2018年6月25日月曜日

AI時代の格差問題 3

 超富裕層は地球を脱出して理想の人工居住地に移住するが貧しい人たちは地球に取り残されたまま。SF映画「エリジウム」は遠い将来の出来事のように思えるが類似のことが既にこの地上で起きている。
 驚くことにアメリカでは富裕層が自分たちだけ合法的に脱出ー貧困層と離脱ーを試みている。
 メディアにも採りあげられたアメリカ南東部のジョージア州フルトン郡のサンディスプリングス市がその先駆けである。これに続く市も誕生し今後も増える傾向にあるという。
 その経緯はこうだ。アメリカ50州の下に郡という約3000の行政単位がある。郡の住民は郡の中に新たに市をつくる法案を州議会に提出することができる。州議会の承認が得られれば住民投票にかけ賛成多数で新しい市が誕生する。
 この制度を利用して富裕層は自分たちが住んでいる地区の独立を目指す。
 新しい市をつくる動機は税金の使途が不公平であるからと言う。
 一つの例として警察官の配置が貧困地域に偏っていて富裕層が住んでいる地域の治安が悪くなっていることをあげている。
 こういうことがまかり通るのもいかにも自由の国アメリカらしい。
 AI時代にはこの傾向はますます強くなるだろう。格差の拡大は不公平であるだけでなくトータルとして力を弱める。それゆえ格差拡大には歯止めをかけなければならない。
 それにはまず格差を生む根本的な原因を分析しなければならない。
 コロンビア大学のスティグリッツ教授は格差の原因について注目すべき見方をしている。

 「アメリカ国内の不平等は偶然の産物ではない。人為的に創り出されたものである。
 これを証明するのはたやすい。経済原則は万国共通なのに、現在のような不平等ーとりわけ上位1パーセントに集中する富の量ーは、アメリカ特有の ”偉業” だからだ。
 このとほうもない不平等は、希望を生み出すような道をたどることはなく、実際のところ、状況はさらに悪化していく可能性が高い。
 不平等を創り出してきた力には、自己増幅の機能がそなわっているのだ。不平等の源を理解しておけば、不平等解消のコストと利益をより良く理解できる。
 『レントシーキング経済と不平等な社会のつくり方』の論題は、たとえ市場の力が不平等の形成に手を貸しているとしても、その市場の力を形成するのは政府の政策であるという点だ。
 いまの不平等の多くは、政府の作為もしくは不作為の結果と言っていい。
 政府の権力をもってすれば、上層から中下層へ金を移動させることも、その逆も可能なのである。」
 (ジョセフ・E・スティグリッツ著楡井浩一+峯村利哉訳徳間書店『世界の99%を貧困にする経済』)

 ”不平等を生む源は経済よりも政治にある” スティグリッツ教授はこう断言している。
 そしてこのことによって民主主義が危機にさらされていると言う。

 「アメリカをふくむ多くの国々で見られる現行の不平等は、抽象的な市場の力から自然に発生したものではなく、政治によって形成されて強化されたものである。
 国家経済のパイをどう配分するかをめぐって、政治という戦場では戦いが繰り広げられているが、勝利を収めてきたのは上位1パーセントの人々だ。
 本来、民主主義はこんなふうに機能するはずがない。1人1票の制度のもとでは、100パーセントの人々に配慮がなされるはずなのだ。
 現代の政治経済理論が予想するところによれば、1人1票の選挙から生み出される結果には、エリートではなく平均的市民の意見が反映される。
 もっと正確に言うと、明確な嗜好を持つ個人が自己利益にもとづいて投票する場合、民主的選挙の結果には ”中位” 投票者ーちょうど真ん中の投票者ーの意見が反映される。」(前掲書)

 だが現実は政治経済理論と大きく乖離している。

 「なぜ中流層の人々は、理論が予測するような政治的影響力を持てなかったのだろうか?
 そして、なぜアメリカの現行制度は、1人1票制ではなく、1ドル1票制のように見えるのだろうか?
 本書がこれまで述べてきたとおり、市場を形作っているのは政治である。政治が経済ゲームのルールを決め、上位1パーセントに有利な舞台がつくり出される。
 そして、このような現状の一因として挙げられるのは、政治ゲームのルールが上位1パーセントによって形成されていることだ。」(前掲書)

 政治が経済ゲームのルールを決めている。1人1票制ではなく、1ドル1票制であればそれは民主主義の死を意味する。
 格差の原因がこのようなルールによるものであれば対策もこれにそってなされなければならない。
 AI時代にふさわしい格差対策とは何か。すでに有力な対策案が俎上に上がり議論されている。

2018年6月18日月曜日

AI時代の格差問題 2

 2154年地球は人口爆発により生活環境が悪化した。超富裕層は地球を脱出し衛星軌道上に建造した人工居住地「エリジウム」に移住した。
 このようなストーリーのSF映画「エリジウム」は格差問題がテーマとなっている。
 たとえば難病の白血病も「エルジウム」では簡単に治せる。だがそれを享受できるのは「エルジウム」の市民権を持つ人だけ。しかし「エルジウム」市民権は固く閉ざされている。
 AIが進化すればこのSF映画も夢物語ではなくなるかもしれない。バラ色の夢ではなく悪夢として。

 AIが進化すればなぜこのような格差が生まれるのか。原因は究極の技術革新にある。
 技術革新は人類の歴史と共に進化してきた。蒸気機関、オートメーション、コンピュータそしていまIOT(Internet of Things)が現在進行形である。
 格差の原因は技術革新によってもたらされる雇用にある。
過去新しい技術が発明されるたびに失業した労働者たちが機械を打ち壊すラッダイト運動が発生した。
 だが機械を打ち壊したその失業者たちもやがて技術革新によって生まれた新しい仕事につくことができた。
 現在までの技術革新の歴史はこの繰り返しであった。ところが現在のIOT時代の先にある本格的なAI時代が到来すれば様相は一変するであろう。
 本格的なAI時代とは汎用AI時代である。将棋、囲碁、翻訳などある分野に特化したAIは既に開発されたものもあり今後もますます進むであろう。
 この特化型AIは従来の技術革新の延長線上にある。問題となるのは汎用AIである。汎用AIの開発が完了すればそれは次元の異なる技術革新となる。
 汎用AIは人と同等またはこれを超える能力を持ちかつ汎用AIが汎用AIを造るという増殖能力を持つ。
 こういう汎用AIを人がコントロールできるか否かは研究者によって見解が分かれる。だが雇用面から見れば人と同等以上の仕事をする汎用AIが殆んどの人の仕事を奪うであろうことは確かである。
 汎用AIに仕事を奪われた人はこの技術革新によって新しい仕事ができたとしても増殖された汎用AIがこれを担うため仕事がなくなる。この意味において汎用AIは従来と次元が異なる技術革新である。

 そうなればどのような社会となるか。殆んどの人は失業する。汎用AIが生産の殆んどを担うからである。
 ところで生産は消費する人がいなければ意味がない。しかし失業者は消費するために必要な所得がない。所得がないからこれを政府が給付するほかない。これは正義とか公正以前にAI時代の経済を回転させるために必要な制度である。AI時代のベーシックインカムの発想の原点がここにある。
 これで万事うまくいくかというとそうではないから厄介である。汎用AIで生産する資本家とベーシックインカムの給付をうける消費者の関係である。
 ここには想像を絶する格差が生じる。 資本家は汎用AI投資がもたらすその厖大な資力をもとに政治力を発揮し理想の生活を追求することができるであろうが政府から給付を受けるだけの消費者は生産物を消費するだけの資力しかなく政治力など発揮しようがない。まさに「エリジウム」の世界である。来るべきAI時代の悲観的なストーリーの一つである。

2018年6月11日月曜日

AI時代の格差問題 1

 フランスの経済学者トマ・ピケティは、15年の歳月を費やして200年以上の資産や所得の厖大なデータを収集・分析した。
 その結果、資本主義の下では株、債権、不動産などの資本から得られる配当、利子、賃料などの収益の増加率が労働によって得られる賃金の上昇率を常に上回り格差は拡大し続けるばかりと結論づけた。
 18世紀の産業革命から2010年まで世界の経済成長率は平均1.6%であったが資本収益率は4~5%であったという。
 この分析結果をもとに彼は格差拡大のメカニズムを不等式  r>g  で説明した(rは資本収益率、gは経済成長率)。
 次図は高額所得者の所得シェアの国際比較である。第二次世界大戦で所得格差が大幅に縮小したが戦後再び拡大している様子が見てとれる。
 日本の場合上位10%のシェアでは図のように米英などアングロサクソン寄りとなっているが、上位1%のシェアではドイツ、フランスなど欧州大陸寄りになっている。
 これは日本の格差拡大の問題点が富裕層の増加より低所得層の増加にあることを示している。これを裏付けるように所得が中央値の半分に満たない人の割合を示す相対的貧困率が1985年の12%から2012年の16.1%に上昇している。


 
 格差拡大は以前から問題とされてきたがピケティによって改めて大々的にクローズアップされた。格差は資本主義の宿命であるのでこれが対策としてピケティは累進課税の富裕税を提案している。
 だが、最近は資本主義の宿命などで済まされそうにないことが起こりつつある。
 人工知能AI時代の到来である。この未だかって経験したことがないような革命が到来すれば格差問題の処方箋も従来の考え方を捨て去らなければならないかもしれない。それほど深刻かつ差し迫った問題である。
 それは今われわれが理念としている自由とか民主主義をも否定しかねないほどの破壊力をもっている。以下AIについて格差問題に焦点をあて考えてみたい。

2018年6月4日月曜日

健全財政の罠 6

 財政健全化の必要性を訴える人がしばしば使うきまり文句がある。
「国の借金が1000兆円あるいはGDPの約2倍という、国際的に見ても突出した規模に及んでおり、われわれは膨大な借金を将来世代にツケ回ししている。」
 発言する人が意図しているかどうかにかかわらずこれは明らかにトリックである。
 大きな嘘に騙されないためにはどうしたらいいか。例えば、財務省のホームページに日本の財政を考えるという動画がある。
 この動画に嘘があるかもしれないと疑問をもつ人がどれだけいるだろうか。
 まずたいていの人は疑念など抱かず親切で分かりやすいと思うだろう。日本で最も権威ある官庁の動画に嘘などある筈ないと。

 だが信じることには偽りが多く疑うことには真理が多い、文明は疑いが進歩させると福澤諭吉は言った。

 「東西の事物をよく比較して、信ずべきことを信じ、疑うべきことを疑い、取るべきことを取り、捨てるべきことを捨て、それをきちんと判断するというのは、なんとも難しいことである。
 そして、いまこの仕事を任せられるのは、ほかでもない、唯一われわれのように学問をするものだけなのだ。学問をするものががんばらなくてはならない。
 孔子も『自分であれこれ考えるのは、学ぶことにはおよばない』と言っている。
 多くの本を読み、多くの物事に接し、先入観を持たずに鋭く観察し、真実のありかを求めれば、信じること疑うことはたちまち入れ替わって、昨日信じていたことが疑わしくなることもあるだろうし、今日の疑問が明日氷解することもあるだろう。学問をする者はがんばらないといけない。」(前掲書)

 正しい判断力、豊かな発想は学ぶことによって獲得される。
 いくら個人で経験を積み、それをもとに考えを廻らしても自ずから限界がある。特に財政についてはそうである。その仕組みが家計と似て非なるものだからである。
 消費税などわれわれの暮らしに直結する財政はわれわれ自身の問題である。にもかかわらず財政など他人事と考えている人は多い。
 好むと否とにかかわらずわれわれは何らかの形で政治にかかわっている。政治にかかわる以上財政の知識があるとないとでは政治を見る目に差がでてくる。
 財政について知識があれば財政政策についてそれなりの判断ができるであろうがなければ判断のしようがない。

 この20年間わが国は財政健全化の旗印のもと緊縮財政策に終始した。この結果成長が頓挫した。
 たとえば隣国中国との比較で、20年前1998年の中国のGDPは日本のわずか0.26倍にすぎなかったが今年2018年の推計では日本の2.73倍とはるか先を越されてしまった。(2018年4月時点のIMF推計値 USドルベース)
 主な原因はデフレ下にもかかわらず緊縮政策というインフレ対策を行ってきたからである。このことは増税と歳出削減の度に景気停滞に見舞われたことからも明らかである。
 緊縮財政は時の政権が主導してきたがお膳立ては財務省というのが大方の見方である。財務省による緊縮財政を誰も止めることができなかった。
 官僚は暴走する。戦前の軍部、そしていま財務官僚とその構図は変わっていない。
 それなら官僚の暴走を止めればいいではないかと簡単に言う人がいるが、それがどんなに大変なことであるか。今も昔も官僚は放っておけば肥大し暴走することは古今東西の歴史が証明している。
 どうしたらいいか。それにはまず暴走を止める環境つくりが必要だろう。
 個人であれ組織であれ権力は強大になればなるほどまた長くなればなるほど腐敗しやすくなる。財務省は国家の徴税と予算編成という権限をもつ。
 徴税権をもつ財務省傘下の国税庁は査察権と国民のすべての資金をチェックできるという強大な権限をもっている。
 権限を分散するには、この国税庁を財務省から完全に独立させ新たに社会保険料と税金を一括して徴収する歳入庁を設置するという方法がある。この案は不祥事が発生するたびに問題提起されてきたがかけ声だけに終わっている。
 政治家、財界人、学者、言論人など日本をリードする階層の過半が緊縮財政策に賛成で事実上財務省を支持しているからである。
 これを実現するのは容易ではない。実現するためには国民の総意が最後のよりどころとなるが一朝一夕にしてできることではない。
 サミュエル・スマイルズが言ったように、国民のレベルが上がれば政治家のレベルもあがる。 
 ここで国民のレベルを上げるとは財政リテラシーを上げることである。これなくして明日への展望が開けない。
 福澤諭吉流にいえば ”財政リテラシーのすすめ” は喫緊の課題であり学問するものはがんばらないといけない。

2018年5月28日月曜日

健全財政の罠 5

 「たいていの人は小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい」 アドルフ・ヒットラーは政権奪取前に自著『わが闘争』でこう述べている。
 このヒットラーの言葉が今の日本で現実に起きている。こういっても俄かには信じ難いだろうが残念ながらこれは事実である。しかもその嘘が国家の財政についてであるから事は深刻である。
 例えば
1 日本の借金は厖大で17年末1085兆円(2018.2.9財務省)で赤ん坊を含めて一人当たり858万円となる。
2 財政を立て直すには増税するしかない。とりわけ消費税は現在8%であるが諸外国に比し低すぎる。将来的にはこれを20%にまで上げなければ財政再建などとてもできない。
3 わが国の財政は危機的でこのままでは破綻する。

 これらのことおよびこの類のことが財務省を発信源として広く深く浸透している。それは一般国民だけでなく政界、財界、学界、言論界など国民をリードする立場にある階層にまで浸透している。腕利きのマジシャンの催眠術にでもかかったような浸透ぶりである。

 実態はこうである。
① 国民が借金しているのではなく政府が借金している。貸し手は個人や企業であり一人あたり858万円政府に貸している。
② 消費税収は諸外国に比しけして少なくない。消費税8%の現時点においてもそうである。
 国税の税目別収入のうち消費税が占める割合
        日本     27.9%
        アメリカ    0
        イギリス   26.3%
        ドイツ    35.4%
        フランス   50.5%
        イタリア   27.3%
   (2017年6月財政金融統計月報第782号から)
③ わが国には財政問題は存在しない。国債は自国通貨建てで、かつ90%以上が国内で消化されている。対外純資産328兆円27年連続世界一である。(2018.5.25閣議報告

 なぜこういうことになるのか。消費税を増税すれば消費が停滞し意図に反し減収となることはこれまでの実績が示している。財務官僚もこのようなことでGDPが停滞し国民が貧乏になるのを望んでいるわけではないだろう。特に日本の消費税は欧州と違い一律に課されるため増税は経済的弱者に厳しく経済格差を一層拡大させる。
 彼らに悪意の意図があるとは思えないが目指していることはまぎれもなく日本の貧困化である。
 組織の論理はあらゆるものに優先する。組織には掟があり、内部規範は絶対的である。最近の財務省の一連の不祥事がこのことを図らずも証明している。
 一方、だまされる側にも一定の責任があるだろう。嘘を真実と信じこんでしまう側である。財政に関する正しい知識が不足しているがゆえに易々とだまされてしまう。
 財政リテラシーの欠如は、いまや糖尿病などの生活習慣病と同じく国民の身体を蝕む深刻な経済の病である。

 福澤諭吉は学問とは何かについて定義している。

 「文字は学問をするための道具にすぎない。たとえば、家を建てるのに、かなづちやのこぎりといった道具がいるのと同じだ。
 かなづちやのこぎりは建築に必要な道具ではあるけれども、道具の名前を知っているだけで、家の建て方を知らないものは大工とは言えない。
 これと同じで、文字を読むことを知っているだけで、物事の道理をきちんと知らないものは学者とは言えない。いわゆる『論語読みの論語知らず』というのはこのことである。  『古事記』は暗誦しているけれども、いまの米の値段を知らないものは、実生活の学問に弱い人間である。
 『論語』『孟子』や中国の史書については詳しく知っているけれども、商売のやり方を知らず、きちんと取引ができないものは、現実の経済に弱い人間である。
 何年も苦労し、高い学費を払って西洋の学問を修めたけれども、独立した生活ができないものは、いまの世の中に必要な学問に弱い人間だと言える。
 こうした人物は、ただの『文字の問屋』と言ってよい。『飯を食う字引』にほかならず、国のためには無用の長物であって、経済を妨げるタダ飯食いと言える。
 実生活も学問であって、実際の経済も学問、現実の世の中の流れを察知するのも学問である。和漢洋の本を読むだけで学問ということはできない。」
 (福澤諭吉著斉藤孝訳ちくま新書『学問のすすめ』)

 知識だけでは何にも役に立たない。健全財政という罠にはまってしまって20年以上もデフレから脱却できずにのたうちまわっている現状を解決できなければ、どんな理屈をこねようと、国のためには福澤諭吉流に言えば ”無用の長物” ということになる。

2018年5月21日月曜日

健全財政の罠 4

 近代社会のシステムは複雑多岐で官僚も有能であることが求められる。法律を忠実に執行する能力が官僚に求められる。
 セクハラ疑惑で辞任に追い込まれた財務省の福田前事務次官は辞任会見で「われわれは財政の管理人にすぎない」と語った。
 管理人であれば与えられた目的を達成するのが任務である。管理人が政治に介入することなどあってはならない。
 ところがこれは建前である。現実にはわが国では官僚が政治の領域へ容赦なく踏み込んでいる。
 重要な財政政策は実質官僚が取り仕切っている。本来これは政治家が率先してリーダーシップを発揮すべき分野である。
 官僚にも言い分があるに違いない。なにも好きこのんで政治に首を突っ込んでいるわけではない。そうせざるを得ないからそうしているのだと官僚は弁明するだろう。ここにこの問題の核心の一端がある。
 明治初期多くの青年が読んだ本がある。「学問のすすめ」と「自助論」である。当時の大ベストセラーであり警世・啓蒙の書である。これ等の書は国際的にも地盤沈下した現代のわが国にとっても今なお色あせることがない書である。

 まず「自助論」から
 この本は大英帝国全盛期のサミュエル・スマイルズの書で冒頭近くに国家と国民の関係についてのくだりがある。
 「政治とは、国民の考えや行動の反映にすぎない。どんな理想を掲げても国民がそれについていけなければ、政治は国民のレベルまでひきさげられる。逆に、国民が優秀であれば、いくらひどい政治でもいつしか国民のレベルにまで引き上げられる。
 つまり、国民全体の質がその国の政治の質を決定するのだ。これは、水が低きに流れるのと同じくらい当然の論理である。
 立派な国民がいれば政治も立派なものになり、国民が無知と腐敗から抜け出せなければ劣悪な政治が幅をきかす。
 国家の価値や力は国の制度ではなく国民の質によって決定されるのである。」
(サミュエル・スマイルズ著竹内均訳三笠書房『自助論』)

 政治家のレベルが低いのは国民のレベルが低いからだ。政治家のレベルを上げるには国民のレベルを上げなければならない。 
 まして政治家を選挙で選ぶ民主主義国家においてはなおさらそうであろう。次図は国民が政治家をどう見ているかの国際比較である。

 


 日本の政治家がいかに信頼されていないかが分かる。日本国民は自分たちが選んだ政治家を信頼していない。 政治家が信用されなければ行政の執行を担う官僚への依存が高くなるのは理の当然である。
 ましてわが国は官僚国家といわれるほど官僚に対する依存度が高い。昔から ”お役人さん” は畏れられもしたが公平で信頼できる人でもあった。だが権限が増大するにつれ官僚の振舞いも次第に尊大になった。
 もともとの習性として官僚は放っておけばどこまでも権力を求める。
 だが官僚の専横を許したのは官僚の習性もさることながらそれ以上に国民と政治家の共同作業によるところが大きい。国民と政治家が長い期間をかけて役人の専横を醸成してきたからに他ならない。
 その結果、役人が政治を実質的に取り仕切るという最悪の事態となった。
 この事態を改善するのは容易ではない。言うは易く行うは難し、だが手を拱いていてはなにごとも変わらない。
 殷鑑(いんかん)遠からず。失敗の手本および問題解決の糸口は身近にある。福澤諭吉の「学問のすすめ」がそれである。少しも色あせていないばかりかすっかり自信をなくした今こそ読まれてしかるべき書である。

2018年5月14日月曜日

健全財政の罠 3

 官僚政治の国家、それがわが国の実態である。建前上は民主国家であるが一歩踏み込めば官僚による統制がゆきわたっている。
 近代国家では立法、行政、司法の三権が分立しそれぞれの役割を担っている。
 ところが日本では建前はそうであっても実質官僚がこれを壟断している。官僚が法律をつくり、運用し、かつ解釈までしている。

 わが国の法案は、議院内閣制であること、政党には党議拘束があることおよび提出時に法案に賛同する人数要件をクリアしなければならないなどのハードルがあり議員立法は少なく殆んどが政府提出法案である。議員立法を33本も成立させた田中角栄は例外中の例外である。
 法案は官僚が起案し内閣法制局を経て閣議決定され国会へ送られる。実質上官僚が法律を作っている。
 重要な政策、例えば骨太の方針は閣議決定される以前に官僚によって外堀が埋められ、内閣はこれを追認するだけ。
 運用については、文科省が獣医学部新設の申請受付を法律の根拠なく中止していたように、裁量行政が普通に行われている。裁量行政がもたらす権力は強大で国民だけでなく政治家までこれに悩まされている。
 官僚は司法にまで手を伸ばす。たとえば条例の解釈などに疑義が生じた場合、裁判所に持ち込まれるのはまれで、殆んどが地方の役所で解釈される。それでも解決しない場合中央にまで持ち込まれ当局がこれを裁定し決着がつく。

 このようにわが国の官僚の振舞いが極めて政治的であることは明らかである。
 古今東西の官僚制を研究したマックス・ウエーバーは「職業としての政治」のなかで政治家の本文と官僚のそれは異なるという。


 「官僚は間違っていると思う命令でも、誠実かつ正確に、あたかもそれが彼自身の信念に合致しているかのように執行することが名誉である。このような倫理的規律と自己否定がなければ官僚機構は崩壊してしまう。
 これに反し国政を担う政治指導者は自分の行為の責任を自分一人で負うことが名誉である。責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、許されもしない。
 ゆえに政治的な意味において最も名誉ある優秀な官僚は政治家としては最も無責任かつ道徳的に劣っている。」

 これが有名な ”最高の官僚は最悪の政治家である” の由来である。官僚が自分の本分を離れ政治家の分野に踏み込めば意図せずとも無責任な結果を招くという。
 残念ながらわが国の官僚主導の財政策はその好個の例であり二重の意味で罪が深い。
 デフレ時のインフレ対策という誤った政策であること、およびそのことによる責任を一切負おうとしないことである。

 わが国は今も昔も官僚をエリートと思ってきた。官僚もまた自分たちをエリートと思ってきた。
 順調に国が発展しているときはなんら問題はなかった。ところがそうでなくなると誰かが責任を負わなければならなくなる。
 その責任は誰が負うべきか。これまでの考察では官僚のようにも思える。またそう主張する人も多い。
 だがよく調べてみるとそうでないことが分かる。真の責任は官僚ではなく他にある。
 そのヒントは近代日本の黎明期に求めることが出来る。これが分かれば自ずと解決策も浮かび上がってくる。