生まれ育ってから話している言語である母語が他の言語に取って替わられる。
少数民族などにはよくあることかもしれないが比較的大きな国単位では珍しい。アイルランドはその数少ない国の一つである。
アイルランドの母語変更はそれが人びとに与える影響を研究する格好の材料となっている。
アイルランドは17世紀イングランドが事実上最初に植民地として支配した国である。
アイルランドの言語はイングランドの植民地化となるまではインド・ヨーロッパ語族ケルト語派に属するゲール語だけであった。
イングランドによる植民地支配が始まっても最初のうちは英語を話すのはコミュニケーションのため一部に過ぎなかった。
ところがイングランドによる学校における強制的英語教育、ジャガイモ飢饉、アメリカへの移住さらに英語を習得することによる経済的メリットなどで次第にゲール語話者の人口が減少し英語に取って替わられていった。
長いイングランドによる植民地支配でアイルランドは英語社会になった。英語は社会的成功を収めるためには必要な条件の一つになった。
1922年アイルランドは自治権を獲得したがこの時点で英語はすでに90%以上浸透しゲール語しか話せない人は数パーセントであったという。
アイルランド政府は自治権獲得とともにケルト民族としてのアイデンティティを守るためゲール語を第一公用語、英語を第二公用語と憲法に規定した。
ゲール語を教育のための言語として採用し、公務員にはゲール語の使用を義務付けた。
実質上英語が母語となっているほとんどのアイルランド人にとってゲール語は新規に学習しなければならない言語で大きな負担となり結果的にこのアイルランド政府による言語復活政策は失敗におわった。
今日でも第一公用語がゲール語であることに変わりはないがその使用は儀式的なものに限られ保護対象の言語扱いである。実質上の第一公用語は英語である。
いったん優位となってしまった言語をもとの母語に戻すことは国の政策をもってしてもできない。アイルランドの事例はそのことを教えている。
英語が新たに母語になったことによりアイルランド人はゲール語ではなく英語で物事を考えるようになった。
ゲール語と英語は同じインド・ヨーロッパ語族とはいえ前者はケルト語系、後者はゲルマン語系である。
言語の系統が異なれば語順や表現形態も違ってくる。語順や表現形態が違えば物事の見方もそれなりに違ってくる。
ゲール語を話していたころのアイルランド人と英語を話す今のアイルランド人の思考形式は同じではない。言葉が替わればものの見方、世界観も替わることは避けがたい。
アイルランド人は今でもゲール語のことをmy native languageというらしいがそれは一種の郷愁でありもはやもとの母語であるゲール語に戻ることはないであろう。
アイルランドの母語が英語に替わった主な原因はアイルランド人が言語を価値評価したことによるものであろう。
ゲール語より英語を上位に置いたのだ。逆の評価であれば結果は全く違ったことになっていたであろう。
イングランドによる英語の強制はそのキッカケではあったが決定的理由ではない。
人びとが自国語よりも他の言語によりよい価値を見出しそれが大勢を占めるようになればいつでも言語交替が起こりうる。アイルランドの事例はそのことを示しておりわが国にとっても他山の石となろう。
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