解剖学者によると、人の脳神経は解剖学の教科書どうりの配列になっている人は殆どいない。必ずどこか乱れている。
ただ、極々希に、天才といわれた人の神経だけは例外的に教科書どうりの神経配列になっている、という主旨の内容をどこかで読んだことがある。
ルネッサンス期イタリア フィレンツェのニコロ・マキャヴェリの脳神経も解剖学の教科書どうりの配列になっていたのだろうか。
「ニコロ・マキャヴェリは、眼をあけて生まれてきた。ソクラテスのように、ヴォルテールのように、ガリレオのように、カントのように・・・・・」
(塩野七生著わが友マキャヴェリ 中公文庫)
と、イタリア フィレンツェ在住の塩野七生氏は、イタリアの作家ジュセッペ・プレッツォリーニの言葉を引用しながら、マキャヴェリを高く評価した。
マキャヴェリは、特段名門でもなく、特段裕福でもない、ごく普通の家庭に生まれた。
彼自身も成人後、普通に結婚し、子供にも恵まれ、フィレンツェ共和国の一外交官、正確には第二書記局の書記官であった。
塩野七生氏によると、この役職を強いて今日の日本にあてはめると、中央省庁の課長クラスであったらしい。
マキャヴェリはいはゆる”大学出”ではなく、官僚としてはノンキャリアであった。
友人からも
「”どちらかといえば、学問のあまりない男”と評された。
だが、マキャヴェリよりは17歳年上であったレオナルド・ダ・ヴィンチは、マキャヴェリが青年であった頃はまだフィレンツェに住んでいたのだが、こんなことを自ら書き残している。
”わたしは、学問のない男である”」(同上)
これらルネッサンス期 フィレンツェ人の言葉の裏に、沸々と湧きあがる自信を読み取ることができる。
ただ、芸術家と違い、マキャヴェリはフィレンツェ共和国の書記官であったから、ノンキャリアとしての制約を受けた。
が、そのことが彼の仕事に対する情熱を妨げることは一切なかった。
彼は、メディチ家の影響が大きいフィレンツェ共和国の書記官に任命され、かつ解職の憂き目にもあっているが、解職されても幾度か復帰し、フィレンツェのために働いた。
それは、ナポレオンに任命と解職を繰り返された、フランスの警察長官ジョセフ・フーシェのように有能なるが故のめぐり合わせを連想させる。
彼は、様々な困難に直面しても、官職にこだわり、それは死の直前までつづいた。
彼の政治思想については、バートランド・ラッセルが、君主論を引き合いに出し次のように論評している。
「君主論でのマキャヴェリは、慈愛に満ち徳の高い行為を、政治の世界にもとめていない。
それどころか、政治権力を獲得するには、悪しき行為も有効であるとさえ断言している。
ためにマキャヴェリズムという言葉は、いまわしくも不吉な印象をひきずることになってしまったのであった。
しかし、マキャヴェリを弁護して言えば、まずもって彼が、人間は基本的に悪しき存在であるとは、信じていなかったことを思い起こすべきである。
彼の探求分野は、善悪の彼岸にあった。原子物理学者の行う実験にも似て。
もしも権力を獲得したかったら、方法はひとつしかない。冷徹こそそれである、と。
その手段が善であろうと、それとも悪になろうと、問題は別なのである。
この別の問題については、マキャヴェリは興味を示さない。だから、この別の問題について関心を払わなかったとして、マキャヴェリを非難することは可能である。
しかし、現実において政治権力が、どのような姿であらわれているかを論じたからといって彼を糾弾するのは、まったくの無意味でしかない。」(同上)
恰もこれに呼応したかのように、マキャヴェリの”政略論”の一節を紹介している。これは、とりもなおさず、君主論の背景そのものであろう。
「ことが祖国の存亡を賭けている場合、その手段が、正しいとか正しくないとか、寛容であるとか残酷であるとか、賞賛されるものかそれとも恥ずべきものかなどは、いっさい考慮する必要はない。
何にも増して優先されるべき目的は、祖国の安全と自由の維持だからである。」(同上)
ゲーテがナポレオンを評したように、こと政治的なることに関してだけではあるが、マキャヴェリの眼前には、些細なことは一切消え去り、ひとり大洋と大陸だけが浮かび上がっていた。
マキャヴェリは、フィレンツェ共和国の書記官として、足が地についた経験をもとに、政治論、戦略論を展開した。
曇りない眼、過去とのしがらみを断ち切ったルネッサンス期特有の自由で、大胆で、率直な政治論が誕生した。
かくして、マキャヴェリは、フィレンツェ共和国書記官としてではなく、彼の著述により広く影響を及ぼし歴史に名を止めた。
彼の思想が、現代の我々の時代にいかなる意味を持ち、いかなる影響を及ぼしているか分析してみたい。
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