採決をめぐって世論は真っ二つに割れた。新聞も産経、日経、読売は『成立』と報じ、毎日、東京、朝日は『強行』と報じた。
野党は、十分議論が尽くされないで多数決に頼った与党の横暴であると声高に叫ぶ。
これに対し与党は十分な時間をとって議論した、決める時期が来たので決めなければ与党の責任が果たせないと言う。
今回の採決は1960年5月の岸内閣による日米安保改定の採決の再来を想起させる。
1960年の採決は安保闘争といわれるほどの国民運動であった。
今回の採決を見る限り程度の差はあれ日本社会は当時と何も変わっていない。とりわけ多数決原理と民主主義の理解という点において。
与党は議論を尽くしたうえでの採決であり民主主義のルールに叶っている。
野党は議論は尽くされていないのであらゆる手段で阻止する。強行すれば民主主義のルール違反である、と。
一体どちらの言い分が正しいのか。この当否は多数決と民主主義の原点に立ち返って検証しなければならない。
その前に民主主義の旗手をもって任ずるアメリカはこれをどう考えているのだろうか。
アメリカが考える多数決と民主主義の関連と、日本が考えるもしくは実践してきたそれと同じなのかまたは異なるのか。
「民主主義の原則 多数決の原理と少数派の権利
一見すると、多数決の原理と、個人および少数派の権利の擁護とは、矛盾するように思えるかもしれない。しかし実際には、この二つの原則は、われわれの言う民主主義政府の基盤そのものを支える一対の柱なのである。
・多数決の原理は、政府を組織し、公共の課題に関する決断を下すための手段であり、抑圧への道ではない。
ひとりよがりで作った集団が他を抑圧する権利がないのと同様に、民主主義国においてさえも、多数派が、少数派や個人の基本的な権利と自由を取り上げることがあってはならない。
・民族的背景、宗教上の信念、地理的要因、所得水準といった要因で少数派である人でも、単に選挙や政治論争に敗れて少数派である人でも、基本的人権は保障され享受できる。
いかなる政府も、また公選・非公選を問わずいかなる多数派も、それを取り上げてはならない。
・少数派は、政府が自分たちの権利と独自性を擁護してくれることを確信する必要がある。
それが達成された時、その少数派集団は、自国の民主主義制度に参加し、貢献することができる。
民主主義政府が必ず保護しなければならない基本的人権には、言論と表現の自由、宗教と信仰の自由、法の下での正当な手続きと平等な保護、そして組織を結成し、発言し、異議を唱え、社会の公共生活に全面的に参加する自由などがある。
民主主義政府が必ず保護しなければならない基本的人権には、言論と表現の自由、宗教と信仰の自由、法の下での正当な手続きと平等な保護、そして組織を結成し、発言し、異議を唱え、社会の公共生活に全面的に参加する自由などがある。
・民主主義国は、少数派には文化的独自性、社会的慣習、個人の良心、および宗教活動を維持する権利があり、それを保護することが、国の主要な責務のひとつであることを理解している。
・多数派の目に異様とはまでは映らなくても、奇妙に見える民族や文化集団を受容することは、どんな民主主義政府も直面しうる難しい課題のひとつである。
しかし、民主主義国は、多様性が極めて大きな資産となり得ることを認識している。民主主義国は、こうした独自性や文化、価値観の違いを脅威と見なすのではなく、国を強くし豊かにするための試練と見なしている。
・少数派集団の意見や価値観の相違をどのように解決するかという課題に、ひとつの決まった答などあり得ない。自由な社会は、寛容、討論、譲歩という民主的過程を通じてのみ、多数決の原理と少数派の権利という一対の柱に基づく合意に達することができる。
そういう確信があるのみである。
- Bureau of International Information Programs "Principles of Democracy" -」
- Bureau of International Information Programs "Principles of Democracy" -」
次に日本人が考えもしくは実践してきた多数決と民主主義について見てみよう。
0 件のコメント:
コメントを投稿