政治とカネの関連で、過去の問題として田中角栄元首相のロッキード事件の5億円受託収賄罪と、現在進行形の東京都猪瀬知事の徳州会からの5千万円授受事件をとりあげてみよう。
前者は、首相経験者の犯罪として話題となった。一審有罪、控訴棄却後上告、本人の死去により上告審の審理途中で公訴棄却となった。
この事件は雑誌 文芸春秋に寄稿したジャーナリスト 立花隆の金脈研究が発端となり、田中角栄の金権体質がことさら問題とされた。
同事件では犯罪とされた証拠採用の法律論争よりも専ら元首相のスキャンダル暴露合戦に明け暮れた。
後者の猪瀬現東京都知事の徳州会から渡った5千万円であるが、都議会で議論されているのは、金銭授受に関連する法律論争よりも猪瀬知事の道義的責任に多くの時間を費やされているようみ見える。
両事件に共通するのは、わが国では小市民的道徳が優先され、マキャヴェリズムあるいは政治の持つ悪魔的性格はとても受け入れられるものではないことを証明している。
丸山真男は、論壇のデビュー作で両事件を予言したかの如く指摘している。
「しかもこうして倫理が権力化されると同時に、権力もまた絶えず倫理的なるものによって中和されつつ現れる。
公然たるマキャヴェリズムの宣言、小市民的道徳の大胆な蹂躙の言葉は未だかってこの国の政治化の口から洩れたためしはなかった。
政治的権力がその基礎を究極の倫理的実体に仰いでいる限り、政治の持つ悪魔的性格は、それとして率直に承認されえないのである。
この点でも東と西は鋭く分かれる。政治は本質的に非道徳的なブルータルなものだという考えがドイツ人の中に潜んでいることをトーマス・マンが指摘しているが、こういうつきつめた認識は日本人には出来ない。
ここには真理と正義に飽くまで忠実な理想主義的政治家が乏しいと同時に、チェザーレ・ボルジャの不敵さもまた見られない。慎ましやかな内面性もなければ、むき出しの権力性もない。
すべてが騒々しいが、同時にすべてが小心翼々としている。
この意味に於て、東条英機氏は日本政治のシンボルと言い得る。そうしてかくの如き権力のいわば矮小化は政治的権力にとどまらず、凡そ国家を背景とした一切の権力的支配を特質づけている。」(未来社『超国家主義の論理と心理』)
日本社会は有力学者に指摘されようがされまいがなにも変わっていないようだ。
法案が通過してもなお議論がやまない、国民の知る権利が問題となる特定秘密保護法に関連して、前掲論文に指摘されている権力の矮小化をはからずも実証するような事件が過去にあった。
当時毎日新聞の記者であった西山太吉が外務省の女性事務官から極秘資料を入手したいわゆる外務省機密漏洩事件である。
検察は起訴状に、”ひそかに情を通じ” と書いた。これが発端で世論が大きく傾いた。国民の知る権利の法律論争はどこかに吹き飛んでしまった。当該事件の最大の被害者は政府に嘘をつかれた国民であるが、その国民は検察が仕掛けたスキャンダルによって目を欺かれてしまった。これを検察権力の矮小化といわずして何と言おう。
政治の目的は、国民の安全を守り、国民を幸せにすることにあり、政治家に求められる資質もこれに対応できる能力である。
政治家の徳性だけが問題ではない。したがってよくいわれる”出たい人より出したい人” などは本来お門違いである。
例えば、戦前、戦中 3次に亘り内閣を組閣した近衛文麿は家柄がよく、押出しもよく、清廉潔白でいわゆる、”出したい人”の典型であった。が、政治家としては優柔不断で、無責任で結果的に日本を不幸にした。乗り気であった蒋介石との日中首脳会談を直前になって取り消すなど彼の優柔不断が原因で幾度となく決定的なチャンスを逃した。
実弟の秀麿からも ”兄は政治家にまったく向いていなかったと思う。哲学者や評論家になればあんな最後を迎えることはなかったのに” という逸話が残っているほどである。
近代デモクラシー社会において、政治的倫理と個人的倫理は峻別されるべきものであるが、この概念はどうにも日本人の腑に落ちないようだ。
日本人はどうやら個人的倫理の腐敗は直ちに社会全体の腐敗につながるとでも考えているようだ。そうでなければ、あの田中角栄元首相への異常な金権追及、そして猪瀬現東京都知事への都議会とマスコミの異常な道義的責任の追求を説明することが出来ない。
勿論、カネに汚いことはいいことではない。また、清廉潔白は悪いことでもない。が、問われるべきは政治家としての政治倫理であって、これに個人的倫理の感情を移入し過ぎるところに問題があるのである。
敗戦後いち早く、丸山真男が指摘した国家を背景とした権力の矮小化は無くなるどころかますます進んでいる。
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