アメリカの経済格差の主要な原因は、一部の富裕層がロビー活動によって政治、経済のルールを自己の都合のいいように変え独占的に超過利益を得、富を中下流層から収奪し上流へと移動させたことである。
スティグリッツ教授はこれをレントシーキングによる格差拡大と呼んでいる。
レントシーキングにあたって、富裕層はそれがすべての人々の利益になると大衆を信じ込ませてきた。
レントシーキングの典型としてスティグリッツ教授は金融を例に挙げ、一部富裕層が市場と政治に対する影響力を、自分たちに都合よく利用し、残りの人々を犠牲にして収益を得る様をつぎのように述べている。
「最も悪名高いレントシーキングの形態 --- 近年になって最もみがきのかかった手法 --- は、金融界が略奪的貸付や濫用的クレジット業務を通じて、貧困者層と情報弱者層から大金を搾り取るというものだ。
貧困者ひとりひとりはそれほど金を持っていなくても、大勢の貧困者から少しずつ巻き上げれば、莫大な儲けを手に入れることができる。
政府に社会正義の感覚 --- もしくは経済全体の効率性に対する懸念 ---が少しでもあれば、これらの活動を禁止するための措置が施されただろう。
貧困者から富裕層へ金が移動するプロセスでは、かなりの量の資源が失われる。
だからこそ、これはマイナスサム・ゲームと呼ばれるのだ。
しかし、実態がどんどんあきらかになってきた2007年ごろでさえ、政府は金融界の行為を禁止しようとはしなかった。
理由は明快。金融界はロビー活動と選挙支援に巨額の資金を投じてきており、その投資が実を結んだのだ。
ここで金融界をとりあげる理由のひとつは、現在アメリカ社会で見られる不平等が、金融界から強い影響を受けてきたことにある。
今回の世界金融危機の発生に金融界が果たした役割は、誰の目にもあきらかだ。
金融界で働く人々でさえ責任を否定していない。
内心では、業界内の別部門に責任があると思っているのかもしれないが・・・。
とはいえ、わたしがこれまで金融界について述べてきたことは、現在の不平等を創り出してきたほかの経済主体にもあてはまる。
近代資本主義は複雑なゲームと化しており、少し頭が切れるくらいでは勝者になれないが、多くの場合、勝者は感心できない特性を持ち合わせている。
法律をかいくぐる能力や、法律を都合よくねじ曲げる能力や、貧困者をふくむ他人の弱みにつけ込む意志や、必要とあれば ”アンフェアー”なプレーをする意志だ。
このゲームで成功している達人のひとりは、『勝負は問題ではない。重要なのはどうプレーするかだ』という昔の金言をたわごとと切り捨てる。
重要なのは勝つか負けるかだけなのだ。
市場は勝ち負けの基準をはっきりと示してくれる。
持っている金の量だ。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ著楡井浩一・峯村利哉訳徳間書店『世界の99%を貧困にする経済』)
アメリカが先進国の中で所得階層間の移動性が一番少なく機会均等がそこなわれているがその原因は何か。
主要な原因は不平等の拡大によって生じた機会均等の喪失である。
不平等の拡大によって親の子供に対する投資に格差が生じ、これが所得階層間の移動性を低下させているとスティグリッツ教授は述べている。
「中下層の子供たちが良い教育を受けられる可能性は、上層と比べて絶望的に低い。
特に全大学生の70パーセントを受け入れる公立大学で、学費の伸びが所得の伸びを大きく上回っているため、親の所得の重要性は高まる一方だ。
学資ローンに対する公的助成制度が格差を埋めてくれるのではないか、と疑問に思う読者もいるかもしれない。
しかし、残念ながら答えはノーであり、ここでも金融セクターが機能不全に少なからぬ責任を負っている。
今日では、さまざまな逆インセンティブが働く金融市場と、権力濫用を防ぐための規制の欠如が合わさった結果、学資ローンの支援制度は、貧困層の人々を助けるどころか、さらなる苦境に追い込む可能性があるのだ。(じっさい、多くの人々を苦境に追い込んでいる)。
金融セクターは政治力を使って、個人破産による学資ローン債務の免除を禁じさせた。」(前掲書)
アメリカの経済格差と機会均等の喪失は進むばかりで、それをなくそうという働きかけすらない。
アメリカの政治制度は、”1人1票”から ”1ドル1票” の様相を呈し市場の機能不全を是正するどころかそれを助長しているという。
金の力がすべてを支配する社会に成り果て民主主義そのものが危機に瀕しているともいう。
150年前にリンカーン大統領が友人宛の手紙で懸念したことが不幸にも的中したことになる。
スティグリッツ教授のアメリカ経済に対する分析は、自らクリントン政権下で、大統領経済諮問委員会に参加、委員長に就任し、アメリカの経済政策の運営にたずさわった経験、および学者としての透徹した識見に裏打ちされ、余人を以っては代えがたい説得力あるものと言える。
アメリカは最盛期は過ぎたかもしれないが今なお覇権国であり世界に対する影響力も大きい。
まして同盟国であるわが国に対してはなおさらそうである。
次にアメリカ社会がわが国に及ぼす影響について考えてみよう。
2015年6月29日月曜日
2015年6月22日月曜日
リンカーンの懸念 2
次に富める少数者による支配について、ジョセフ・E・スティグリッツ コロンビア大学教授の著作について考えてみたい。
ジョセフ・E・スティグリッツ この著名なアメリカのノーベル賞経済学者は、幼少のころ、既にアメリカはアメリカン・ドリームなどといわれる”機会均等の国” は看板だけであることを身をもって感じた。
この幼少時の体験は彼のその後の人生に影響を及ぼした。
「わたしはアマースト大学3年生のとき、専攻を物理学から経済学に変更した。
社会が機能するしくみを解明したい、という激しい思いに突き動かされたのである。
わたしが経済学者になった目的は、単に不平等や差別や失業を理解するだけでなく、アメリカを蝕むこれらの問題に何らかの手を打つことだった。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ著峯村利哉訳徳間書店『世界に分断と対立を撒き散らす経済の罠』)
スティグリッツ教授はアメリカの不平等の概況をつぎのように述べている。
「アメリカの物語は、次のように要約できる。
金持ちはもっと金持ちになり、金持ちの中の金持ちはそれよりももっと金持ちになる。
貧乏人はもっと貧乏になり、もっと数が増え、中流層が空洞化していく・・・・・。
じっさい、中層の所得は停滞もしくは減少し、最上層との格差は広がる一方なのだ。
家計所得における格差は、賃金格差と財産格差に連動しているだけでなく、資本所得(利子や配当から得られた所得)の格差にも連動しており、いずれの格差も幅が広がりつづけている。
不平等全般が拡大するにつれ、賃金と給与の不平等も拡大してきた。
たとえば過去30年間で見ると、賃金の低い人々(下位90パーセント)は、賃金の伸びがおよそ15パーセントだったのに対し、上位1パーセントの伸びは約150パーセント、上位0.1パーセントの伸びは300パーセント以上に達した。
財産をめぐる状況は、もっと劇的に変化している。
金融危機に先立つ四半世紀、すべての人々の財産が増加する中でも、富裕層の財産の増加ペースは群を抜いていた。
前に述べたとうり、住宅価値に多くを依存する中下層の富は、バブル価格にもとづく実態なき富と言ってよかった。
じっさい、すべての人々が金融危機で損害をこうむったが、上層の富がすぐさま回復したのに対し、中下層の富は回復しなかったのである。
大不況の中で株価が落ち込み、富裕層の財産が打撃を受けたあとでさえ、上位1パーセントに属する人々は、平均的アメリカ人の225倍もの富を保有していた。
この数字は、すでに100倍を超えていた1962年もしくは1983年と比べてもほぼ倍増している。
資本所得の分野でも上層が不当に大きな分け前を得ていることは、富の不平等を考えれば驚くにはあたらない。
危機の前の2007年で見ると、彼らがふところに入れた資本所得は、全体のおよそ57パーセントに達した。
資本所得の”増加分”の分配がもっとかたよっていることも、驚くにはあたらない。
1979年以降、上位1ペーセントが増加分の約8分の7を手にしたのに対し、下位95パーセントの取り分は3パーセントを下回ってきた。
これらの数字は憂慮すべきものだが、勢いづく格差拡大の実態を見誤らせる危険も秘めている。
アメリカにおける不平等の現況を知りたいなら、ウォルトン一族を例にとってみるといい。
<ウォルマート>帝国のこの6人の後継者たちは、巨額の遺産を意のままに使うことができるが、697億ドルという額は、アメリカ社会の下位30パーセントの財産総額とひとしいのだ。
下層の人々はほとんど富を持っていないため、この数字は見た目ほどインパクトをもたらさないかもしれないが・・・・。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ著楡井浩一・峯村利哉訳徳間書店『世界の99%を貧困にする経済』)
アメリカは先進国の中で最大の格差社会となっている。
所得階層間の移動確率が少なく機会均等も先進国で最低である。階級社会であるヨーロッパ以上に機会均等がない。
さらに理不尽なのは上位1パーセントもしくは上位0.1パーセントの多くは、富の源泉をもたらしたインターネット、トランジスタなどの発明家ではなく、世界を破滅に導いた投資家や銀行家達で占められていることである。
アメリカはなぜこのように格差が拡大し機会均等が失われてしまったのか。
次稿でその原因についてスティグリッツ教授の分析を検証しよう。
ジョセフ・E・スティグリッツ この著名なアメリカのノーベル賞経済学者は、幼少のころ、既にアメリカはアメリカン・ドリームなどといわれる”機会均等の国” は看板だけであることを身をもって感じた。
この幼少時の体験は彼のその後の人生に影響を及ぼした。
「わたしはアマースト大学3年生のとき、専攻を物理学から経済学に変更した。
社会が機能するしくみを解明したい、という激しい思いに突き動かされたのである。
わたしが経済学者になった目的は、単に不平等や差別や失業を理解するだけでなく、アメリカを蝕むこれらの問題に何らかの手を打つことだった。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ著峯村利哉訳徳間書店『世界に分断と対立を撒き散らす経済の罠』)
スティグリッツ教授はアメリカの不平等の概況をつぎのように述べている。
「アメリカの物語は、次のように要約できる。
金持ちはもっと金持ちになり、金持ちの中の金持ちはそれよりももっと金持ちになる。
貧乏人はもっと貧乏になり、もっと数が増え、中流層が空洞化していく・・・・・。
じっさい、中層の所得は停滞もしくは減少し、最上層との格差は広がる一方なのだ。
家計所得における格差は、賃金格差と財産格差に連動しているだけでなく、資本所得(利子や配当から得られた所得)の格差にも連動しており、いずれの格差も幅が広がりつづけている。
不平等全般が拡大するにつれ、賃金と給与の不平等も拡大してきた。
たとえば過去30年間で見ると、賃金の低い人々(下位90パーセント)は、賃金の伸びがおよそ15パーセントだったのに対し、上位1パーセントの伸びは約150パーセント、上位0.1パーセントの伸びは300パーセント以上に達した。
財産をめぐる状況は、もっと劇的に変化している。
金融危機に先立つ四半世紀、すべての人々の財産が増加する中でも、富裕層の財産の増加ペースは群を抜いていた。
前に述べたとうり、住宅価値に多くを依存する中下層の富は、バブル価格にもとづく実態なき富と言ってよかった。
じっさい、すべての人々が金融危機で損害をこうむったが、上層の富がすぐさま回復したのに対し、中下層の富は回復しなかったのである。
大不況の中で株価が落ち込み、富裕層の財産が打撃を受けたあとでさえ、上位1パーセントに属する人々は、平均的アメリカ人の225倍もの富を保有していた。
この数字は、すでに100倍を超えていた1962年もしくは1983年と比べてもほぼ倍増している。
資本所得の分野でも上層が不当に大きな分け前を得ていることは、富の不平等を考えれば驚くにはあたらない。
危機の前の2007年で見ると、彼らがふところに入れた資本所得は、全体のおよそ57パーセントに達した。
資本所得の”増加分”の分配がもっとかたよっていることも、驚くにはあたらない。
1979年以降、上位1ペーセントが増加分の約8分の7を手にしたのに対し、下位95パーセントの取り分は3パーセントを下回ってきた。
これらの数字は憂慮すべきものだが、勢いづく格差拡大の実態を見誤らせる危険も秘めている。
アメリカにおける不平等の現況を知りたいなら、ウォルトン一族を例にとってみるといい。
<ウォルマート>帝国のこの6人の後継者たちは、巨額の遺産を意のままに使うことができるが、697億ドルという額は、アメリカ社会の下位30パーセントの財産総額とひとしいのだ。
下層の人々はほとんど富を持っていないため、この数字は見た目ほどインパクトをもたらさないかもしれないが・・・・。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ著楡井浩一・峯村利哉訳徳間書店『世界の99%を貧困にする経済』)
アメリカは先進国の中で最大の格差社会となっている。
所得階層間の移動確率が少なく機会均等も先進国で最低である。階級社会であるヨーロッパ以上に機会均等がない。
さらに理不尽なのは上位1パーセントもしくは上位0.1パーセントの多くは、富の源泉をもたらしたインターネット、トランジスタなどの発明家ではなく、世界を破滅に導いた投資家や銀行家達で占められていることである。
アメリカはなぜこのように格差が拡大し機会均等が失われてしまったのか。
次稿でその原因についてスティグリッツ教授の分析を検証しよう。
2015年6月15日月曜日
リンカーンの懸念 1
第16代アメリカ大統領エイブラハム・リンカーン、歴代アメリカ大統領の中でも常に人気 1、2位を争うこの偉大な大統領は、暗殺される5ヶ月前、南北戦争で勝利が見えたころ前面の南軍ではなく背後の金融資本家の脅威について、友人のウイリアム・エルキンス宛に次の手紙を書いている。
” 私には、近い将来の危機がみえる。この国のことを考えると、ぞっとし、身震いする。・・・・・企業が王座につき、高位高官の人々の汚職の時代が続くだろう。
この国のお金の力は、人々の偏見に働きかけて、自分の治世を長引かせようと努めるだろう。
そしてついにあらゆる富は少数者の手に握られ、この共和国、人民が支配する国は、破壊される。・・・・エイブラハム・リンカーン1864年11月21日 ”
(集英社新書ヘレン・カルディコット著岡野内正/ミグリアーチ慶子訳『狂気の核武装大国アメリカ』)
まず日本のジャーナリスト堤未果の著作から。
彼女は反米であった父親の影響もあってかアメリカの負の部分に異常に光をあて自らの主張を繰り返している。
「いま世界で進行している出来事は、単なる新自由主義や社会主義を超えた、ポスト資本主義の新しい枠組み、『コーポラティズム』(政治と企業の癒着主義)にほかならない。
グローバリゼーションと技術革命によって、世界中の企業は国境を超えて拡大するようになった。
価格競争のなかで効率化が進み、株主、経営者、仕入れ先、生産者、販売先、労働力、特許、消費者、税金対策用本社機能にいたるまで、あらゆるものが多国籍化されてゆく。
流動化した雇用が途上国の人件費を上げ、先進国の賃金は下降して南北格差が縮小。
その結果、無国籍化した顔のない 『1%』 とその他 『99%』 という二極化が、いま世界中に広がっているのだ。
巨大化して法の縛りが邪魔になった多国籍企業は、やがて効率化と拝金主義を公共に持ち込み、国民の税金である公的予算を民間企業に移譲する新しい形態へと進化した。
ロビィスト集団が、クライアントである食産複合体、医産複合体、軍産複合体、刑産複合体、教産複合体、石油、メディア、金融などの業界代理として政府関係者に働きかけ、献金や天下りと引きかえに、企業よりの法改正で、”障害”を取り除いてゆく。
コーポラティズムの最大の特徴は、国民の主権が軍事力や暴力ではなく、不適切な形で政治と癒着した企業群によって、合法的に奪われることだろう。」
(堤未果著岩波新書 『(株)貧困大国アメリカ』 あとがき)
彼女は ”貧困大国アメリカ” シリーズ3部作でアメリカにおいては、食料、医療、軍需、金融、石油、メディアおよび立法府に至るまで、顔のみえない ”1%” がアメリカ国民の ”99%” の人々の暮らしそのものを蝕んでいる実態を克明に描写している。 彼女は、顔のみえない”1%”による政治への癒着の枠組みコーポラティズムがアメリカ国民を貧困化させアメリカ国民の主権をも奪っていると断じている。
コーポラティズムの極めつけは企業による立法府の買収だろう。
「 『アメリカという国をすきなようにしたければ、働きかけるべきは大統領でも上下院でもない。最短の道は、州議会だ』
ネイション誌のワシントン特派員で、メディア改革推進団体フリープレス創始者のジョン・ニコラスは断言する。
50州からなる合衆国は、それぞれの州に独自の法律と自治権が与えられている。
日本のように大きな財源と権限を持つ中央政府とは違い、アメリカの連邦政府は外交や軍といった業務を中心とした、究極の地域主権だ。
憲法も、共通のアメリカ合衆国憲法と、各州で適用される独自の州憲法の二つがある。
州は州法の制定と施行、課税権を担い、教育や労働、環境や暮らし、公衆衛生に医療福祉など、州民の日常生活に最も影響する分野での、強い権限と責任を手にしている。
『つまり』 とニコラスは言う。
『州を制する者は、国民生活の隅々まで及ぶ影響力を手にできるということです』 」(前掲書)
実質上アメリカ人の生活を左右する州議会への働きかけはどのようになされるのか。
それは米国立法交流評議会(American Legislative Exchange Council = ALEC )を通じてなされているという。
ALECは、州議会に提出される前段階の法案草稿を、議員が民間企業や基金などと一緒に検討するための評議会である。
「ALECは企業ロビィストや政治団体でもなく、NPO(特定非営利団体)として登録されている。
だがその実態は、通常のロビィストや政治団体よりはるかに強大な力を持つ、非常に洗練されたシステムだ。
『ALECは、”フォーチューン 500” の上位 100 企業の半数がメンバーになっています。政策草案をつくっていたのは、誰もがよく知っている、多国籍企業の面々でした(中略)
評議会で出される法案は、どれも企業にとって望ましい内容になっている。
税金、公衆衛生、労働者の権利、移民法、民間刑務所、刑事訴訟法、銃規制、医療と医薬品、環境とエネルギー、福祉、教育などテーマは多岐にわたり、それぞれ業界ごとに後押しするしくみだ。
”ここでは議員と企業群がそれぞれ別々の部屋で法案を検討し、採決をとるのです。
ただし企業側には拒否権があり、基本的に議員はそのまま受け入れ、それぞれの州に持ち帰りますね。
そして今度はそれを、自分の法案としてそのまま州議会に提出するのです” 』(前掲書)
銃乱射事件が起きてもいっこうに銃規制されないとか、受刑者を量産するシステムの刑務所とか、われわれには、にわかに理解できないことがあるが、その背景にはこのような州法制定の経緯があった。
アメリカ社会の負の部分を暴いた彼女の著作は、その部分に限るとはいえ説得力あるものといえる。
” 私には、近い将来の危機がみえる。この国のことを考えると、ぞっとし、身震いする。・・・・・企業が王座につき、高位高官の人々の汚職の時代が続くだろう。
この国のお金の力は、人々の偏見に働きかけて、自分の治世を長引かせようと努めるだろう。
そしてついにあらゆる富は少数者の手に握られ、この共和国、人民が支配する国は、破壊される。・・・・エイブラハム・リンカーン1864年11月21日 ”
(集英社新書ヘレン・カルディコット著岡野内正/ミグリアーチ慶子訳『狂気の核武装大国アメリカ』)
リンカーンは同書簡でこの国の行く末について
”金融資本家に対する懸念は今次の戦争にもまして大きい、神のご加護あらんことを ” と結んでいる。
”金融資本家に対する懸念は今次の戦争にもまして大きい、神のご加護あらんことを ” と結んでいる。
リンカーンが暗殺されて150年経った今、アメリカの現状はどうか。
リンカーンが懸念した富める少数者による支配、この実態について書かれた日米の著作を検証し、そしてこれが日本におよぼす影響について考えてみたい。
リンカーンが懸念した富める少数者による支配、この実態について書かれた日米の著作を検証し、そしてこれが日本におよぼす影響について考えてみたい。
まず日本のジャーナリスト堤未果の著作から。
彼女は反米であった父親の影響もあってかアメリカの負の部分に異常に光をあて自らの主張を繰り返している。
「いま世界で進行している出来事は、単なる新自由主義や社会主義を超えた、ポスト資本主義の新しい枠組み、『コーポラティズム』(政治と企業の癒着主義)にほかならない。
グローバリゼーションと技術革命によって、世界中の企業は国境を超えて拡大するようになった。
価格競争のなかで効率化が進み、株主、経営者、仕入れ先、生産者、販売先、労働力、特許、消費者、税金対策用本社機能にいたるまで、あらゆるものが多国籍化されてゆく。
流動化した雇用が途上国の人件費を上げ、先進国の賃金は下降して南北格差が縮小。
その結果、無国籍化した顔のない 『1%』 とその他 『99%』 という二極化が、いま世界中に広がっているのだ。
巨大化して法の縛りが邪魔になった多国籍企業は、やがて効率化と拝金主義を公共に持ち込み、国民の税金である公的予算を民間企業に移譲する新しい形態へと進化した。
ロビィスト集団が、クライアントである食産複合体、医産複合体、軍産複合体、刑産複合体、教産複合体、石油、メディア、金融などの業界代理として政府関係者に働きかけ、献金や天下りと引きかえに、企業よりの法改正で、”障害”を取り除いてゆく。
コーポラティズムの最大の特徴は、国民の主権が軍事力や暴力ではなく、不適切な形で政治と癒着した企業群によって、合法的に奪われることだろう。」
(堤未果著岩波新書 『(株)貧困大国アメリカ』 あとがき)
彼女は ”貧困大国アメリカ” シリーズ3部作でアメリカにおいては、食料、医療、軍需、金融、石油、メディアおよび立法府に至るまで、顔のみえない ”1%” がアメリカ国民の ”99%” の人々の暮らしそのものを蝕んでいる実態を克明に描写している。 彼女は、顔のみえない”1%”による政治への癒着の枠組みコーポラティズムがアメリカ国民を貧困化させアメリカ国民の主権をも奪っていると断じている。
コーポラティズムの極めつけは企業による立法府の買収だろう。
「 『アメリカという国をすきなようにしたければ、働きかけるべきは大統領でも上下院でもない。最短の道は、州議会だ』
ネイション誌のワシントン特派員で、メディア改革推進団体フリープレス創始者のジョン・ニコラスは断言する。
50州からなる合衆国は、それぞれの州に独自の法律と自治権が与えられている。
日本のように大きな財源と権限を持つ中央政府とは違い、アメリカの連邦政府は外交や軍といった業務を中心とした、究極の地域主権だ。
憲法も、共通のアメリカ合衆国憲法と、各州で適用される独自の州憲法の二つがある。
州は州法の制定と施行、課税権を担い、教育や労働、環境や暮らし、公衆衛生に医療福祉など、州民の日常生活に最も影響する分野での、強い権限と責任を手にしている。
『つまり』 とニコラスは言う。
『州を制する者は、国民生活の隅々まで及ぶ影響力を手にできるということです』 」(前掲書)
実質上アメリカ人の生活を左右する州議会への働きかけはどのようになされるのか。
それは米国立法交流評議会(American Legislative Exchange Council = ALEC )を通じてなされているという。
ALECは、州議会に提出される前段階の法案草稿を、議員が民間企業や基金などと一緒に検討するための評議会である。
「ALECは企業ロビィストや政治団体でもなく、NPO(特定非営利団体)として登録されている。
だがその実態は、通常のロビィストや政治団体よりはるかに強大な力を持つ、非常に洗練されたシステムだ。
『ALECは、”フォーチューン 500” の上位 100 企業の半数がメンバーになっています。政策草案をつくっていたのは、誰もがよく知っている、多国籍企業の面々でした(中略)
評議会で出される法案は、どれも企業にとって望ましい内容になっている。
税金、公衆衛生、労働者の権利、移民法、民間刑務所、刑事訴訟法、銃規制、医療と医薬品、環境とエネルギー、福祉、教育などテーマは多岐にわたり、それぞれ業界ごとに後押しするしくみだ。
”ここでは議員と企業群がそれぞれ別々の部屋で法案を検討し、採決をとるのです。
ただし企業側には拒否権があり、基本的に議員はそのまま受け入れ、それぞれの州に持ち帰りますね。
そして今度はそれを、自分の法案としてそのまま州議会に提出するのです” 』(前掲書)
銃乱射事件が起きてもいっこうに銃規制されないとか、受刑者を量産するシステムの刑務所とか、われわれには、にわかに理解できないことがあるが、その背景にはこのような州法制定の経緯があった。
アメリカ社会の負の部分を暴いた彼女の著作は、その部分に限るとはいえ説得力あるものといえる。
2015年6月1日月曜日
核兵器と戦争 8
2発もの原子爆弾を投下されたわが国は核兵器の恐さが身に浸みている。だが、核戦争によってもたらされるであろう核の冬の怖さまで理解しているとは限らない。
オーストラリア出身の女医ヘレン・カルディコットは核の冬の怖さそしてそれがいつでも起こりうることについて述べている。
「1985年にアメリカ大統領府科学技術政策局(OSTP)から発行された、『見通し(SCOPE)』には、次のように書かれていた。
『人間の生存を支えている農業や社会の仕組みが完全に失われてしまうと、地球上のほぼすべての人類が消滅してしまう。
戦争に参加している国も参加していない国も同じだ。
このような脆弱性が核戦争につきまとうということは、十分に理解されているとはいえない。
主要な交戦国が危険にさらされるというだけでなく、事実上、すべての人類が大規模な核兵器の使用という脅威にさらされ、人質になっている・・・・・』(中略)
では、核の冬はどの程度の核爆発で発生するのだろうか?
1000個の100キロトン爆弾が100の都市を爆破する事態が発生するだけで十分だ。
それはいつでも起こりうることは、現在、アメリカとロシアがもつ核攻撃能力と攻撃目標計画をみるだけで明らかだ。」
(集英社新書ヘレン・カルディコット著岡野内正/ミグリアーチ慶子訳『狂気の核武装大国アメリカ』)
彼女は同書で、「世界の兵器庫の中には合計すると地球上のすべての人々を32回『過剰殺戮』できるだけの核爆弾がある。」と言っている。
わが国は ”核を持たず、造らず、持ち込まず” の非核3原則を堅持してきた、そのうえ”核について語らず” の実質非核4原則がまかり通っている。
核について議論すれば、その人は”右より” ”好戦的” などのレッテルを貼られる。
日本人の核に対する接し方は、危機に遭遇したダチョウが頭を砂の中に突っ込み危機から目を背ける動作にも似ている。
”君子危うきに近よらず” よろしく、 ”怖い核には触れぬ” の流儀で、万事ことなかれ主義が蔓延し現実逃避を決めこんでいる。
国際社会において核についての取り決めは核不拡散条約(NPT)に規定されている。
この条約は1970年国連の常任理事国でもある5カ国(アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国)だけが核兵器を開発、保有してもよくその他は開発も保有も禁止ということになっている。
現在190カ国が調印している。この条約の改定には先の5カ国の全会一致が義務づけられている。5カ国には拒否権があるのだ。
この条約の目指すところは核軍縮である。ところが現実はアメリカもロシアも核軍縮ではなく増強に励んでいる。
同条約に調印していながらインドとパキスタンは核兵器を開発、保有しており黙認されている。イスラエルは非加盟国の立場で核兵器を勝手に開発、保有している。
イランについては核の平和利用、軍用にかかわらずイスラエルが強硬に反対しアメリカを始めとした西欧社会がそれに同調している。
これが世界の現実だ。ことほどさように理不尽、不平等な条約であるが、わが国もこの条約に調印している。
このような環境下においてわが国はいかに処すればよいか。
まず核について議論もしないというのは論外である。人類の運命をも左右するものについて目を背けていては何の解決にもならない。まして平和を呼び込めるわけでもない。
戦後わが国はアメリカの核の傘のもとに庇護されてきた。ために他国の脅威を未然に防げたのも事実であろう。今後もそれで安泰かというと必ずしもそうとはいえない。
仮にわが国が他国から核攻撃を受けた場合、核の傘をさしていたアメリカがわが国に核攻撃を行った相手に直ちに核で反撃するとは考え難い。
アメリカが核反撃すれが当然アメリカも核攻撃の対象となる。自らも核攻撃の対象となる危険を冒すことをアメリカ国民が許すであろうか。
アメリカ政府は外交戦略として同盟国への核の傘を否定していないが、アメリカの殆んどの識者は同盟国への核の傘を否定している。
冷戦時代にフランスがロシアの核脅威からアメリカの核の傘に頼らず独自に核開発した理由もこの疑念からであると言われている。
アメリカの核の傘がやぶれ傘であれば日本のとるべき道は二つに一つ。
現状のやぶれ傘のままでいくか、独自に核の傘を造るかの何れかとなる。
世界の現実をみれば、現状でいいという結論は安全保障上問題がある。世界におけるアメリカの相対的な力の低下を考えればなおさらそうである。
それでは独自に核の傘を造るべしということになるが、ことはそう簡単ではない。
日本が核開発をするには障碍が多い。隣国とくに中国は日本の核武装に対しては、核不拡散条約(NPT)その他あらゆる理由をつけて武力行使も辞さずのかまえで阻止にかかるであろう。
核についてのイランに対するイスラエルの姿勢からもこのことが言える。
同盟国アメリカも日本の核武装には加担しないと思われる。アメリカが核不拡散条約(NPT)に反する政策に同意しないことはイラク、イランに対し制裁を行ったことでも明らかだ。
さらになにより日本国内の世論が核武装を許さない。
このようにとるべき道をふさがれてしまっては如何ともし難い。
打開策の一つとして、日本が唯一の被爆国であるという立場を最大限生かした方策がある。そしてそのことを世界に発信することである。
今でもわが国は、唯一の被爆国として ”核なき世界を” と発信しているが、日本の発信力は弱く効果を発揮しているとは言い難い。冷徹な国際社会は、日本をアメリカの庇護国に過ぎないと見ている可能性を排除できない。
世界は力あるものに耳を傾ける。平和への訴えについても例外ではあり得ない。
力とは何か。それは経済力であり政治力であり軍事力であろう。
なかんずく軍事力は裸にされた真実だ。現代においては特に核兵器を伴う軍事力が重要性を増している。
国際社会では弱小国の主張は無視される。いくら被爆国とはいえ軍事力を背景としない日本の主張も等閑に付される。 それが世界の現実だ。
核兵器をもたなかった独裁者イラクのフセインやリビアのカダフィーはあっけなく倒された。冷酷であるがこれが現実である。
日本が発信力は高めるには核兵器の開発・所有が手っ取り早い方策であるが前述のようにそれは簡単には行かない。
核については国内でも様々な議論がある。単独核武装、核もちこみ、核シェアリング等々。
だがこれらは政府ないし政党間で公に議論されていない。
唯一の被爆国として核軍縮のリーダーシップをとるには、核を忌避するのでなく核の現実を直視すべきである。
国連改革が遅々として進まないのは国連が拒否権をもつ5カ国の常任理事国によって壟断されているからと言われている。
国連と同じく核不拡散条約(NPT)も同じ状況にある。矛盾に充ち理不尽・不平等なこの条約を改革するには唯一の被爆国であるわが国がもっともふさわしい立場におかれている。
核攻撃を受けたわが国はひたすら核のない平和な世界を訴えてきたが現実を見る限り徒労に終わっている。
被爆国の立場を有効に生かしてきたとは言い難い。
この立場を生かすにはなによりも情報発信力がなければならない。このためにも国内で核について本格的な議論がなされることが求められる。
核攻撃を受けたわが国が核について本格的に議論をはじめれば大きな転機となるかもしれない。
世界の核軍縮実現という最終目的のためには単なる平和願望だけでは何事も達成されないことだけは確かである。
オーストラリア出身の女医ヘレン・カルディコットは核の冬の怖さそしてそれがいつでも起こりうることについて述べている。
「1985年にアメリカ大統領府科学技術政策局(OSTP)から発行された、『見通し(SCOPE)』には、次のように書かれていた。
『人間の生存を支えている農業や社会の仕組みが完全に失われてしまうと、地球上のほぼすべての人類が消滅してしまう。
戦争に参加している国も参加していない国も同じだ。
このような脆弱性が核戦争につきまとうということは、十分に理解されているとはいえない。
主要な交戦国が危険にさらされるというだけでなく、事実上、すべての人類が大規模な核兵器の使用という脅威にさらされ、人質になっている・・・・・』(中略)
では、核の冬はどの程度の核爆発で発生するのだろうか?
1000個の100キロトン爆弾が100の都市を爆破する事態が発生するだけで十分だ。
それはいつでも起こりうることは、現在、アメリカとロシアがもつ核攻撃能力と攻撃目標計画をみるだけで明らかだ。」
(集英社新書ヘレン・カルディコット著岡野内正/ミグリアーチ慶子訳『狂気の核武装大国アメリカ』)
彼女は同書で、「世界の兵器庫の中には合計すると地球上のすべての人々を32回『過剰殺戮』できるだけの核爆弾がある。」と言っている。
わが国は ”核を持たず、造らず、持ち込まず” の非核3原則を堅持してきた、そのうえ”核について語らず” の実質非核4原則がまかり通っている。
核について議論すれば、その人は”右より” ”好戦的” などのレッテルを貼られる。
日本人の核に対する接し方は、危機に遭遇したダチョウが頭を砂の中に突っ込み危機から目を背ける動作にも似ている。
”君子危うきに近よらず” よろしく、 ”怖い核には触れぬ” の流儀で、万事ことなかれ主義が蔓延し現実逃避を決めこんでいる。
国際社会において核についての取り決めは核不拡散条約(NPT)に規定されている。
この条約は1970年国連の常任理事国でもある5カ国(アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国)だけが核兵器を開発、保有してもよくその他は開発も保有も禁止ということになっている。
現在190カ国が調印している。この条約の改定には先の5カ国の全会一致が義務づけられている。5カ国には拒否権があるのだ。
この条約の目指すところは核軍縮である。ところが現実はアメリカもロシアも核軍縮ではなく増強に励んでいる。
同条約に調印していながらインドとパキスタンは核兵器を開発、保有しており黙認されている。イスラエルは非加盟国の立場で核兵器を勝手に開発、保有している。
イランについては核の平和利用、軍用にかかわらずイスラエルが強硬に反対しアメリカを始めとした西欧社会がそれに同調している。
これが世界の現実だ。ことほどさように理不尽、不平等な条約であるが、わが国もこの条約に調印している。
このような環境下においてわが国はいかに処すればよいか。
まず核について議論もしないというのは論外である。人類の運命をも左右するものについて目を背けていては何の解決にもならない。まして平和を呼び込めるわけでもない。
戦後わが国はアメリカの核の傘のもとに庇護されてきた。ために他国の脅威を未然に防げたのも事実であろう。今後もそれで安泰かというと必ずしもそうとはいえない。
仮にわが国が他国から核攻撃を受けた場合、核の傘をさしていたアメリカがわが国に核攻撃を行った相手に直ちに核で反撃するとは考え難い。
アメリカが核反撃すれが当然アメリカも核攻撃の対象となる。自らも核攻撃の対象となる危険を冒すことをアメリカ国民が許すであろうか。
アメリカ政府は外交戦略として同盟国への核の傘を否定していないが、アメリカの殆んどの識者は同盟国への核の傘を否定している。
冷戦時代にフランスがロシアの核脅威からアメリカの核の傘に頼らず独自に核開発した理由もこの疑念からであると言われている。
アメリカの核の傘がやぶれ傘であれば日本のとるべき道は二つに一つ。
現状のやぶれ傘のままでいくか、独自に核の傘を造るかの何れかとなる。
世界の現実をみれば、現状でいいという結論は安全保障上問題がある。世界におけるアメリカの相対的な力の低下を考えればなおさらそうである。
それでは独自に核の傘を造るべしということになるが、ことはそう簡単ではない。
日本が核開発をするには障碍が多い。隣国とくに中国は日本の核武装に対しては、核不拡散条約(NPT)その他あらゆる理由をつけて武力行使も辞さずのかまえで阻止にかかるであろう。
核についてのイランに対するイスラエルの姿勢からもこのことが言える。
同盟国アメリカも日本の核武装には加担しないと思われる。アメリカが核不拡散条約(NPT)に反する政策に同意しないことはイラク、イランに対し制裁を行ったことでも明らかだ。
さらになにより日本国内の世論が核武装を許さない。
このようにとるべき道をふさがれてしまっては如何ともし難い。
打開策の一つとして、日本が唯一の被爆国であるという立場を最大限生かした方策がある。そしてそのことを世界に発信することである。
今でもわが国は、唯一の被爆国として ”核なき世界を” と発信しているが、日本の発信力は弱く効果を発揮しているとは言い難い。冷徹な国際社会は、日本をアメリカの庇護国に過ぎないと見ている可能性を排除できない。
世界は力あるものに耳を傾ける。平和への訴えについても例外ではあり得ない。
力とは何か。それは経済力であり政治力であり軍事力であろう。
なかんずく軍事力は裸にされた真実だ。現代においては特に核兵器を伴う軍事力が重要性を増している。
国際社会では弱小国の主張は無視される。いくら被爆国とはいえ軍事力を背景としない日本の主張も等閑に付される。 それが世界の現実だ。
核兵器をもたなかった独裁者イラクのフセインやリビアのカダフィーはあっけなく倒された。冷酷であるがこれが現実である。
日本が発信力は高めるには核兵器の開発・所有が手っ取り早い方策であるが前述のようにそれは簡単には行かない。
核については国内でも様々な議論がある。単独核武装、核もちこみ、核シェアリング等々。
だがこれらは政府ないし政党間で公に議論されていない。
唯一の被爆国として核軍縮のリーダーシップをとるには、核を忌避するのでなく核の現実を直視すべきである。
国連改革が遅々として進まないのは国連が拒否権をもつ5カ国の常任理事国によって壟断されているからと言われている。
国連と同じく核不拡散条約(NPT)も同じ状況にある。矛盾に充ち理不尽・不平等なこの条約を改革するには唯一の被爆国であるわが国がもっともふさわしい立場におかれている。
核攻撃を受けたわが国はひたすら核のない平和な世界を訴えてきたが現実を見る限り徒労に終わっている。
被爆国の立場を有効に生かしてきたとは言い難い。
この立場を生かすにはなによりも情報発信力がなければならない。このためにも国内で核について本格的な議論がなされることが求められる。
核攻撃を受けたわが国が核について本格的に議論をはじめれば大きな転機となるかもしれない。
世界の核軍縮実現という最終目的のためには単なる平和願望だけでは何事も達成されないことだけは確かである。
2015年5月18日月曜日
核兵器と戦争 7
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
このわが国憲法第9条は、前稿で述べた国際紛争解決の手段で戦争に代わる戦争以上に合理的で実効的な紛争解決の新メカニズムが創造されたという前提ではじめて機能するであろう規定である。
ところが世界の現状はこの新メカニズムのおぼろげな曙光さえ見えない。
戦争にかわる国際紛争解決の手段を等閑に付したこの規定は実効性に疑問がある。
国際紛争解決は話し合いによるとか、戦力放棄のかわりに国防をアメリカに依存する等がこの規定の背景にある。
国防を他国に依存する国が真の独立国といえるか否かは議論の余地があるが、ここではこの憲法第9条を契機としてわが国の国防について考えてみたい。
日本は第二次世界大戦末期、2発もの原子爆弾を投下され非戦闘員を巻き込んだ未曾有の被害を蒙った。
もう戦争はイヤだ。どんなことがあっても戦争だけには巻く込まれたくない。子々孫々にいたるまで戦場には送らない。そして「不戦の誓い」の憲法をありがたく守り抜いてきた。
戦後70年間わが国が平和を謳歌できたのは、不戦を誓ったこの憲法第9条のおかげであると平和主義者はいうかもしれない。
だが冷静に考えればアメリカ軍による抑止力があったからこそ守られてきた平和であると見るのが妥当であろう。
日本に限らずおおよそ平和を願わない国民はいない。
憲法第9条は平和を希求するという意味では世界に冠たる貴重な憲法である。
だが平和を勝ち取るという意味では殆んど意味をなさない。紛争解決の手段を何も示していないからである。
紛争がすべて話し合いにより解決するのであれば戦争など起こりようがない。そんなことは夢物語にすぎない。
現在にいたるまで国際紛争は最終手段としての戦争に頼ってきた。これを排除した憲法第9条は現実の世界から遊離している。
日米同盟がないと仮定すればわが国は国際社会の常識からみれば丸腰に近い極めて危険な状態である。
わが国は非核3原則を貫いている。核保有国が全面戦争をしかけてくれば防御には限度がある。
通常兵器の戦いでは先に述べたように装備の質と訓練で近隣諸国にもひけをとらない。
しかし運用面で自衛隊はきわめて大きな制約を受けている。憲法第9条では戦力の不保持をうたっている。
事実、自衛隊は警察予備隊から出発した。そして未だ自衛の戦力に限定されている。
自衛隊を拘束している自衛隊法は、基本的精神が国内の治安にあたる警察のそれである。
警察官が武器を使用してもよい場合は、その基準があらかじめ決められている。これに悖る場合は国内法で法律違反となる。
これこれはいいが、これ以外はダメというポジティブリスト方式である。
政府による統治がなされている国内で治安の役割を担う警察には妥当な方式であり、武器の使用も法で定められた必要最小限に限られている。
わが国で問題なのはこの方式が自衛隊にも適用されていることである。
自衛隊の行動と権限について、自衛隊法第6章および第7章には予め定められた以外のことはしてはいけないことになっている。
これは自衛隊は職能上警察と同じで、禁止されている以外のことは何でもやっていいという他国の軍隊とは明らかに異なる。
国際社会では軍隊は、民間人に対する攻撃、捕虜への非人道的扱い、などやってはいけないことがあるがそれ以外はなんでもやってよいというネガティブリスト方式である。
おおよそ戦闘になれば想定外のことを常に覚悟しなければならない。
わが国自衛隊は、優れた兵器とよく訓練された部隊にも拘らず、ポジティブリスト方式で縛られているため戦闘となれば作戦行動が著しく制限され自衛隊員は危険な状況におかれる。
戦争はサッカー競技とは異なり想定外が常態であり柔軟な対応が要求される。ポジティブリストに拘束されて自衛隊の能力は著しく阻害されている。
アメリカ軍がいない日本単独での国防を考えた場合、このような事態を想定しなければならない。
日本の一部平和主義者たちは、憲法第9条を死守し、アメリカ軍には帰ってもらい、自衛隊は災害時の救助に専念してもらうという。被爆国日本が率先して世界に平和をよびかければ平和は訪れるという。
仮にこれら平和主義者たちの主張が実現したあかつきに外国の軍隊が日本に攻め込んできたらどうするのだろうか。
戦争は絶対イヤだから戦うまえに相手の要求を全て受け入れるのだろうか。不戦の誓いを徹底したら理論的にもそうするほかない。そういう主張に同調する人がいるかもしれない。
だがこのような人が増えれば増えるほどわれわれは平和から遠ざかる。
ドイツの理想的なワイマール憲法は独裁者の揺籃となった。そしてそれにつづく平和主義者、ことなかれ主義者が皮肉にもヒットラーを育てた。
第二次世界大戦前イギリスのチャーチルは戦争屋といわれた。彼は戦争終結後の回想禄でこの戦争は不必要な戦争であったといった。もっと早く戦争の決断をすれば防げた戦争であった、と。
平和を声高に叫ぶ平和主義者について小室博士はつぎように断じている。
「 『平和主義』は、一種の信仰である。『平和教』という宗教として理解したほうが早い。
悔い改めれば救われるのは、『心の内なる』問題だけである。そうでない問題まで、同じように解決できるときめてかかってはいけない。
平和主義者が、そのような限界を百も承知で布教して歩くのであれば結構なことである。キリストの言う『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』という原則が貫かれていれば、何をか言わんやである。(中略)
しかし、心の内なる信念をそこまで貫くのは結構だが、それが人間として当然あるべき姿であり、社会全体がそのようにならないのはけしからぬと考えるにいたったならば、残念ながらまちがいである。
それは、平和主義者の自己矛盾ではないか。自分の願望を、単純に他人に対する要求とし、社会全体にも強制しようという態度をとるのは、それ自体不合理ではないか。
平和論者が、それに同調しない者、それに反対する者に対して、暴力をもって襲いかかり、その果ては殺し合いまでするにいたっては、もはや正気の沙汰ではない。
それは、心の内なる問題の範囲でも、すでに救いよ
うのない堕落に陥っているだけでなく、社会の次元にあっては、文明の単純な否定以外の何ものでもない。」
(小室直樹著光文社『新戦争論』)
わが国は戦後70年平和を謳歌してきた。70年前の惨劇は2度と繰り返してはならないという思いが国民の心に刻み込まれている。
このため戦争とか軍隊に対しては一種の忌避反応がある。
集団的自衛権に関連しポジティブリストの項目が追加されたことで戦争に巻き込まれるおそれが増すとか、総理大臣が自衛隊を”わが軍” と言っただけで国会で質問の対象となる。
これら忌避反応が平和の持続に貢献するのであればそれはそれで結構なことである。
だが国際社会においてはそれらの忌避反応は平和のために貢献しない。平和は組織的努力によりはじめて得られるものであり単に望んで得られるものではないからである。
この意味において平和とは勝ち取られなければならないものである。
最後にかかるわが国の現状に鑑み、国防とくに核兵器の取り扱いについて考えてみたい。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
このわが国憲法第9条は、前稿で述べた国際紛争解決の手段で戦争に代わる戦争以上に合理的で実効的な紛争解決の新メカニズムが創造されたという前提ではじめて機能するであろう規定である。
ところが世界の現状はこの新メカニズムのおぼろげな曙光さえ見えない。
戦争にかわる国際紛争解決の手段を等閑に付したこの規定は実効性に疑問がある。
国際紛争解決は話し合いによるとか、戦力放棄のかわりに国防をアメリカに依存する等がこの規定の背景にある。
国防を他国に依存する国が真の独立国といえるか否かは議論の余地があるが、ここではこの憲法第9条を契機としてわが国の国防について考えてみたい。
日本は第二次世界大戦末期、2発もの原子爆弾を投下され非戦闘員を巻き込んだ未曾有の被害を蒙った。
もう戦争はイヤだ。どんなことがあっても戦争だけには巻く込まれたくない。子々孫々にいたるまで戦場には送らない。そして「不戦の誓い」の憲法をありがたく守り抜いてきた。
戦後70年間わが国が平和を謳歌できたのは、不戦を誓ったこの憲法第9条のおかげであると平和主義者はいうかもしれない。
だが冷静に考えればアメリカ軍による抑止力があったからこそ守られてきた平和であると見るのが妥当であろう。
日本に限らずおおよそ平和を願わない国民はいない。
憲法第9条は平和を希求するという意味では世界に冠たる貴重な憲法である。
だが平和を勝ち取るという意味では殆んど意味をなさない。紛争解決の手段を何も示していないからである。
紛争がすべて話し合いにより解決するのであれば戦争など起こりようがない。そんなことは夢物語にすぎない。
現在にいたるまで国際紛争は最終手段としての戦争に頼ってきた。これを排除した憲法第9条は現実の世界から遊離している。
日米同盟がないと仮定すればわが国は国際社会の常識からみれば丸腰に近い極めて危険な状態である。
わが国は非核3原則を貫いている。核保有国が全面戦争をしかけてくれば防御には限度がある。
通常兵器の戦いでは先に述べたように装備の質と訓練で近隣諸国にもひけをとらない。
しかし運用面で自衛隊はきわめて大きな制約を受けている。憲法第9条では戦力の不保持をうたっている。
事実、自衛隊は警察予備隊から出発した。そして未だ自衛の戦力に限定されている。
自衛隊を拘束している自衛隊法は、基本的精神が国内の治安にあたる警察のそれである。
警察官が武器を使用してもよい場合は、その基準があらかじめ決められている。これに悖る場合は国内法で法律違反となる。
これこれはいいが、これ以外はダメというポジティブリスト方式である。
政府による統治がなされている国内で治安の役割を担う警察には妥当な方式であり、武器の使用も法で定められた必要最小限に限られている。
わが国で問題なのはこの方式が自衛隊にも適用されていることである。
自衛隊の行動と権限について、自衛隊法第6章および第7章には予め定められた以外のことはしてはいけないことになっている。
これは自衛隊は職能上警察と同じで、禁止されている以外のことは何でもやっていいという他国の軍隊とは明らかに異なる。
国際社会では軍隊は、民間人に対する攻撃、捕虜への非人道的扱い、などやってはいけないことがあるがそれ以外はなんでもやってよいというネガティブリスト方式である。
おおよそ戦闘になれば想定外のことを常に覚悟しなければならない。
わが国自衛隊は、優れた兵器とよく訓練された部隊にも拘らず、ポジティブリスト方式で縛られているため戦闘となれば作戦行動が著しく制限され自衛隊員は危険な状況におかれる。
戦争はサッカー競技とは異なり想定外が常態であり柔軟な対応が要求される。ポジティブリストに拘束されて自衛隊の能力は著しく阻害されている。
アメリカ軍がいない日本単独での国防を考えた場合、このような事態を想定しなければならない。
日本の一部平和主義者たちは、憲法第9条を死守し、アメリカ軍には帰ってもらい、自衛隊は災害時の救助に専念してもらうという。被爆国日本が率先して世界に平和をよびかければ平和は訪れるという。
仮にこれら平和主義者たちの主張が実現したあかつきに外国の軍隊が日本に攻め込んできたらどうするのだろうか。
戦争は絶対イヤだから戦うまえに相手の要求を全て受け入れるのだろうか。不戦の誓いを徹底したら理論的にもそうするほかない。そういう主張に同調する人がいるかもしれない。
だがこのような人が増えれば増えるほどわれわれは平和から遠ざかる。
ドイツの理想的なワイマール憲法は独裁者の揺籃となった。そしてそれにつづく平和主義者、ことなかれ主義者が皮肉にもヒットラーを育てた。
第二次世界大戦前イギリスのチャーチルは戦争屋といわれた。彼は戦争終結後の回想禄でこの戦争は不必要な戦争であったといった。もっと早く戦争の決断をすれば防げた戦争であった、と。
平和を声高に叫ぶ平和主義者について小室博士はつぎように断じている。
「 『平和主義』は、一種の信仰である。『平和教』という宗教として理解したほうが早い。
悔い改めれば救われるのは、『心の内なる』問題だけである。そうでない問題まで、同じように解決できるときめてかかってはいけない。
平和主義者が、そのような限界を百も承知で布教して歩くのであれば結構なことである。キリストの言う『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』という原則が貫かれていれば、何をか言わんやである。(中略)
しかし、心の内なる信念をそこまで貫くのは結構だが、それが人間として当然あるべき姿であり、社会全体がそのようにならないのはけしからぬと考えるにいたったならば、残念ながらまちがいである。
それは、平和主義者の自己矛盾ではないか。自分の願望を、単純に他人に対する要求とし、社会全体にも強制しようという態度をとるのは、それ自体不合理ではないか。
平和論者が、それに同調しない者、それに反対する者に対して、暴力をもって襲いかかり、その果ては殺し合いまでするにいたっては、もはや正気の沙汰ではない。
それは、心の内なる問題の範囲でも、すでに救いよ
うのない堕落に陥っているだけでなく、社会の次元にあっては、文明の単純な否定以外の何ものでもない。」
(小室直樹著光文社『新戦争論』)
わが国は戦後70年平和を謳歌してきた。70年前の惨劇は2度と繰り返してはならないという思いが国民の心に刻み込まれている。
このため戦争とか軍隊に対しては一種の忌避反応がある。
集団的自衛権に関連しポジティブリストの項目が追加されたことで戦争に巻き込まれるおそれが増すとか、総理大臣が自衛隊を”わが軍” と言っただけで国会で質問の対象となる。
これら忌避反応が平和の持続に貢献するのであればそれはそれで結構なことである。
だが国際社会においてはそれらの忌避反応は平和のために貢献しない。平和は組織的努力によりはじめて得られるものであり単に望んで得られるものではないからである。
この意味において平和とは勝ち取られなければならないものである。
最後にかかるわが国の現状に鑑み、国防とくに核兵器の取り扱いについて考えてみたい。
2015年5月11日月曜日
核兵器と戦争 6
戦後70年大国間の戦争は絶えてなかった。大国と小国および小国間の戦争はあったが、大国である米ソ間の戦争は冷戦のみに止まっている。最近では非合法武装組織との戦いが新たに加わった。
① まず、戦争の文明史的本質を洞察することである。ポイントは二つある。
(ⅰ)戦争とは国際紛争解決の手段である。
(ⅱ)戦争以上に合理的で実効的な紛争解決の手段を創造しないかぎり、戦争はなくならない。
② しかし、現在そのような一段と次元の高い国際紛争解決の新メカニズムは、その萌芽すら現れていない。
そしていま新たな冷戦ともなりかねないウクライナをめぐる紛争がある。ウクライナ紛争は背後に核大国である欧米とロシアがそれぞれ控えている。この紛争も解決したわけではなく一時的棚上げといったところか。
紛争が未解決のまま放置されると社会が中毒症状となり、戦争以上に悲惨なことになりかねない。
さりとて核兵器を使った大規模な戦争もおこし難い。なんとも中途半端でいつの日か爆発するかもしれないマグマが蓄積されているようなものだ。鬱積した不満はどこにはけ口を求めればいいのか。
国際法には、平時国際法と戦時国際法がある。
国際法には、平時国際法と戦時国際法がある。
戦時国際法には戦争とははっきり明示されていないが事実上制度としして認められている。これが行使できなければ国際紛争の解決には他の方法に頼らなければならないがいまのところ何も有力な解決方法がない。
それではどうすればよいか。簡単に答えなど見つからないが、現実を忘れず平和への努力、新しい法の開発を目指して努力を続けるほかない、というのがわが国社会科学の泰斗 小室博士の処方箋である。
「真の平和を願う者のなすべきことは何か。
「真の平和を願う者のなすべきことは何か。
① まず、戦争の文明史的本質を洞察することである。ポイントは二つある。
(ⅰ)戦争とは国際紛争解決の手段である。
(ⅱ)戦争以上に合理的で実効的な紛争解決の手段を創造しないかぎり、戦争はなくならない。
② しかし、現在そのような一段と次元の高い国際紛争解決の新メカニズムは、その萌芽すら現れていない。
具体的な方向すらまだ発見されていない。国際社会は五里霧中である。
だが、具体的な努力目標もないということではない。方向はわからなくとも、少なくとも準備作業の何たるかは明らかである。それは、
(ⅰ)長期的には、国際法の成熟を目指して、複雑きわまる組織的努力を続けることである。
(ⅰ)長期的には、国際法の成熟を目指して、複雑きわまる組織的努力を続けることである。
その一環として戦争に関する法の開発がある。しかし、具体的な方向が定まらないので、当面はやみくもの努力以外にやりようがない。要するに試行錯誤の段階である。
(ⅱ)短期的には、これと並行して、現行の国際法の枠内で、できるかぎり具体的に戦争の勃発を減少させる努力を続けることである。
(ⅱ)短期的には、これと並行して、現行の国際法の枠内で、できるかぎり具体的に戦争の勃発を減少させる努力を続けることである。
ただし、これを戦争廃絶の努力と錯覚してはいけない。
③ 前項のような努力を続けてゆく過程で、ひょっとしたら、戦争以上に合理的で実効的な国際紛争解決の新メカニズムについて、おぼろげながらヒントが得られるかもしれない。
③ 前項のような努力を続けてゆく過程で、ひょっとしたら、戦争以上に合理的で実効的な国際紛争解決の新メカニズムについて、おぼろげながらヒントが得られるかもしれない。
これは祈りにも似た悲願である。
④ その間、現実の戦争の可能性に対しては、物心両面で十分備えがなくてはいけない。
④ その間、現実の戦争の可能性に対しては、物心両面で十分備えがなくてはいけない。
このことは、平和への努力、平和への祈りと矛盾することではない。むしろ、そうしないことが、結果として平和主義と矛盾することになる。
以上が、真の平和主義の核心である。
まことに、新しい制度の創造には、それに相応した基礎的な法秩序の成熟が前提となる。
以上が、真の平和主義の核心である。
まことに、新しい制度の創造には、それに相応した基礎的な法秩序の成熟が前提となる。
それを達成するまでは、これと並行して現実的に対応することが不可欠である。それが、文明の鉄則である。」
(小室直樹著光文社『新戦争論』)
核兵器時代における戦争の勃発を防ぐ努力は喫緊の課題である。ひとたび核戦争が勃発すればその惨禍ははかりしれないからである。小室博士は戦争以上に合理的で実効的な国際紛争解決の新メカニズムは祈りにも似た悲願であるといった。今のところ世界の現状は新メカニズムのおぼろげな曙光さえ見えない。
つぎに被爆国であり非核保有国であるわが国の防衛について考えてみよう。
核兵器時代における戦争の勃発を防ぐ努力は喫緊の課題である。ひとたび核戦争が勃発すればその惨禍ははかりしれないからである。小室博士は戦争以上に合理的で実効的な国際紛争解決の新メカニズムは祈りにも似た悲願であるといった。今のところ世界の現状は新メカニズムのおぼろげな曙光さえ見えない。
つぎに被爆国であり非核保有国であるわが国の防衛について考えてみよう。
2015年5月4日月曜日
核兵器と戦争 5
中国は2009年以降、領土にかかわる核心的利益として台湾、チベット、東トルキスタン、南シナ海、尖閣諸島を掲げ、これらに関して譲歩することはないと言明している。
中国が尖閣諸島で譲歩しなければ紛争は継続する。紛争は必ず決着されなければならない。
今や残された道は限られる。戦争以外の解決方法がなければ戦争となる。
尖閣諸島をめぐってもその懸念が払拭しきれない。
尖閣諸島で日中が武力衝突してもアメリカは経済制裁のみで武力介入しないことも予想される。
そしてこの戦いで日本が敗北すれば戦後70年つづいてきた日本のあり方が根底から問われることになる。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
このわが国憲法の前文、戦勝国によるおしきせではないかと久しく言われてきた。文法的にもおかしい日本語である。が、すくなくともここに高々と掲げられた理想を戦後の国民は最高法典として戴いてきた。
それが根底から崩されることになる。戦後70年日本人は、” 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して” 自主防衛をおろそかにしたツケを払わされることになる。
唯一の被爆国であるわが国は、ひたすら平和を願いそのことを世界に発信しつづけてきた。
そうすれば平和を保たれると信じてきた。憲法の前文をそのまま信じたと言ってもいい。
そして国家の防衛は自主努力よりもむしろ他国依存を優先した。
尖閣諸島を奪われても、アメリカが武力介入しなければ核戦争は避けられたとして国際社会はむしろ安堵するかもしれない。
当面の危機を逃れるため独裁政権のわがままを見過ごすといかに危険か。
ドイツ系住民が多数を占めていたチェコスロバキアのズデーデン地方の帰属問題に関するミュンヘン会談におけるヒットラーに対する宥和政策、近くはロシア系住民が多数を占めているクリミアを併合したプーチン大統領に対する経済制裁。
これら独裁政権に対する優柔不断な対応は一時の平和には寄与するかもしれないが永続する平和を保障しない。
中国による尖閣諸島奪取とて例外ではありえない。紛争にしろ戦争にしろその性質上拡大する。どちらか一方が譲歩しない限り。
日本が尖閣諸島で中国に敗北し譲歩を続ければ、一時的に東アジアに平和が訪れるだろう。
そうなれば第二次大戦後の旧ソ連に対するフィンランドのように、日本は中国の勢力圏にまきこまれ ”フィンランド化” した資本主義国となる。
日本人はそのような日本を望むだろうか? 今でさえ媚中的発言をする一部政治家がいる。
片やそのような日本は見たくないという人もいるだろう。
戦争敗北となれば必ずや国論は二分され、日本社会はアノミーさながらになる。
このように選択肢が限られるのは、たとえ日本がいかなる運命と辿ろうと核戦争に巻き込まれるのだけはイヤだというのがその根底にあるからであろう。
核兵器時代以前の選択肢とは明らかに異なる。
中国が尖閣諸島で譲歩しなければ紛争は継続する。紛争は必ず決着されなければならない。
今や残された道は限られる。戦争以外の解決方法がなければ戦争となる。
尖閣諸島をめぐってもその懸念が払拭しきれない。
尖閣諸島で日中が武力衝突してもアメリカは経済制裁のみで武力介入しないことも予想される。
そしてこの戦いで日本が敗北すれば戦後70年つづいてきた日本のあり方が根底から問われることになる。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
このわが国憲法の前文、戦勝国によるおしきせではないかと久しく言われてきた。文法的にもおかしい日本語である。が、すくなくともここに高々と掲げられた理想を戦後の国民は最高法典として戴いてきた。
それが根底から崩されることになる。戦後70年日本人は、” 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して” 自主防衛をおろそかにしたツケを払わされることになる。
唯一の被爆国であるわが国は、ひたすら平和を願いそのことを世界に発信しつづけてきた。
そうすれば平和を保たれると信じてきた。憲法の前文をそのまま信じたと言ってもいい。
そして国家の防衛は自主努力よりもむしろ他国依存を優先した。
尖閣諸島を奪われても、アメリカが武力介入しなければ核戦争は避けられたとして国際社会はむしろ安堵するかもしれない。
当面の危機を逃れるため独裁政権のわがままを見過ごすといかに危険か。
ドイツ系住民が多数を占めていたチェコスロバキアのズデーデン地方の帰属問題に関するミュンヘン会談におけるヒットラーに対する宥和政策、近くはロシア系住民が多数を占めているクリミアを併合したプーチン大統領に対する経済制裁。
これら独裁政権に対する優柔不断な対応は一時の平和には寄与するかもしれないが永続する平和を保障しない。
中国による尖閣諸島奪取とて例外ではありえない。紛争にしろ戦争にしろその性質上拡大する。どちらか一方が譲歩しない限り。
日本が尖閣諸島で中国に敗北し譲歩を続ければ、一時的に東アジアに平和が訪れるだろう。
そうなれば第二次大戦後の旧ソ連に対するフィンランドのように、日本は中国の勢力圏にまきこまれ ”フィンランド化” した資本主義国となる。
日本人はそのような日本を望むだろうか? 今でさえ媚中的発言をする一部政治家がいる。
片やそのような日本は見たくないという人もいるだろう。
戦争敗北となれば必ずや国論は二分され、日本社会はアノミーさながらになる。
このように選択肢が限られるのは、たとえ日本がいかなる運命と辿ろうと核戦争に巻き込まれるのだけはイヤだというのがその根底にあるからであろう。
核兵器時代以前の選択肢とは明らかに異なる。
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