2015年2月2日月曜日

苛立つイスラム 1

 シリアで拘束された邦人2人に悲惨な結末が訪れた。犯人はテロリストでありかつイスラム教徒でもある。国際社会もこの残虐行為にたいし非難一色である。
 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの報復でイラク大統領フセインとアルカーイダ指導者ビン・ラディーンを倒し、一件落着とおもいきや事態は落着どころかますます混沌としてきた。
 イスラム過激派とアメリカを主とする欧米社会との溝は深まるばかりである。
 シリア拘束事件をきっかけに日本もその渦に巻き込まれかねない事態となった。


 ところでイスラム教とはなにか。われわれはあまりにもそれについて知らなすぎる。
 日本人は、鑑真が渾身の想いでつたえた仏教の戒律を当代の秀才が比叡山に集まりことごとく骨抜きにしたように、おおよそ規範なるものになじまない。
 イスラム教は規範に始まり規範に終わる宗教である。この規範たるや内面だけでなく外面も要求する規範である。
 これほど日本人になじまないものはないし、理解などできる筈もない。
 この点内面のみを要求するキリスト教のほうがまだなじみやすい。
 無知であり理解もできなければ対策のたてようもない。かかるときこそ社会学的アプローチが望まれる。

 唯一の神アッラーを信仰し、コーランを啓典とし、ムハンマド(マホメット)を最後の預言者とするイスラム教は、ユダヤ教、キリスト教と同じく啓典の民でありアブラハム系の宗教である。
 ルーツが同じにもかかわらず欧米社会と激しく対立するイスラム社会。行く末はどうなるのか、またその結末は?
 以下イスラム教について宗教社会学的アプローチを試みたい。

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