「『ナザレのイエス』について信頼できる厳然たる歴史的事実は、イエスが1世紀の初めにパレスチナではよくあったユダヤ人の社会運動の一つをリードするユダヤ人であったことと、そうした行為のために、ローマ人が彼を十字架に架けたことの二つだけである。
この二つの事実だけでは、2000年前に生きていた一人の人物の完全な人物像を再構築することはできない。
だが、ローマ帝国側の史的資料はふんだんに残されているおかげで、それを『ナザレのイエス』が生きた激動の時代的背景と重ね合わせて見れば、福音書に語られているイエス像よりももっと正確な歴史上の人物像が浮かび上がってくる。
実際、こうした歴史的営為の中から浮かび上がるイエスは、当時のユダヤ人がみなそうであったように、1世紀のパレスチナの宗教的、政治的混迷に巻き込まれずにはいられなかった一人の熱烈な革命家であって、初期キリスト教徒共同体で涵養されたような穏やかな羊飼いのイメージとは程遠い。
さらに考慮に入れるべきは、十字架刑は、当時のローマ帝国が反政府的煽動罪にだけ適用していた処罰法だったことである」
(レーザー・アスラン著白須英子訳文藝春秋社『イエス・キリストは実在したか?』)
イエスは『神の国は近い』と説いた。神の国では、富めるものが貧しくなり、強いものは弱くなり、権力者は無力となる。
「ひとことで言えば、『神の国』とは革命への呼びかけである。
いかなる革命であろうと、とりわけ神が選ばれた民のためにとっておいた土地を強奪した帝国の軍隊と戦うのであれば、暴力と流血は避けられないであろう。
もし『神の国』が途方もない空想でないとすれば、多大な帝国駐留軍に占領されている土地に、どうやって武力を使わずにそれを樹立できるだろうか?
預言者も、反徒も、一途な革命家たちも、イエスの時代のメシアたちもみな、そのことを知っていた。
彼らがこの世に神の支配を樹立するために、暴力の利用をためらわなかった理由はそこにある。問題は、イエスも同じように感じていたかどうかだ。」(前掲書)
革命の対象は、ローマ帝国とそれに加担する神殿の祭司、ユダヤ人貴族などの支配階級である。もし『神の国』が途方もない空想でないとすれば、多大な帝国駐留軍に占領されている土地に、どうやって武力を使わずにそれを樹立できるだろうか?
預言者も、反徒も、一途な革命家たちも、イエスの時代のメシアたちもみな、そのことを知っていた。
彼らがこの世に神の支配を樹立するために、暴力の利用をためらわなかった理由はそこにある。問題は、イエスも同じように感じていたかどうかだ。」(前掲書)
ナザレのイエスが、同時代の革命家たちと同じように革命を実現するために暴力を推奨したという記述はないが、平和主義者でなかったことは確かである。
・地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
(マタイによる福音書10章34節『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年)
・わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
・地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
(マタイによる福音書10章34節『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年)
・わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
(マタイによる福音書10章35節『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年)
・あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。
(ルカによる福音書12章51節『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年)
・あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。
(ルカによる福音書12章51節『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年)
2000年前のパレスチナはローマの圧制で社会情勢は終末思想と革命の気運にあふれていた。人びとはメシアを待望した。イエスはこれに応えようとしたのだ。
敵を愛しなさい、あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。これはイエス後のユダヤ人の蜂起とローマ軍によるエルサレム破壊の反省からナショナリズムの熱気を起こさないようにとする【初期キリスト教徒共同体で涵養されたような穏やかな羊飼いのイメージ】の演出の一環であろう。そうでなければイエスの上の言葉とあまりにも矛盾する。
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