2019年2月25日月曜日

日本語考 3

 日本語は文字種が漢字、ひらがな、カタカナと3種もあり、漢字は音読み、訓読みに分かれ、煩雑で難解な尊敬語や謙譲語まである。さらにこれらを縦書きにしたり横書きにしたりする。
 外国人が日本語を話すだけならともかく読み書きまですべてマスターするとなると容易ではないだろう。
 日本語が通用するのは原則日本に限られる。日本語は国連などの国際機関で公用語になっていない。国際的なビジネス用語でもない。日本語の小説が日本語のまま外国人に読まれることはまずない。
 かかる意味において日本語は不便な言語である。だがこのことと日本語そのものの価値や利便性とは別の問題である。これについては稿を改め論じたい。

 つぎに日本語が不正確ということについて。
 志賀直哉が何をもって不正確と感じたか定かでない。したがってここでは日本語が英語やフランス語など西欧語と比較して不正確と感じたであろうことを前提として論をすすめたい。
 言語が正確か不正確かは文法にかかわる構文によるところが大きい。
 西欧の言語は主語、述語、目的語などと構文がはっきりしている。ところが日本語についてはそれほど明確ではない。
 たとえば電車内の光景を見て女子高生だ」、可愛い」、よくしゃべる」と表現した場合いずれも主語、述語、目的語などなく、単に名詞、形容詞、動詞だけであるがそれぞれがりっぱな日本語の一文になっている。
 本のタイトルにもなった「象は鼻が長い」という「は」と「が」がある文でどちらが主語なのかという論争があった。 これが意味するところは日本人であれば何の問題もなく理解できる。ところが主語が何かとなると見解が分かれ紛糾した。
 文法の解釈が分かれこと自体、日本語の文法が西欧語のようにはっきりしていない証ともいえる。主語論争は発展し日本語に主語が必要か不要かという論争にまでなった。
 主語必要論者は、主にアカデミックな環境に身を置く人たちである。その代表格の一人尾上圭介氏はいう。

 「述定文(述語を持つ文)には、表面上主語が現れていない場合も含めて、原理的に必ず主語があると、ほぼ言ってよい」
 (日本語文法学界編大修館書店『日本語文法事典』 )

 尾上氏は敷衍していう。
 主語と述語とは、一つの存在を、存在するものと存在の仕方とに引き剥がして並べたものであって、原理的に一体である。述語を持つ文には原理的に必ず主語があると言わねばならない。
 日本語の主語と英語等の主語とに間に、認識上の立場、述語に対する意味的立場などの点で大きな共通性があり、諸言語の主語とのこのようなつながりに目をふさいで日本語に主語はないと言ってしまうことは大きな損失である、と。


 主語は認識上なければならないものであって言語上ないから主語はいらないことにはならない。まさにこれが戦後の日本語文法教育の論理であり教育現場で実施されてきたものである。
 これに対し同じ教育現場から主語はいらないと大胆に異を唱える人たちが現れてきた。

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