「政治を真正面から問題にして来た思想家は古来必ず人間論をとりあげた。プラトン、アリストテレス、マキャヴェリ、ホッブス、ロック、ベンタム、ルソー、ヘーゲル、ニーチェ これらのひとびとはみな、人間あるいは人間性の問題を政治的な考察の前提においた。
そしてこれには深い理由がある。政治の本質的な契機は人間の人間に対する統制を組織化することである。統制といい、組織化といい、いずれも人間を現実に動かすことであり、人間の外部的に実現された行為を媒介として初めて政治が成り立つ。
従って政治は否応なく人間存在のメカニズムを全体的に知悉していなければならぬ。
たとえば道徳や宗教はもっぱら人間の内面に働きかける。従ってその働きの結果が外部的に実現されるかどうかということは、むろん無関心とはいえないけれども、宗教や道徳の本質上決定的重要性は持たない。
内面性あるいは動機性がその生命であるがゆえに、たとえ人が外部的に望ましい行為をやったとしても、偽善や祟りへの恐怖心からやったのでは何にもならぬ。
ところが、政治の働きかけは、必ず現実に対象となった人間が政治主体の目的通りに動くということが生命である。
(未来社新装版『現代政治の思想と行動』)
ところが、政治の働きかけは、必ず現実に対象となった人間が政治主体の目的通りに動くということが生命である。
(未来社新装版『現代政治の思想と行動』)
丸山真男は、政治を宗教や道徳と区別し、カール・シュミットの言を引用し”真の政治理論は必ず性悪説をとる”と言っている。
「こういう性悪説は昔からあまり評判がよくない。道学先生からは眼の仇にされる。しかしそれはひとつには、マキャヴェリやホッブスの方が道学先生よりも、人間の、従って政治の現実をごまかしたりヴェールをかけたりしないで、直視する勇気をもっていたというだけのことであり、もう一つは、性悪説の意味を誤解しているためである。
ホッブスは性悪というとすぐ憤慨する手合いにこう答えている。 ”自分自身のことを考えて見るがいい。旅行に出るときは武器を携え、なるべく道ずれで行きたがる、寝るときにはドアに鍵をかけ、自分の家にあってさえ箱に鍵をかけるではないか。
しかもちゃんと法律があり自分に加えられる一切の侵害を罰してくれる武装したお役人がいることを知っていてさえこれである。”
しかもちゃんと法律があり自分に加えられる一切の侵害を罰してくれる武装したお役人がいることを知っていてさえこれである。”
(中略)
しかしそういうことを別としても、政治が前提とする性悪という意味をもっと正しく理解しなければならない。
性悪というのは、厳密にいうと正確な表現でないので、じつはシュミット自身もいっているように、人間が問題的な存在だということにほかならぬ。
前にもいった通り、効果的に人間を支配し組織化するということ、それをあくまで外部的結果として確保して行くことに政治の生命があるならば、政治は一応その対象とする人間を『取扱注意』品として、これにアプローチしてゆくのは当然である。
性悪というのは、この取扱注意の赤札である。もし人間がいかなる状況でも必ず悪い行動をとると決っているとすれば、むしろ事は簡単で本来の政治の介入する余地はない。
善い方にも悪い方にも転び、状況によって天使になったり悪魔になったりするところに、技術としての政治が発生する地盤があるわけである。」(同上)
丸山真男はマキャヴェリのジレンマについても指摘している。
「それでは近世の国家権力はもはやあらゆる倫理的規範と無関係になったかというと、それは二重の意味においてそうではなかった。
第一に、国家理性のイデオロギーはしばしば、無制限かつ盲目的な権力拡張の肯定と同視されるが、そうした理解はその最初の大胆な告知者たるマキャヴェリにおいて、既に全くちがっている。 それは具体的には教皇の世俗的支配権の武器として機能していたようなクリスト教倫理に対するアンチテーゼであり、彼はその批判を通じて政治権力に特有な行動規範を見出そうとしたのである。
いわば政治に対する外からの制約の代りにこれを内側から規律する倫理を打ち立てようというのが彼の真意であった。
むろん彼はアンチテーゼを主張する点であまりにラジカルで、その反面積極的な体系の建設においては必ずしも成功していないけれども、いわゆるマキャヴェリズムが凡そ彼の本質から遠いことは確かである。
この点、カール・シュミットが、
”若しマキャヴェリがマキャヴェリストであったとするならば、彼はかれの悪名高い『君主論』などの代りに、むしろ一般的には人間の、特殊的には君主たちの善性について、人を感動させるようなセンテンスを寄せあつめた本を書いたことであろう”
といっているのは、よく問題の焦点を衝いた言葉である。
政治に内在的な行動規範とはどのようなものかということはいずれ別個に論ずるとして、ここではただ近世の国家理性のイデオロギーが単なる権力衝動の肯定ではないことだけを指摘して置こう。」(同上)
難解な文である。この前後の文脈から敷衍してみよう。
国家権力は本来人間に対して外面的な影響に止まるべきものであり、内面性に影響を及ぼすべきではない。
然るに宗教指導者の教皇はクリスト教倫理を利用し外面にまでも影響を及ぼしているとして、マキャヴェリは、これのアンチテーゼとして政治を内面から規範を打ち立てようとした。
マキャヴェリズムは、本来外面の変革を目指した筈である。従って彼の意図から遠ざかってしまった。
ただ政治においては、権力衝動は肯定されるべきものでなければならないが、それには政治倫理を伴っていなければならない。
マキャヴェリの思想にはジレンマがあったかもしれないが、丸山真男はこれを高く評価していたことは間違いない。
この政治学の泰斗 丸山真男の、”政治と人間” あるいは ”政治と道徳” などはどう受けとめられたか。
この政治学の泰斗 丸山真男の、”政治と人間” あるいは ”政治と道徳” などはどう受けとめられたか。
現実の政治にどう反映されたか、あるいは反映されなかったのか検証してみよう
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