財政健全化の必要性を訴える人がしばしば使うきまり文句がある。
「国の借金が1000兆円あるいはGDPの約2倍という、国際的に見ても突出した規模に及んでおり、われわれは膨大な借金を将来世代にツケ回ししている。」
発言する人が意図しているかどうかにかかわらずこれは明らかにトリックである。
大きな嘘に騙されないためにはどうしたらいいか。例えば、財務省のホームページに日本の財政を考えるという動画がある。
この動画に嘘があるかもしれないと疑問をもつ人がどれだけいるだろうか。
まずたいていの人は疑念など抱かず親切で分かりやすいと思うだろう。日本で最も権威ある官庁の動画に嘘などある筈ないと。
だが信じることには偽りが多く疑うことには真理が多い、文明は疑いが進歩させると福澤諭吉は言った。
「東西の事物をよく比較して、信ずべきことを信じ、疑うべきことを疑い、取るべきことを取り、捨てるべきことを捨て、それをきちんと判断するというのは、なんとも難しいことである。
そして、いまこの仕事を任せられるのは、ほかでもない、唯一われわれのように学問をするものだけなのだ。学問をするものががんばらなくてはならない。
孔子も『自分であれこれ考えるのは、学ぶことにはおよばない』と言っている。
多くの本を読み、多くの物事に接し、先入観を持たずに鋭く観察し、真実のありかを求めれば、信じること疑うことはたちまち入れ替わって、昨日信じていたことが疑わしくなることもあるだろうし、今日の疑問が明日氷解することもあるだろう。学問をする者はがんばらないといけない。」(前掲書)
正しい判断力、豊かな発想は学ぶことによって獲得される。
いくら個人で経験を積み、それをもとに考えを廻らしても自ずから限界がある。特に財政についてはそうである。その仕組みが家計と似て非なるものだからである。
消費税などわれわれの暮らしに直結する財政はわれわれ自身の問題である。にもかかわらず財政など他人事と考えている人は多い。
好むと否とにかかわらずわれわれは何らかの形で政治にかかわっている。政治にかかわる以上財政の知識があるとないとでは政治を見る目に差がでてくる。
財政について知識があれば財政政策についてそれなりの判断ができるであろうがなければ判断のしようがない。
この20年間わが国は財政健全化の旗印のもと緊縮財政策に終始した。この結果成長が頓挫した。
たとえば隣国中国との比較で、20年前1998年の中国のGDPは日本のわずか0.26倍にすぎなかったが今年2018年の推計では日本の2.73倍とはるか先を越されてしまった。(2018年4月時点のIMF推計値 USドルベース)
主な原因はデフレ下にもかかわらず緊縮政策というインフレ対策を行ってきたからである。このことは増税と歳出削減の度に景気停滞に見舞われたことからも明らかである。
緊縮財政は時の政権が主導してきたがお膳立ては財務省というのが大方の見方である。財務省による緊縮財政を誰も止めることができなかった。
官僚は暴走する。戦前の軍部、そしていま財務官僚とその構図は変わっていない。
それなら官僚の暴走を止めればいいではないかと簡単に言う人がいるが、それがどんなに大変なことであるか。今も昔も官僚は放っておけば肥大し暴走することは古今東西の歴史が証明している。
どうしたらいいか。それにはまず暴走を止める環境つくりが必要だろう。
個人であれ組織であれ権力は強大になればなるほどまた長くなればなるほど腐敗しやすくなる。財務省は国家の徴税と予算編成という権限をもつ。
徴税権をもつ財務省傘下の国税庁は査察権と国民のすべての資金をチェックできるという強大な権限をもっている。
権限を分散するには、この国税庁を財務省から完全に独立させ新たに社会保険料と税金を一括して徴収する歳入庁を設置するという方法がある。この案は不祥事が発生するたびに問題提起されてきたがかけ声だけに終わっている。
政治家、財界人、学者、言論人など日本をリードする階層の過半が緊縮財政策に賛成で事実上財務省を支持しているからである。
これを実現するのは容易ではない。実現するためには国民の総意が最後のよりどころとなるが一朝一夕にしてできることではない。
サミュエル・スマイルズが言ったように、国民のレベルが上がれば政治家のレベルもあがる。
ここで国民のレベルを上げるとは財政リテラシーを上げることである。これなくして明日への展望が開けない。
福澤諭吉流にいえば ”財政リテラシーのすすめ” は喫緊の課題であり学問するものはがんばらないといけない。
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