皇位を男系男子に限定するのは、安定的な皇位継承を阻害するというのが女系天皇容認派の主張である。
万世一系の皇統は、傍系制度と側室制度という二本の柱によって維持されてきた。
このうち側室制度は旧皇室典範が認めていたにもかかわらず昭和天皇はこれを拒否された。
現皇室典範はこの制度を認めていないし、この制度の復活を支持する人は男系男子維持派を含めほとんどいない。
側室の子・非嫡出子は国民の感情から乖離しており、国民とともに歩む皇室にふさわしいとは言えず当然の帰結といえる。
残るのはもう一本の柱、傍系制度のみとなった。
ところがこの傍系制度は、昭和22年GHQの方針によって秩父宮、高松宮、三笠宮の3宮家を除き、傍系の11宮家が皇籍離脱を余儀なくされた。
このため旧宮家の皇族復帰が男系男子維持派の最後のよりどころと期待されている。
が、これには無理があると元衆議院議員の大前繁雄氏は言う。
「旧宮家の皇族復帰が、これも男系継承と並んで皇室の最も重要な伝統としてある『君臣の分』、『君臣の別』という大原則に反することだからである。
よく『万世一系』という言葉を、125代にわたり男系で継承されてきたことと同義に解する向きが少なくない。
このような解釈がされるようになったのは、明治典範の制定前後からである。
『万世一系』という表現自体、明治初年に岩倉具視あたりが初めて用いたものといわれているが、それは本来、男系に限られるものでなく、『皇統に属する皇族による継承』と、ゆるやかに解釈するほうが自然である(所功氏”万世一系の天皇”に関する覚書)。
わが国の皇室は、中国の王朝の交替による『易姓革命』が一度もなく、大和朝廷以来の同一皇統によって皇位が連綿と継承されてきた。
その間に、『君臣の別』が、厳しく守られ、臣下の者が皇位につくことを厳しく排除してきた。
わが国で一たん臣籍に降った方が再び皇籍に戻り即位された例は、九世紀末の第五十九代宇多天皇のみである(次の醍醐天皇は、父君の在野三年間に生まれ、その即位後に親王となり皇太子に立てられた)。
だから、明治の典範義解でも『恒範と為すべからず』と退けている。
また第二十五代武烈天皇崩御後、はるか遠縁から男子をさがし出して男系維持をはかった継体天皇も、約二百年さかのぼった応神天皇の五世王であり、臣下に降っておられたわけではない。
そのような意味で六十年も前に皇籍離脱された旧宮家の皇族復帰を図ろうとするのは、この『君臣の分』、あるいは『君臣の別』という皇室の大原則に反するのである。」
(中島英迪著イグザミナブック『皇位継承を考える』から)
一旦民間人となった人が皇族に復帰することは明治時代には
『恒範と為すべからず』と退けたが、現代でもその精神は変わらない。
『君臣の分』、『君臣の別』は皇室の尊厳にかかわることだからである。
このように一旦民間人となった旧宮家の皇族復帰は国民の共感を得難いし違和感がある。
男系男子を維持してきた側室制度につづいて傍系制度もその支えを失いかねないのは戦後開かれた皇室により皇族方と国民の距離が縮まった結果でもある。
かかる理由で直系継承以外の皇位継承が期待できないとなればいずれ皇位継承者がいなくなる時がくるのは必至だ。
現皇室典範下では悠仁親王殿下が皇位を継承される頃には男性皇族は同殿下より上の世代だけであり、あとは女性皇族だけということになる。
従って皇室の将来は事実上悠仁親王殿下ただお一人にかかっている。
これは皇位継承の伝統に照らしてみて異常であり不安定である。
これが神話のほかに女系天皇容認派が主張するもう一つの根拠である。
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