あるいは、運試しのつもりのギャンブルに負け、これを取り返えさんとして同じように泥沼にのめり込む。これらは典型的なギャンブルに嵌る動機である。
ギャンブルする可否はともかく、これで馬鹿げた行動をとらないためには、前稿で述べた
”勝っても負けても一定額になったらやめる、借金してまで勝負しない” というルールを厳守すること。
これはギャンブルホーリックにならないためのいわば安全弁である。
が、理性では理解できてもいざとなるとそれを実行できない。地獄の釜の蓋を開き、そこに飛び込んでいくか否かは、この簡単なルール厳守にかかっている。
なぜこの簡単なルールを守れないのか。損を取り返すという行為自体、危険と隣り合わせである。
仇を討つつもりが返り血を浴びる、倍返しのつもりが元も子もなくす、などの可能性は常につきまとう。
が、損を取り返しにいく人はこのことをきれいに脳裏から消し去る。
このように自ら律したルールでありながら、損を取り返すという誘惑にかられ、これが優先しルールが置き去りになる。
自分に厳しくとはいうものの、言うは易く行うは難し。余程の覚悟と努力が求められる。ましてギャンブルなどに手をそめる人にとってはなおさらである。
自ら律したルールに綻びが生じるのは、まずルールに”例外” を設けることによってはじまる。堅固に築いた堤も蟻の一穴が原因となって崩落するごとく、この例外の容認によってルールは瓦解してゆく。
自らの都合のいい解釈で抜け道を探してしまう。
いとも簡単にどんでん返しがおきるのがギャンブルの常であるが、このことは例外容認に格好の理由づけを与えてくれる。
曰く、”あと一勝負だけ” ”あと一日だけ” ”今回だけ” ”これが最後” など抜け道の言い訳には事欠かない。
これで終わることがないことは容易に想像がつく。ひとたび麻薬に手を染めた人間が容易にそこから抜け出せないように、ギャンブルもひとたび禁を破れば同じ運命が待ち受けている。
ギャンブル地獄に陥らないためには、冷静にならなければならないが、ギャンブルホーリッカにはどうしてもそれができない。
人はどこまでも自分に甘く、自分に有利に解釈する。また、足るを知らず、欲望には際限がない。勝っても、まだまだだという念にかられる。
ギャンブルには人間の弱さが凝縮されている。
吉田兼好の次の言葉は冷静を欠いた人の心に警鐘を鳴らす。
「双六の上手といひし人に、その手立を問ひ侍りしかば、『勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし』と言ふ。
道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、またしかなり。」
(『徒然草』第110段)」
いきすぎたギャンブルは身の破滅をもたらし、ひいては犯罪につながり社会問題化する。つぎにこの問題を考えてみたい。
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