2017年5月15日月曜日

自殺について 2

 人が自殺すればまずは遺書の有無、次に本人の家族、友人、勤務先関係者などの証言をもとに病気、経済的破綻、失恋、いじめなど自殺の動機が調べられ、そのうえで自殺の原因が特定される。
 だがデュルケームはこのような個人の動機解明は心理学的アプローチであり、真の解明にはこれだけに着目するのではなく社会学的アプローチが欠かせないという。なぜなら自殺は社会的要因によって大きく左右されるからである。
 カトリックよりプロテスタント、農民より商工業、女より男、軍人より民間人、既婚者より独身者といずれも連帯がより薄いほうが自殺率が高い。
 これらはすべて社会的要因によるものである。したがって同じように病気や借金で首がまわらなくなっても自殺する人もいれば自殺しない人もいる。
 自殺の動機は病気、借金、失恋など個人的説明だけでは説明できず社会的説明が不可欠である。
 なぜ自殺したのか本人でさえ知らないことがある。
 芥川龍之介は遺書となった友人宛手記で自殺の心境を綴っている

 「誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。
 僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。
 尤も僕の自殺する動機は特に君に伝へずとも善い。レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。
 この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない。
 君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。
 しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。
 自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。
 が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。(中略)
 僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持つてゐる。
 (僕は僕の将来に対するぼんやりした不安も解剖した。それは僕の『阿呆の一生』の中に大体は尽してゐるつもりである。唯僕に対する社会的条件、――僕の上に影を投げた封建時代のことだけは故意にその中にも書かなかつた。なぜ又故意に書かなかつたと言へば、我々人間は今日でも多少は封建時代の影の中にゐるからである。僕はそこにある舞台の外に背景や照明や登場人物の――大抵は僕の所作を書かうとした。のみならず社会的条件などはその社会的条件の中にゐる僕自身に判然とわかるかどうかも疑はない訣には行かないであらう。)」
(昭和2年7月芥川龍之介『或旧友へ送る手記』遺稿)

 新聞記事の生活苦、病苦、精神的苦痛などの自殺の動機は、動機の全部などではなく動機にいたる道程にすぎない。
 僕の場合は将来に対するぼんやりした不安であり、これについて解剖したつもりであるが、社会的条件の中にいる僕には社会的条件が見えるかどうか確信がもてないと芥川龍之介はいう。
 自殺の真の動機は本人にも分からない。社会的要因が隠されているかもしれない。デュルケームの社会学的説明と符号する。
 自殺者本人にも分からないことがある自殺動機、まして第三者が推定する自殺動機などあてにはならない。
 新聞などで公表される自殺動機を鵜呑みしてはいけない。公表される動機は表向きのものであり真の動機は他にあるかもしれない。
 このことをしっかり腑に落とし込む、これが自殺研究の前提となる。

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