2017年10月16日月曜日

エリートと大衆 2

 大衆は自分を疑わない。自分を極めて分別に富む人間だと考えている。
 大衆は経験や習慣的考えにもとづく信念や主義主張をもっている。このため自分と異なる意見に対しては相手が間違っていると考える。
 だが自分の限られた経験にもとずく思想は真の思想とはいえない。その理由をオルテガはこう説明する。

 「平均人の『思想』は真の思想ではなく、またそれを所有することが教養でもない。
 思想とは真理に対する王手である。思想をもちたいと望む人は、その前に真理を欲し、真理が要求するゲームのルールを認める用意をととのえる必要がある。
 思想や意見を調整する審判や、議論に際して依拠しうる一連の規則を認めなければ、思想とか意見とかいってみても無意味である。」(オルテガ・イ・ガセ著神吉敬三訳ちくま学芸文庫『大衆の反逆』)


 オルテガは大衆を量的ではなく人間学的な概念で定義する。

 「厳密にいえば、大衆とは、心理的事実として定義しうるものであり、個々人が集団となって現れるのを待つ必要はないのである。
 われわれは一人の人間を前にして、彼が大衆であるか否かを識別することができる。
 大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は『すべての人』と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感じることに喜びを見出しているすべての人のことである。」(前掲書)

 この定義にしたがえば「大衆」は上流階級にも下流階級にもいるし、労働者にも学者・知識人にも広く存在する。
 大衆は自分自身には何も果さず現在あるがままのものに満足する。自分と違う考えをする人を排除しようとする。
 それゆえ理想を求めて「自分自身となるための闘い」をする人の足を引っ張る。
 他の人々と同一であるとは、万人に共通・平均的であることを意味しそれは量的ではなく質的な概念である。
 他と同一でありたいと願う人はあえて自分に対して特別な要求を果すことなく既存の生の瞬間的連続の生き方に喜びを見出す。
 シンガーソングライター吉田拓郎の「今日までそして明日から」はこの大衆の心理をうまく代弁している。

  わたしは今日まで生きてみました
  そして今わたしは思っています
  明日からもこうして生きていくだろうと

 「大衆には、生まれながらにして、それが事象であろうと人間であろうと、とにかく彼らの彼方にあるものに注目するという機能が欠けているのである。」
 「風のまにまに漂う浮標のような」(前掲書)生き方は心地いい。
 あえて自己完成をめざして努力をする少数者はこの心地よさを乱すので尊敬の対象などではなくむしろ排除の対象となる。

 大衆と少数者の力学のバランスが適正に保たれていれば社会は健全であるが、これが崩れると社会は堕落し危機が訪れる。
 不幸にもそうなる社会とはどんな姿か、なぜそうなるのか。

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