論の正当性ではなく三上が国語学界に所属せず一介の街の語学者であったからである。
言語学者、庵功雄のつぎの言葉は言語学界というムラ社会のウチとソトに差別体質があることを示している。庵は学界の内部の人であり掟破りともいえる発言である。
「もし、『主語廃止論』を、橋本(橋本進吉国語学会会長)や時枝(時枝誠記国語学会代表理事)が述べていれば三上が受けたような抵抗を受けることはほとんどなかったのではないかと思われる。
つまり、三上の『主語廃止論』が普及しなかった最も大きな理由は、その内容が突飛だったとか、用語が難解すぎたとかいうことではなく、三上が一介の高校の数学教師だったためであると言えるのではなかろうか。」
(金谷武洋著講談社『英語にも主語はなかった』)
いづれ日本語の教科書が書き換えられて主語という概念がなくなる日がくると期待したい。教育現場の混乱が正常である筈がない。日本語文法は一つであるべきである。
次の一文がそれを端的に言い表わしている。
「『一介の高校数学教師の奇説』として、国語学界はまともに相手にしなかったのである。『一介の』という表現が三上文法を語る際に、枕詞のように使われた。
ふたたび山口光(三上文法研究会世話人)の言葉を借りれば、『主語抹殺論以下の数多くの問題提起が、結局は黙殺された』。三上の『土着主義』は、英文法追随で保守的な国語学界を批判するものであったから、その歯に衣を着せない批判に学界は不快感を抱き、感情的に反応したのである。
彼らの最大の作戦は何も言わず、答えないことであった。大学で国語学や言語学を教えてもいない素人が何を言う、と冷ややかに黙殺したのである。」
(金谷武洋著講談社『主語を抹殺した男』)
日本特有の閥、ここでは国語学界という旧態依然たる学閥に無視されたのだ。
黙殺された結果、現在の学校文法はいまだに英文法をそのまま日本語にあてはめた解釈、「文には主語と述語がある、日本語ではしばしば主語が省略される」が正しい文法とされている。が、現場で教えていえる日本語教師はこれに違和感を抱いていることは既に述べた。
何が正しく何が正しくないのか。三上章の主語抹殺論に対しては正面から反論らしい反論がなされていない。
学者の思惑とは別に現場は混乱している。金谷武洋氏はその実態を例をあげ説明している。
関西の小学校5,6年生を対象とした国語の試験で主語と述語を当てさせる問題で正答率は89年の調査では33.3%、今年は15.9%であった。(『論座』2002年6月号)
今の日本語文法は英文法に倣っているから英語をよく知らない小学生のこの試験結果は当然ともいえる。
時の洗礼を受ければいつの日か文法論争に決着する時がくるであろう。
教科書文法が教育現場を混乱させている現状を鑑みれば三上文法に理がある。三上文法が他の言語に追随するのではなく独自に構築している点も評価されて然るべきだろう。
決定的に重要なことなので繰り返して言おう。三上文法が受け入れられなかったのはその理論の正当性ではなく三上が国語学界に所属せず一介の街の語学者であったからである。
言語学者、庵功雄のつぎの言葉は言語学界というムラ社会のウチとソトに差別体質があることを示している。庵は学界の内部の人であり掟破りともいえる発言である。
「もし、『主語廃止論』を、橋本(橋本進吉国語学会会長)や時枝(時枝誠記国語学会代表理事)が述べていれば三上が受けたような抵抗を受けることはほとんどなかったのではないかと思われる。
つまり、三上の『主語廃止論』が普及しなかった最も大きな理由は、その内容が突飛だったとか、用語が難解すぎたとかいうことではなく、三上が一介の高校の数学教師だったためであると言えるのではなかろうか。」
(金谷武洋著講談社『英語にも主語はなかった』)
いづれ日本語の教科書が書き換えられて主語という概念がなくなる日がくると期待したい。教育現場の混乱が正常である筈がない。日本語文法は一つであるべきである。
2019年3月11日月曜日
日本語考 5
「私は木下です」と「私が木下です」は意味合いが違う。日本人ならすぐ分かる。
ところが文法的には「私は」と「私が」がいずれも主語で「木下です」が述語という同じ主語述語関係である。これが学校で教えている文法である。
ところが現場の先生は「は」と「が」の違いの使い分けをどう教えているのだろうか。「は」と「が」ともに主格であることの意味を詳しく説明するのは難しいに違いない。
これに答えたのが高校数学教師の三上章である。
彼は日本語にはもともと主語はないしその必要もないと主張する。
たとえば「私は昨日西武ドームで野球を観戦した」を例にとってみよう。
「私」「昨日」「西武ドーム」「野球」、この順序をどう入れ替えても意味は通じる。
つまりこれら4つは「観戦した」という述語を修飾しているという意味において同列である。
「私は」は、主語ではなく「私についていえば」という程の意味で「観戦した」という述語の動作の主体をあらわす「修飾語」である。
つまり「私が」は英仏などヨーロッパ語の主語のように見えるが、「私は」は明らかに主語ではなく修飾語である。こう説明すると文法的にスッキリする。
三上章は日本語には主語がいらない消極的理由と積極的理由があるという。
まず消極的理由から。
「センテンス中に現れる体言をどうして主語と補語との二階級に峻別するか。
ヨオロッパ語の建前では動詞の活用語尾に干渉する体言と干渉しない体言との区別である。
近代英語や漢文では用言の前に来る体言と後に来る体言との区別である。
然るに我が国語では活用にも語順にもかういふ遮断が求められない。
第1条、主語は述語に先立つ、 第2条、補語は動詞に先立つ、と書分けてあつても、実は一括して体言が用言に先立つといふに過ぎない。
これが「何々ガ」を主語と見做し難い消極的理由である。」
(三上章著くろしお出版『現代語法序説ー語法研究への一提試』)
「主語否認の積極的理由は、心理的順序として「何々ガ」は用言に対し実際に後から補ひ加へるものだからである。
私がヤツタといふのを正直に英訳すれば It’s me(or I)that did it. とでもしなくてはなるまいが、このやうに英文でさへ「私」を補語の 位置に持つて来ることを見れば思ひ半ばを過ぎよう。」(前掲書)
ところが文法的には「私は」と「私が」がいずれも主語で「木下です」が述語という同じ主語述語関係である。これが学校で教えている文法である。
ところが現場の先生は「は」と「が」の違いの使い分けをどう教えているのだろうか。「は」と「が」ともに主格であることの意味を詳しく説明するのは難しいに違いない。
これに答えたのが高校数学教師の三上章である。
彼は日本語にはもともと主語はないしその必要もないと主張する。
たとえば「私は昨日西武ドームで野球を観戦した」を例にとってみよう。
「私」「昨日」「西武ドーム」「野球」、この順序をどう入れ替えても意味は通じる。
つまりこれら4つは「観戦した」という述語を修飾しているという意味において同列である。
「私は」は、主語ではなく「私についていえば」という程の意味で「観戦した」という述語の動作の主体をあらわす「修飾語」である。
つまり「私が」は英仏などヨーロッパ語の主語のように見えるが、「私は」は明らかに主語ではなく修飾語である。こう説明すると文法的にスッキリする。
三上章は日本語には主語がいらない消極的理由と積極的理由があるという。
まず消極的理由から。
「センテンス中に現れる体言をどうして主語と補語との二階級に峻別するか。
ヨオロッパ語の建前では動詞の活用語尾に干渉する体言と干渉しない体言との区別である。
近代英語や漢文では用言の前に来る体言と後に来る体言との区別である。
然るに我が国語では活用にも語順にもかういふ遮断が求められない。
第1条、主語は述語に先立つ、 第2条、補語は動詞に先立つ、と書分けてあつても、実は一括して体言が用言に先立つといふに過ぎない。
これが「何々ガ」を主語と見做し難い消極的理由である。」
(三上章著くろしお出版『現代語法序説ー語法研究への一提試』)
ヨーロッパ語は、主語によって動詞の語尾が変化する。たとえば I do it. He does it.など。また通常の文で主語の前に動詞がくることもない。
日本語は、主語「が」が動詞支配をせず、語順の上で特別な位置にない。ただ、主格「が」は相対的上位にあり文頭にくる傾向が強い。
日本語は、主語「が」が動詞支配をせず、語順の上で特別な位置にない。ただ、主格「が」は相対的上位にあり文頭にくる傾向が強い。
次に積極的理由について。
私がヤツタといふのを正直に英訳すれば It’s me(or I)that did it. とでもしなくてはなるまいが、このやうに英文でさへ「私」を補語の 位置に持つて来ることを見れば思ひ半ばを過ぎよう。」(前掲書)
主格「が」は語順上は述語の前にくるが心理的には述語を後から補う補語である。
たとえば「源太が平次に本を貸した」において、「が」は「に」や「を」とともに述語を補う補語である。ただ、「が」が動作の主体であるから「源太が」が首席補語である。(首席補語ではあるが主語ではない)
三上章はこの論文「語法研究への一提試」を振り出しに主語廃止論を展開した。
特に日本語文法で読点や句点を超えて支配する力がある「は」一つに絞って日本語文法の土台を明らかにしようとした著作「象は鼻が長い」は従来の日本語文法を根底から覆すコペルニクス的転回である。その末尾でこう締めくくっている。
「わたしは成功するか失敗するかです。失敗すれば、むろんそれきりです。
特に日本語文法で読点や句点を超えて支配する力がある「は」一つに絞って日本語文法の土台を明らかにしようとした著作「象は鼻が長い」は従来の日本語文法を根底から覆すコペルニクス的転回である。その末尾でこう締めくくっている。
「わたしは成功するか失敗するかです。失敗すれば、むろんそれきりです。
成功すればーだれも主語だの主述関係だの言わなくなり、言わないことがあたりまえ至極になって、そんなあたりまえ至極なことをムキになってのべ立てたかどでわたしは罰金を取られる、ということもないでしょうが、もはや用がなくなって忘れられてしまいます。
そういう忘却の光栄を目ざして、わたしはなおムキになりつづけます。」
そういう忘却の光栄を目ざして、わたしはなおムキになりつづけます。」
(三上章著くろしお出版『象は鼻が長い』)
この三上章の意気込みに対して日本語文法学界はじめ日本語文法に携わる人たちはどう応えたのだろうか。
この三上章の意気込みに対して日本語文法学界はじめ日本語文法に携わる人たちはどう応えたのだろうか。
2019年3月4日月曜日
日本語考 4
日本語に主語がないのは言語上現れていないだけであって認識上なければならない。
このように主語は省略されているにすぎないと主張する主語必要論に対し、日本語に主語はいらないと主張するのが主語廃止論である。
前者は主に文法理論を重視する人たちであり後者は日本語教育の現場に携わっている人たちである。
カナダで長らく日本語教師をしている金谷武洋氏は主語廃止論者の一人である。主語省略説には真向から反論している。
「日本語の基本文は主語を含まない。述語一本立てなのである。
主語を認めると、無数の『主語なし文』に『省略』という別な説明を持ち込む必要があるが、これは多くの場合正しくない。
よく料理の本や各種取扱い説明書などに出てくる『秋刀魚を三枚におろします』とか『電源が入っているか確かめる』には、省略されているはずの『主語』が見つからない。
もし『私たちは』などと考えるなら『他の人たちはそうしませんか』という意見が加わって違う文になってしまう。 『どうして来なかったんですか』という文でも、主語と見られる『あなたが』をつけると『他の人がきた』という意味が加わってしまう。
意味が変わるとしたら、もはやこれらは『省略』ではないことは明らかだ。
その他、よく引用される三上章の文だが『黒板に【明日は休み】と書いてあった』や『いい陽気になりましたね』などにも『主語』はない。」
(金谷武洋著講談社選書メチェ『日本語に主語はいらない』)
主語廃止論者は主にアカデミック環境に身をおかない教育現場の人たちであることは記述した。
その中心的な人物は「街の語学者」三上章であろう。彼は論文や著作を通じて日本語文法学界に挑戦状をたたきつけた。
このように主語は省略されているにすぎないと主張する主語必要論に対し、日本語に主語はいらないと主張するのが主語廃止論である。
前者は主に文法理論を重視する人たちであり後者は日本語教育の現場に携わっている人たちである。
カナダで長らく日本語教師をしている金谷武洋氏は主語廃止論者の一人である。主語省略説には真向から反論している。
「日本語の基本文は主語を含まない。述語一本立てなのである。
主語を認めると、無数の『主語なし文』に『省略』という別な説明を持ち込む必要があるが、これは多くの場合正しくない。
よく料理の本や各種取扱い説明書などに出てくる『秋刀魚を三枚におろします』とか『電源が入っているか確かめる』には、省略されているはずの『主語』が見つからない。
もし『私たちは』などと考えるなら『他の人たちはそうしませんか』という意見が加わって違う文になってしまう。 『どうして来なかったんですか』という文でも、主語と見られる『あなたが』をつけると『他の人がきた』という意味が加わってしまう。
意味が変わるとしたら、もはやこれらは『省略』ではないことは明らかだ。
その他、よく引用される三上章の文だが『黒板に【明日は休み】と書いてあった』や『いい陽気になりましたね』などにも『主語』はない。」
(金谷武洋著講談社選書メチェ『日本語に主語はいらない』)
主語廃止論者は主にアカデミック環境に身をおかない教育現場の人たちであることは記述した。
その中心的な人物は「街の語学者」三上章であろう。彼は論文や著作を通じて日本語文法学界に挑戦状をたたきつけた。
2019年2月25日月曜日
日本語考 3
日本語は文字種が漢字、ひらがな、カタカナと3種もあり、漢字は音読み、訓読みに分かれ、煩雑で難解な尊敬語や謙譲語まである。さらにこれらを縦書きにしたり横書きにしたりする。
外国人が日本語を話すだけならともかく読み書きまですべてマスターするとなると容易ではないだろう。
日本語が通用するのは原則日本に限られる。日本語は国連などの国際機関で公用語になっていない。国際的なビジネス用語でもない。日本語の小説が日本語のまま外国人に読まれることはまずない。
かかる意味において日本語は不便な言語である。だがこのことと日本語そのものの価値や利便性とは別の問題である。これについては稿を改め論じたい。
つぎに日本語が不正確ということについて。
志賀直哉が何をもって不正確と感じたか定かでない。したがってここでは日本語が英語やフランス語など西欧語と比較して不正確と感じたであろうことを前提として論をすすめたい。
言語が正確か不正確かは文法にかかわる構文によるところが大きい。
西欧の言語は主語、述語、目的語などと構文がはっきりしている。ところが日本語についてはそれほど明確ではない。
たとえば電車内の光景を見て「女子高生だ」、「可愛い」、「よくしゃべる」と表現した場合いずれも主語、述語、目的語などなく、単に名詞、形容詞、動詞だけであるがそれぞれがりっぱな日本語の一文になっている。
本のタイトルにもなった「象は鼻が長い」という「は」と「が」がある文でどちらが主語なのかという論争があった。 これが意味するところは日本人であれば何の問題もなく理解できる。ところが主語が何かとなると見解が分かれ紛糾した。
文法の解釈が分かれこと自体、日本語の文法が西欧語のようにはっきりしていない証ともいえる。主語論争は発展し日本語に主語が必要か不要かという論争にまでなった。
主語必要論者は、主にアカデミックな環境に身を置く人たちである。その代表格の一人尾上圭介氏はいう。
「述定文(述語を持つ文)には、表面上主語が現れていない場合も含めて、原理的に必ず主語があると、ほぼ言ってよい」
(日本語文法学界編大修館書店『日本語文法事典』 )
尾上氏は敷衍していう。
主語と述語とは、一つの存在を、存在するものと存在の仕方とに引き剥がして並べたものであって、原理的に一体である。述語を持つ文には原理的に必ず主語があると言わねばならない。
日本語の主語と英語等の主語とに間に、認識上の立場、述語に対する意味的立場などの点で大きな共通性があり、諸言語の主語とのこのようなつながりに目をふさいで日本語に主語はないと言ってしまうことは大きな損失である、と。
外国人が日本語を話すだけならともかく読み書きまですべてマスターするとなると容易ではないだろう。
日本語が通用するのは原則日本に限られる。日本語は国連などの国際機関で公用語になっていない。国際的なビジネス用語でもない。日本語の小説が日本語のまま外国人に読まれることはまずない。
かかる意味において日本語は不便な言語である。だがこのことと日本語そのものの価値や利便性とは別の問題である。これについては稿を改め論じたい。
つぎに日本語が不正確ということについて。
志賀直哉が何をもって不正確と感じたか定かでない。したがってここでは日本語が英語やフランス語など西欧語と比較して不正確と感じたであろうことを前提として論をすすめたい。
言語が正確か不正確かは文法にかかわる構文によるところが大きい。
西欧の言語は主語、述語、目的語などと構文がはっきりしている。ところが日本語についてはそれほど明確ではない。
たとえば電車内の光景を見て「女子高生だ」、「可愛い」、「よくしゃべる」と表現した場合いずれも主語、述語、目的語などなく、単に名詞、形容詞、動詞だけであるがそれぞれがりっぱな日本語の一文になっている。
本のタイトルにもなった「象は鼻が長い」という「は」と「が」がある文でどちらが主語なのかという論争があった。 これが意味するところは日本人であれば何の問題もなく理解できる。ところが主語が何かとなると見解が分かれ紛糾した。
文法の解釈が分かれこと自体、日本語の文法が西欧語のようにはっきりしていない証ともいえる。主語論争は発展し日本語に主語が必要か不要かという論争にまでなった。
主語必要論者は、主にアカデミックな環境に身を置く人たちである。その代表格の一人尾上圭介氏はいう。
「述定文(述語を持つ文)には、表面上主語が現れていない場合も含めて、原理的に必ず主語があると、ほぼ言ってよい」
(日本語文法学界編大修館書店『日本語文法事典』 )
尾上氏は敷衍していう。
主語と述語とは、一つの存在を、存在するものと存在の仕方とに引き剥がして並べたものであって、原理的に一体である。述語を持つ文には原理的に必ず主語があると言わねばならない。
日本語の主語と英語等の主語とに間に、認識上の立場、述語に対する意味的立場などの点で大きな共通性があり、諸言語の主語とのこのようなつながりに目をふさいで日本語に主語はないと言ってしまうことは大きな損失である、と。
主語は認識上なければならないものであって言語上ないから主語はいらないことにはならない。まさにこれが戦後の日本語文法教育の論理であり教育現場で実施されてきたものである。
これに対し同じ教育現場から主語はいらないと大胆に異を唱える人たちが現れてきた。
2019年2月18日月曜日
日本語考 2
古来わが国では言葉には魂が宿っている意の「ことだま」が信じられていた。聖ヨハネ福音書の冒頭には「はじめに言葉ありき」とある。ことばが人間社会の最も深奥の部分にかかわっていることの証であろう。
ところが日本語に疑問を抱きこれに誇りを持てず他の言語に変えたいという人が少なからずいる。
言葉のプロ、小説の神様とまで言われた大作家の志賀直哉はその代表格であろう。
最近の傾向ではグローバル化に遅れてはならじと小学校低学年から英語教育を行い、公用語を英語にする会社が現れてきた。
なぜこういうことになるのか。志賀直哉が雑誌『改造』1946年4月号に投稿したエッセー「国語問題」はそのヒントとなろう。
「吾々は子供から今の国語に慣らされ、それ程に感じてはゐないが、日本の国語程、不完全で不便なものはないと思ふ。
その結果、如何に文化の進展が阻害されてゐたかを考へると、これは是非とも此機会に解決しなければならぬ大きな問題である。此事なくしては将来の日本が本当の文化国になれる希望はないと云つても誇張ではない。
日本の国語が如何に不完全であり、不便であるかをここで具体的に例証することは煩はし過ぎて私には出来ないが、四十年近い自身の文筆生活で、この事は常に痛感して来た。
それなら、どうしたらいいか。仮名書きとか、ローマ字書きとか、さういふ運動は大分昔からあるが、却々ものにならない。
殊にローマ字運動は知名の人々がずいぶん熱心にそれを続けてゐるにもかかはらず、どうしても普及しないのは矢張りそれに致命的な欠陥があるのではないかと思はれる。
私は六十年前、森有礼が英語を国語に採用しようとした事を此戦争中、度々想起した。
若しそれが実現してゐたら、どうであつたらうと考へた。日本の文化が今よりも遙かに進んでゐたであらう事は想像できる。そして、恐らく今度のやうな戦争は起つてゐなかつたろうと思つた。
吾々の学業も、もつと楽に進んでゐたらうし、学校生活も楽しいものに憶ひ返すことが出来たらうと、そんな事まで思つた。
吾々は尺貫法を知らない子供達のやうに、古い国語を知らず、外国語の意識なしに英語を話し、英文を書いてゐたろう。
英語辞書にない日本語独特の言葉も沢山出来てゐたらうし、万葉集も源氏物語もその言葉によつて今より遙か多くの人々に読まれてゐたらうといふやうな事までが考へられる。
もし六十年前、国語に英語をさいようしてゐたとして、その利益を考へると無数にある。
私の年になつて今までの国語と別れるのは感傷的に堪へられない淋しい事であるが、六十年前にそれが切換へられてゐた場合を想像すると、その方が遙かによかつたとは思はないではゐられない。
国語を改革する必要は皆認めてゐるところで、最近その研究会が出来、私は発起人になつたが、今までの国語を残し、それを造り変へて完全なものにするといふ事には私は悲観的である。
自分にいい案がないから、さう思ふのかも知れないが、兎に角この事には甚だ悲観的である。不徹底なものしか出来ないと思ふ。
名案があるのだろうか。よく知らずに云ふのは無責任のやうだが、私はそれに余り期待を持つ事は出来ない。
そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとつて、その儘、国語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。
六十年前に森有礼が考へた事を今こそ実現してはどんなものであらう。不徹底な改革よりもこれは間違ひのない事である。
森有礼の時代には実現は困難であつたろうが、今ならば実現出来ない事ではない。
反対の意見も色々あると思ふ。今の国語を完全なものに造りかへる事が出来ればそれに越した事はないが、それが出来ないとすれば、過去に執着せず、現在の吾々の感情を捨てて、百年二百年後の子孫の為めに、思ひ切つた事をする時だと思ふ。」(『資料日本英文学史② 英語教育論争史』大修館書店)
このエッセーは当時世間の注目を浴びた。志賀直哉に影響を受けた文人たちは驚きかつ当惑した。そのあまりの奇抜さゆえに反論する人も少なかったという。
志賀直哉の息子(日本古典文学大系の編集を担当していた)はエッセーの真意を問われて「日本の文学が読まれない、わかってもらえないのは日本語が特殊なせいと考えていたのではないか」と答えたという。
日本語が不完全で不便であるため文化の進展が阻害されひいては戦争の原因にもなったとまで言われると唖然とするほかない。志賀直哉は日本語が不完全で不便である具体例を示していない。40年近い文筆活動でそう痛感したと言っているだけである。
この影響力ある大作家のエッセーは過激ではあるが日本語に懐疑的な人たちの気持ちを代弁している。
以下志賀直哉がいう日本語ほど「不完全で不便」なものはないことに焦点をあて検証してみたい。
ところが日本語に疑問を抱きこれに誇りを持てず他の言語に変えたいという人が少なからずいる。
言葉のプロ、小説の神様とまで言われた大作家の志賀直哉はその代表格であろう。
最近の傾向ではグローバル化に遅れてはならじと小学校低学年から英語教育を行い、公用語を英語にする会社が現れてきた。
なぜこういうことになるのか。志賀直哉が雑誌『改造』1946年4月号に投稿したエッセー「国語問題」はそのヒントとなろう。
「吾々は子供から今の国語に慣らされ、それ程に感じてはゐないが、日本の国語程、不完全で不便なものはないと思ふ。
その結果、如何に文化の進展が阻害されてゐたかを考へると、これは是非とも此機会に解決しなければならぬ大きな問題である。此事なくしては将来の日本が本当の文化国になれる希望はないと云つても誇張ではない。
日本の国語が如何に不完全であり、不便であるかをここで具体的に例証することは煩はし過ぎて私には出来ないが、四十年近い自身の文筆生活で、この事は常に痛感して来た。
それなら、どうしたらいいか。仮名書きとか、ローマ字書きとか、さういふ運動は大分昔からあるが、却々ものにならない。
殊にローマ字運動は知名の人々がずいぶん熱心にそれを続けてゐるにもかかはらず、どうしても普及しないのは矢張りそれに致命的な欠陥があるのではないかと思はれる。
私は六十年前、森有礼が英語を国語に採用しようとした事を此戦争中、度々想起した。
若しそれが実現してゐたら、どうであつたらうと考へた。日本の文化が今よりも遙かに進んでゐたであらう事は想像できる。そして、恐らく今度のやうな戦争は起つてゐなかつたろうと思つた。
吾々の学業も、もつと楽に進んでゐたらうし、学校生活も楽しいものに憶ひ返すことが出来たらうと、そんな事まで思つた。
吾々は尺貫法を知らない子供達のやうに、古い国語を知らず、外国語の意識なしに英語を話し、英文を書いてゐたろう。
英語辞書にない日本語独特の言葉も沢山出来てゐたらうし、万葉集も源氏物語もその言葉によつて今より遙か多くの人々に読まれてゐたらうといふやうな事までが考へられる。
もし六十年前、国語に英語をさいようしてゐたとして、その利益を考へると無数にある。
私の年になつて今までの国語と別れるのは感傷的に堪へられない淋しい事であるが、六十年前にそれが切換へられてゐた場合を想像すると、その方が遙かによかつたとは思はないではゐられない。
国語を改革する必要は皆認めてゐるところで、最近その研究会が出来、私は発起人になつたが、今までの国語を残し、それを造り変へて完全なものにするといふ事には私は悲観的である。
自分にいい案がないから、さう思ふのかも知れないが、兎に角この事には甚だ悲観的である。不徹底なものしか出来ないと思ふ。
名案があるのだろうか。よく知らずに云ふのは無責任のやうだが、私はそれに余り期待を持つ事は出来ない。
そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとつて、その儘、国語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。
六十年前に森有礼が考へた事を今こそ実現してはどんなものであらう。不徹底な改革よりもこれは間違ひのない事である。
森有礼の時代には実現は困難であつたろうが、今ならば実現出来ない事ではない。
反対の意見も色々あると思ふ。今の国語を完全なものに造りかへる事が出来ればそれに越した事はないが、それが出来ないとすれば、過去に執着せず、現在の吾々の感情を捨てて、百年二百年後の子孫の為めに、思ひ切つた事をする時だと思ふ。」(『資料日本英文学史② 英語教育論争史』大修館書店)
このエッセーは当時世間の注目を浴びた。志賀直哉に影響を受けた文人たちは驚きかつ当惑した。そのあまりの奇抜さゆえに反論する人も少なかったという。
志賀直哉の息子(日本古典文学大系の編集を担当していた)はエッセーの真意を問われて「日本の文学が読まれない、わかってもらえないのは日本語が特殊なせいと考えていたのではないか」と答えたという。
日本語が不完全で不便であるため文化の進展が阻害されひいては戦争の原因にもなったとまで言われると唖然とするほかない。志賀直哉は日本語が不完全で不便である具体例を示していない。40年近い文筆活動でそう痛感したと言っているだけである。
この影響力ある大作家のエッセーは過激ではあるが日本語に懐疑的な人たちの気持ちを代弁している。
以下志賀直哉がいう日本語ほど「不完全で不便」なものはないことに焦点をあて検証してみたい。
2019年2月11日月曜日
日本語考 1
日本語については時代の節目でこれを見直そうという議論が起きた。比較的最近では敗戦後、漢字を全廃しひらがなにする案や小説家の志賀直哉がエッセーで日本語を廃止してフランス語を採用したらどうかと提案した。
今から見れば奇抜にみえるが当時はマジメに議論された。敗戦直後にわが国を覆ったアノミーがその原因であったのだろう。
さすがにそのような主張は受け入れられなかったものの敗戦が日本語に影響したことは確かである。文章が文語調から口語調に変化し、英語的言い回しや文法が重視がされるようになった。
時代を明治維新まで遡ればこれと同じような現象があった。初代文部大臣森有礼は英語の公用語化を、郵政創設者の前島密は漢字を全廃しひらがなの国字化を主張したがいずれも採用されなかった。
明治維新で日本人の生活は一変したが当然ながらこのことは言語にも及んだ。手紙は候文(そうろうぶん)があたりまえのように使われていたが、これを改めて言文一致でいこうということになった。
候文はじめ従来の日本語の文章の型が崩れていった反面、日本語が論理的表現により適応した言語となった。
そして今や森羅万象のことを日本語で表現できないことはなく外国の文献も日本語に訳せないものはないまでになった。
だが表現できることと言葉として人に訴えるものは別である。
言葉の世界でリードすべき人たち、たとえば学者、政治家、官僚、ジャーナリズムの人たちの日本語がはたして国民に訴え感動させるものがあるだろうか。
霞ヶ関文法と揶揄される官僚の文章の難解さはとても国民向けとは言えないし、政治家の紋切り型の演説は聴衆を感動させる雄弁家のそれとはほど遠い。
彼らが分かり難い紋切り型の言葉で語れば語るほど人民の心は離れる。
言葉が人を相手にする以上それは論理的で感情豊かなものでなければならない。言語の機械化がすすむ現代ではなおさらそうである。
今から見れば奇抜にみえるが当時はマジメに議論された。敗戦直後にわが国を覆ったアノミーがその原因であったのだろう。
さすがにそのような主張は受け入れられなかったものの敗戦が日本語に影響したことは確かである。文章が文語調から口語調に変化し、英語的言い回しや文法が重視がされるようになった。
時代を明治維新まで遡ればこれと同じような現象があった。初代文部大臣森有礼は英語の公用語化を、郵政創設者の前島密は漢字を全廃しひらがなの国字化を主張したがいずれも採用されなかった。
明治維新で日本人の生活は一変したが当然ながらこのことは言語にも及んだ。手紙は候文(そうろうぶん)があたりまえのように使われていたが、これを改めて言文一致でいこうということになった。
候文はじめ従来の日本語の文章の型が崩れていった反面、日本語が論理的表現により適応した言語となった。
そして今や森羅万象のことを日本語で表現できないことはなく外国の文献も日本語に訳せないものはないまでになった。
だが表現できることと言葉として人に訴えるものは別である。
言葉の世界でリードすべき人たち、たとえば学者、政治家、官僚、ジャーナリズムの人たちの日本語がはたして国民に訴え感動させるものがあるだろうか。
霞ヶ関文法と揶揄される官僚の文章の難解さはとても国民向けとは言えないし、政治家の紋切り型の演説は聴衆を感動させる雄弁家のそれとはほど遠い。
彼らが分かり難い紋切り型の言葉で語れば語るほど人民の心は離れる。
言葉が人を相手にする以上それは論理的で感情豊かなものでなければならない。言語の機械化がすすむ現代ではなおさらそうである。
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