2013年7月15日月曜日

労働と気晴らし

 17世紀フランスの天才ブレーズ・パスカルは、人間の尊厳は、なにより考えることにあり ”人間は考える葦である” といった。
 彼の興味は数学や物理学にあり、この分野で目覚しい業績を残したが父の死を契機としてその鋭い観察眼は人間に向けられた。
 彼が著した、パンセのなかで特に興味を惹くのは、人間の行動を観察した次の3点であろうか。

① 人間はいずれ避けられない死の恐怖におびえている。
② 人間の行動は、全て自己愛からきている。
③ 苦悩や不幸から逃れるための”気晴らし”は、その瞬間だけ人間を幸福にする。

 ① と ② は、必然的に、関心が宗教の世界に向かい、彼独特のキリスト教弁証論を展開した。
 宗教、特にキリスト教は、西洋文明を理解するには避けて通れないが、ここでは、 ③ の”気晴らし”について考えてみたい。
 われわれは、身近な人の死やその他不幸のどん底にあると自らも思い、傍からもそう思われている人が、時も経ぬ間に、その不幸を忘れたかのように振舞うのをしばしば見かける。
 パスカルは看破する。人間は深刻なことに向き合えるほど強くない。なにもしないでいることほど人間にとって過酷なことはない。したがって、人間は気晴らしを求め、その瞬間は人間を幸福にする、と。
 パスカルの思想には、キリスト教ジャンセニスム教説が色濃くあらわれているといわれる。
 これと関連して、ドイツの社会学者マックス・ウエーバは、彼の論文 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に、キリスト教カルヴァン派が、近代資本主義の精神に少なからず影響を及ぼしていると述べている。
 パスカルは人間は”気晴らし”によってつかの間の幸福を得ることができるといい、マックス・ウエーバは、彼の論文で ”労働は救済である” と述べ ”祈りかつ働く” ことが宗教的救済につながるとの説を展開している。
両者に共通しているのは、無為、または、祈り、だけでは、幸福になれないし、救済もされないということになる。
さらにもっと重要な共通点は、ジャンセニスム教説もカルヴァン派も、人間の運命は予め定められているという、予定説から成立っていることである。
 予定説は、救済される人間は予め決定されている。
 善いことをしたから救われるとか悪いことをしたから救われないとか人間の都合に左右されない、神の絶対性を守るための教義である。
 善行を働いても救われないかもしれないし、悪行を働いても救われるかもしれない。しかも人間はこのことを予め知ることさえできない。
 この予定説の論理は、人間を不安にする。この不安から逃れるため、もし自分が、神によって救われている人間ならば、神の御心に従う行動をとる筈だと、贅沢や浪費を避け、禁欲的労働に勤しんだ。
 そして ”祈りかつ働く” ことによって社会に貢献し、神の御心に適うことによって、はじめて自分が救われているという確信をもつことができる。
 仏教でいう因果応報の逆で、自分が既に救われているのであれば、それに相応しい行動をとっている筈である、という緊張感あふれる精神状態を強いている。
 凡俗の発想かもしれないが、マックス・ウエーバが、”労働は救済である” といっても、労働が苦痛を伴うものだけのものであれば、これほどまでに、近代資本主義は伝播しなかったであろうと思われる。
 パスカルが、看破したように、人間は ”気晴らし” を求めているが、労働もその要素をあわせ持っていたからこそ、今日の近代資本主義の隆盛を迎えたといえないだろうか。
 因みに、今日のヨーロッパにおける経済状況は、プロテスタントが占める割合が比較的多い北欧の経済が順調で、プロテスタントが占める割合が少ない南欧の経済は危機に瀕している。
 これは、マックス・ウエーバがいう、プロテスタンティズムの倫理が比較的浸透している北欧諸国とそうでない南欧諸国の差によって生じているかもしれない。
 もしそうであれば、欧州の南北の経済格差は一過性のものではないということになる。
 EUの経済格差問題は思いのほか根が深い。

0 件のコメント:

コメントを投稿