日本人は宗教に無関心の人が多い。どの宗教であれ熱心な信者を見ると一種哀れみの目線でみる。決して好意的ではない。
宗教を信じていますかと聞けば、たいていの日本人は ”私は無宗教です” と誇らしげに答える。
ところが中東ではイスラム教徒にしろ、キリスト教徒にしろ、ユダヤ教徒にしろ神の律法を受けることによりはじめて人間となると考える。
彼らにとって無宗教とは人間ではないと宣言するに等しい。この隔たりは想像を絶する。
また日本人の宗教意識とは裏腹に近代化のために宗教が果たした役割は大きい。宗教なくして近代化は達成されなかったといっても過言ではない。
マックス・ウェーバーは彼の論文『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でそのことを論証した。
同一のルーツでありながらキリスト教とイスラム教は全く違った道を辿った。マックス・ウェーバーが晩年に著わした『社会学の根本概念』によってその違いを知ることが出来る。その著作で彼は人々の行為の動機を分析している。
「すべての行為と同じように、社会的行為も、次の四つの種類に区別することが出来る。
① 目的合理的行為。
これは、外界の事物の行動および他の人間の行動について或る予想を持ち、この予想を、結果として合理的に追求され考慮される自分の目的のために条件や手段として利用するような行為である。
② 価値合理的行為。
これは、或る行動の独自の絶対的価値 - 倫理的、美的、宗教的、その他の - そのものへの、結果を度外視した、意識的な信仰による行為である。
③ 感情的、特にエモーショナルな行為。
これは直接の感情や気分による行為である。
④ 伝統的行為。
身に着いた習慣による行為である。」
(マックス・ウエーバー著清水幾太郎訳岩波文庫『社会学の根本概念』)
目的合理的行為は近代化に不可欠である。キリスト教ピューリタンは神に救済されるという確証を得んがため隣人愛を実践した。よりよい隣人愛を実践するために目的合理的に行為した。
それではイスラム教の教えは上記社会的行為のどれにあたるか。
コーランではムスリムに六信五行を義務づけている。外面的にも内面的にも宗教戒律に拘束される。
そこには目的合理的行為を採りいれる余地はない。
たとえばラマダンの期間には陽が沈むまで水さえ飲むことができない。これでは日中の活動に支障を来たす。
「純粋価値合理的に行為する人間というのは、予想される結果を無視し、義務、体面、美、教義、信頼、何によらず、自分に命ぜられているものの意義を信じるがために行為する人間である。」
(前掲書)
イスラム教の教えは明らかにこの価値合理的行為に分類される。
近代化のためには目的合理的行為が求められるのであるから、イスラム教の教えは近代化に悖ることになる。
中世を制したイスラム社会が近代化に遅れをとったのは必然の結果であった。
だが近代化に背をむけるイスラム教の教えを背負ったイスラム社会にとって、近代化は来世の救いには何ら関係するところがない。
現世での近代化の遅れなど宿命でありアッラーの思し召しである。
「現世の生命、ほんの遊びごと。ただ束の間のたわむれにすぎぬ。
終の住処(来世)の方が、神を懼れる人々にとっては、どれほど有難いことか。これ、汝ら、これくらいのことがわからないのか。」
(コーラン第6章32節)
宗教恐るべし。 近代化を成し遂げたキリスト教社会、近代化を拒むイスラム社会。この隔たりも想像を絶する。
近代化を拒むイスラム社会に対し、その他の世界はどう対峙するのか、またイスラム社会はこれにどう応えるのか。
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