2017年5月1日月曜日

道元と予定説

 鎌倉時代初期、道元は貴族の名門に生まれるも幼くして両親をなくし無常を感じ14歳で比叡山に入り出家した。
 若い道元はある疑問を抱いた。人間はもともと仏性(仏の性質)を持ち、そのままで仏であると教えているはずだ。
 それなのに、われわれはなぜ仏になるための修行をせねばならないのか?
 道元はこの疑問を比叡山の僧侶に投げかけたが答えは得られない。そこで山をおりて寺々を訪ねるが結果は同じ。
 やむなく彼は答えを求め宗に渡った。宗でも結果は同じと諦めかけ日本に帰ろうとした矢先、意図する僧、如浄禅師と巡り会えた。
 如浄の言葉『心身脱落』をヒントにして道元が得た結論は「悟りを得るために修行するのではなく悟りの世界の中にいるからこそ修行できる」であった。

 仏教思想家のひろさちや氏はこれを敷衍・解説している。
 「わたしたちはついつい、これはいけないことだと知っていながら、でもこれぐらいのことはしてもいいだろうと思ってしまいます。
 それは自分を甘やかしているのです。その背後には、自分は仏ではなしに凡夫なんだという気持ちがあります。
 しかし、自分が仏だと自覚すればどうでしょうか? もちろん、仏といっても、悟りの世界に飛び込んだばかりの新参の仏、赤ん坊の仏です。
 しかし、仏だという自覚があれば、〈自分は仏なんだから、こういうことはしてはいけない〉と考えて、悪から遠ざかることができます。それが、仏になるための修行ではなく、仏だからできる修行です。」

 人はもともと仏の性質を持っている。このことを寝ても覚めても自覚していれば仏にふさわしい修行ができる、という。
 このことはキリスト教の予定説に通じるものがある。
 予定説の教えるところによれば、
 人間が救われるか否かは予め神によって決められている。にもかかわらずそのことを誰も知ることはできない。
 だが、救いが約束されている人はきっとそれにふさわしい生き方をするにちがいない。
 マックス・ヴェーバーは、この予定説の神によって救いが約束されている人にふさわしい生き方こそが資本主義の精神につながると説いた。
 片や、道元の『正法眼蔵』の思想は、哲学者の和辻哲郎やドイツのハイデガー、さらにアップル創始者スティーブ・ジョブスなどにも影響を及ぼしたと云われている。
 小さい存在である人間の意思は、神や仏を前にしては無に等しい。人の意思で運命を変えることなど出来ない。大きい存在である神仏に溶け込み、救いを約束された人あるいは仏のようにそれらしく精進・修行すること。この点両者に相通じるものがある。
 道元の思想が800年後の今も、仏門に帰依した人のみならず凡夫にも影響を与えている。坐禅修行の希望者がひきもきらないという。
 かねて行ってみたいと思っていた永平寺、見事な杉の大木群とともに脳裏に残る。

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