一見正しそうに見える論理だがよくよく考えると間違っている。われわれはこのようなことを時々体験する。いわゆる詭弁である。
だがこのようなことは実社会には溢れかえっている。しかもわれわれ自身もそれと気づかず詭弁を弄している。
こう語るのは論理的思考の研究者であり教育者でもあった修辞学者の香西秀信氏である。
詭弁を間違った論理とすればその反対の極に位置するのが形式論理に則った論理ということになる。それはいわば真空の無菌室で純粋培養されたような論理である。
「われわれが議論するほとんどの場において、われわれと相手との人間関係は対等ではない。
われわれは大抵の場合、偏った力関係の中で議論する。そうした議論においては真空状態で純粋培養された論理的思考力は十分に機能しない。
が、その十分に機能しないことを、相手が詭弁を用いたからだと勘違いしてはいけない。(中略)
私の専門とするレトリックは、真理の追究でも正しいことの証明(論証)でもなく、説得を(正確に言えば、可能な説得手段の発見を)その目的としてきた。
このために、レトリックは、古来より非難、嫌悪、軽視、嘲笑の対象となってきた。
が、レトリックがなぜそのような目的を設定したかといえば、それはわれわれが議論する立場は必ずしも対等ではないことを、冷徹に認識してきたからである。」
(香西秀信著光文社新書『論より詭弁』)
言葉で何かを主張したり、説得しようとした途端に純粋な形式論理から逸脱した理論になる。このことをもって詭弁と定義すれば実社会は詭弁に溢れていることになる。もっとも詭弁はその使用者に騙しの意図があることが前提であり、そうでなければそれは詭弁ではなく誤謬ということになる。
世の中に詭弁や誤謬が溢れているとすればわれわれはうかつに人の言ったことなど素直に信じられなくなってしまう。 実生活上これらに無関心を決め込むわけにもいかない。それではどうすればいいのか。
詭弁や誤謬を正しく認識しそれらが与える影響について冷静に対応すること。これに尽きると言えるが、具体的にはどうすればいいのか。それが問題である。
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