20世紀スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセは名著『大衆の反逆』でエリートと大衆について「高貴な生と凡俗な生」と対比し論考している。
わが国の衆議院解散・選挙を機にこのテーマについて考えて見たい。
エリートは「選良」と訳されるが、いまやこの漢字は死語に近いほど使われていない。選良は代議士の代名詞でもある。この漢字と人びとがもつ代議士に対する負のイメージが重なりエリートの訳語として使うには違和感があるのかもしれない。
国会議員の25%、大臣はなんと60%以上、この数字はわが国の世襲議員の割合(9/28衆議院解散前)である。
そうでない人に比べて政界進出が容易でかつ上にいけばいくほど有利になりその割合が増える世襲議員、この人たちを選良と呼ぶには抵抗があるのだろう。
1960年から2005年にわたる調査の結果、世襲議員の割合は1960年の約3%から1993年の30%のピークに達するまで一貫して増加し、その後25%強と安定している。
(論文『世襲議員の実証分析』グラフから 筆者 飯田健・上田路子・松林哲也)
このことは戦後の混乱期を経て世の中が安定するに従って世襲議員が増加したことを意味している。
政治家に限らず世襲にも功罪があるだろうが、オルテガは世襲に対して厳しい。
「彼は生まれた時に、突如、しかも、そしてそれがいかにしてかは知らないまま、富と特権を有している自分を見出す。
これら富と特権は、彼自身に由来するのではないから、彼は内的にはそれらと何の関係もない。
いうなれば、それらは、他人、他の生物、つまり、彼の先祖が残した巨大な殻なのである。
そして彼は遺産相続者として生きなければならない。つまり、他の生が用いた殻を身につけなければならないのである。
さて、どういうことになるのであろうか。『世襲貴族』が生きる生は自己の生であろうか。それとも初代の偉大なる人物の生であろうか。
実はそのいずれでもないのである。彼は他人を演じるよう運命づけられているのだ。つまり、他人でも自分自身でもないように運命づけられているのである。
彼の生は、容赦なく。その真正性を失い、他の生の単なる代理もしくは見せかけに変質してしまう。
彼が用いなければならないように義務づけれれている手段があまりにも多いため、彼は自分自身の個人的な運命を生きる余地がなく、彼の生は萎縮させられてしまうのである。
生とはこれすべて、自己自身たるための戦いであり、努力である。」
(オルテガ・イ・ガセ著神吉敬三訳ちくま学芸文庫『大衆の反逆』)
オルテガは、生とはこれすべて、自己自身たるための戦いであり、努力であると規定し暗に世襲者にはこの努力が欠けているという。
自己自身たるための戦いとは、自分自身との不一致、今の自分は本来の自分ではないという不一致感。この不一致感を埋めるために絶えざる努力をすること、それが高貴な生である。オルテガは敷衍して言う。
「自分の生は、自分を超える何かに奉仕するのでないかぎり、生としての意味をもたないのである。したがって彼は、奉仕することを当然のことと考え圧迫とは感じない。
たまたま、奉仕の対象がなくなったりすると、彼は不安になり、自分を抑えつけるためのより困難でより過酷な規範を発明するのである。
これが規律ある生---高貴なる生である。高貴さは、自らに課す要求と義務の多寡によって計られるものであり、権利によって計られるものではない。まさに貴族には責任がある(Noblesse oblige)」(前掲書)
社会の方向性を担うエリートはあらゆる可能性の中から決断を積み重ねなければならない。決断にあたっては迷い、恐れがなければならないとも言っている。
「生の現実を直視し、生のすべてが問題であることを認め、自分が迷える者であることを自覚するのである。
これこそ真理なのであるから---つまり、生きるということは自己が迷える者であることを自覚することなのであるから---その真理を認めた者はすでに自己を見出し始めているのであり、自己の真実を発見し始めているのである。彼はすでに確固たる基盤に立っているのだ。」(前掲書)
このように迷いながらも絶えざる努力をぜずにはいられないのがエリートであり、その区分は社会階級などではなく人間の質である。
エリートは高い規範のために自ら進んで困難と義務を背負い込むことをいとわない性格である。
このように厳しい規律を自らに果すことができる人間であれば職業や社会の上層・下層を問わずエリートと呼ぶことができる。
社会の原動力はこれら少数のエリートによる支配とそれに従順な大衆の相互行為から成り立っている。エリートの支配が弱まればそれに応じて大衆の力が増す。
それではエリートの反対の大衆とはどういう人なのか。
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