参議院議員 江口克彦氏の地方主権型道州制は、さすがに松下幸之助の衣鉢を継いでいるだけに、真に日本の将来を考えた憂国の情にあふれる提言である。
江口氏の提言の骨子は、明治以来続いてきて制度疲労の極にある中央集権体制の是正、および画一型社会から多様性を求める社会へと時代の要請が変わったことに伴いこれに対応するための地方の活性化である。
中央集権体制の制度疲労の是正と地方の活性化 これに異を唱える人はまずいない。
考えなければならないのは、これをいかにして具現化するかである。
江口氏は中央集権体制を潔く諦め、地方分権化し、これに主権を持たせることによって具現化するのがベストだと考えた。
中央を解体し、地方に主権を持たせるとは、明治維新が逆の方向でそうであったように革命にも匹敵する。
もし、これが唯一の方法であり、かつ時代の要請であれば万難を排して実行される価値がある。
地域主権型道州制が時代の要請であるかどうか考えてみたい。
国内をみわたしても、コンビニやスーパは全国均一であり、地方の特色ある店舗はすたれ、中心街はシャッター街となり地方は疲弊した。
しかし時代は画一型のものではもはや満足せず多様性を求める知価社会になった(堺屋太一)のであるから、これにこたえるには地方の活性化しかない。
が、地方活性化の手段は方法論であって、道州制が唯一の方法だと断言はできない。
グローバル化の時代の波は、夜警国家から福祉国家というのが流れではないか。
グローバル化が進めば、国家の意味合いが薄れるという意見がある、特にグローバル企業の経営者からそういう言葉が発せられる。その議論には国民は置き去りにされている。
中央集権体制の不具合の是正は、地方分権化は手っ取り早く解りやすいが、これが唯一の手段ではない。
ここで制度疲労を来した中央集権体制を立て直す途はないのか、地方主権型道州制にするより他に途はないのか、また時代はたしかに多様性をもとめているが、この要請にこたえるには地方分権以外考えられないのだろうか。
まず、中央集権体制が制度疲労を来していることに異論はない。
戦後、アメリカのGHQによって、日本の旧体制はことごとく解体させられた。ただ官僚機構だけは解体させられなかった。GHQが、占領政策を遂行するのに都合よく利用できたからである。
従って、この官僚機構のみは、旧体制のまま生き延びている。 このこと自体がさまざまな弊害をもたらしている。幾度となく、官僚機構の改革は叫ばれてきたが何の成果もあげてこなかった。
官庁の中の官庁 財務省(旧大蔵省)は、金融ビッグバンで改革の俎上に上ったがびくともしなかった。
金融庁は分離されたが、さして改革と呼べるほどのものとも思えない。
主計と主税という強大な権限は手放さないで、未だに無傷のままである。他の官庁も推して知るべし、肝心要の権限を手放す筈がない。
このような、制度疲労を来し、腐蝕した組織を立て直すには、確かに、江口氏や堺屋氏が主張するように地方に権限と財源を移すのが手っ取り早い方法かもしれない。
つぎに、時代は確かに多様性を求めている。地方に権限、財源が移管されれば、地方の自由裁量が増し特色を生かせることも間違いない。
が、時代が求めているのは多様性ばかりでない。
地方分権型道州制が、時代の要請に合致するかどうかだが、諸外国の情勢はどうもそうはなっていない。
レーガン・サッチャー時代の小さな政府による新自由主義的政策は敬遠されている。グローバル化時代でも、EUに見られるように国家の利益がぶつかり合い、国家が全面にでて鎬を削っている。
また、成熟した社会では、福祉は時代の要請であり、北欧諸国に見られるように国家に付託されている。
国家間の利害の衝突、国民に広くおよぶ福祉政策、かかる政策は地方の政策とは相容れない。
このようにグローバル的にみても地方分権は、時代の流れに逆らっている。この流れに逆らってあえて地方分権型道州制を推し進めることは、漱石流にいえば”意地を通せば窮屈だ”ということになる。
窮屈でない方法といえば、中央集権を続けることになるが、この弊害は前述の通りである。
制度疲労を来した中央集権の弊害を是正するなど、叫ばれつづけ、人々は、百年河清を待つ心境になっている。
道州制議論が一向に盛り上がりに欠けるのは、この辺りにも原因の一端があるのかもしれない。
が、諦め/停滞は流れのなかでは後退を意味する。
ここは考えぬいて解決の端緒を探ろう。
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