ところが文法的には「私は」と「私が」がいずれも主語で「木下です」が述語という同じ主語述語関係である。これが学校で教えている文法である。
ところが現場の先生は「は」と「が」の違いの使い分けをどう教えているのだろうか。「は」と「が」ともに主格であることの意味を詳しく説明するのは難しいに違いない。
これに答えたのが高校数学教師の三上章である。
彼は日本語にはもともと主語はないしその必要もないと主張する。
たとえば「私は昨日西武ドームで野球を観戦した」を例にとってみよう。
「私」「昨日」「西武ドーム」「野球」、この順序をどう入れ替えても意味は通じる。
つまりこれら4つは「観戦した」という述語を修飾しているという意味において同列である。
「私は」は、主語ではなく「私についていえば」という程の意味で「観戦した」という述語の動作の主体をあらわす「修飾語」である。
つまり「私が」は英仏などヨーロッパ語の主語のように見えるが、「私は」は明らかに主語ではなく修飾語である。こう説明すると文法的にスッキリする。
三上章は日本語には主語がいらない消極的理由と積極的理由があるという。
まず消極的理由から。
「センテンス中に現れる体言をどうして主語と補語との二階級に峻別するか。
ヨオロッパ語の建前では動詞の活用語尾に干渉する体言と干渉しない体言との区別である。
近代英語や漢文では用言の前に来る体言と後に来る体言との区別である。
然るに我が国語では活用にも語順にもかういふ遮断が求められない。
第1条、主語は述語に先立つ、 第2条、補語は動詞に先立つ、と書分けてあつても、実は一括して体言が用言に先立つといふに過ぎない。
これが「何々ガ」を主語と見做し難い消極的理由である。」
(三上章著くろしお出版『現代語法序説ー語法研究への一提試』)
ヨーロッパ語は、主語によって動詞の語尾が変化する。たとえば I do it. He does it.など。また通常の文で主語の前に動詞がくることもない。
日本語は、主語「が」が動詞支配をせず、語順の上で特別な位置にない。ただ、主格「が」は相対的上位にあり文頭にくる傾向が強い。
日本語は、主語「が」が動詞支配をせず、語順の上で特別な位置にない。ただ、主格「が」は相対的上位にあり文頭にくる傾向が強い。
次に積極的理由について。
私がヤツタといふのを正直に英訳すれば It’s me(or I)that did it. とでもしなくてはなるまいが、このやうに英文でさへ「私」を補語の 位置に持つて来ることを見れば思ひ半ばを過ぎよう。」(前掲書)
主格「が」は語順上は述語の前にくるが心理的には述語を後から補う補語である。
たとえば「源太が平次に本を貸した」において、「が」は「に」や「を」とともに述語を補う補語である。ただ、「が」が動作の主体であるから「源太が」が首席補語である。(首席補語ではあるが主語ではない)
三上章はこの論文「語法研究への一提試」を振り出しに主語廃止論を展開した。
特に日本語文法で読点や句点を超えて支配する力がある「は」一つに絞って日本語文法の土台を明らかにしようとした著作「象は鼻が長い」は従来の日本語文法を根底から覆すコペルニクス的転回である。その末尾でこう締めくくっている。
「わたしは成功するか失敗するかです。失敗すれば、むろんそれきりです。
特に日本語文法で読点や句点を超えて支配する力がある「は」一つに絞って日本語文法の土台を明らかにしようとした著作「象は鼻が長い」は従来の日本語文法を根底から覆すコペルニクス的転回である。その末尾でこう締めくくっている。
「わたしは成功するか失敗するかです。失敗すれば、むろんそれきりです。
成功すればーだれも主語だの主述関係だの言わなくなり、言わないことがあたりまえ至極になって、そんなあたりまえ至極なことをムキになってのべ立てたかどでわたしは罰金を取られる、ということもないでしょうが、もはや用がなくなって忘れられてしまいます。
そういう忘却の光栄を目ざして、わたしはなおムキになりつづけます。」
そういう忘却の光栄を目ざして、わたしはなおムキになりつづけます。」
(三上章著くろしお出版『象は鼻が長い』)
この三上章の意気込みに対して日本語文法学界はじめ日本語文法に携わる人たちはどう応えたのだろうか。
この三上章の意気込みに対して日本語文法学界はじめ日本語文法に携わる人たちはどう応えたのだろうか。
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