2012年10月1日月曜日

民意

 新しい第25代自民党の総裁に元首相の安部心晋三氏が選出された。
 党員投票の意向に逆らうかたちで選出された。ワシントンポストは日本は右傾化けしつつあると論評した。安部氏の選出には何点か懸念があげられている。
 安部氏は3世議員である(他の候補もすべて2世以上の世襲議員である)。5年前に病気を理由に首相の座をほうり投げた。中国、韓国との微妙な時期にあまりにもタカ派すぎてあやうい。民意に反し古い自民党の論理で選ばれた、等々。
 特に懸念されるのが、民意に反し、自民党の論理で選出されたのでは、という点である。早速、自民党秋田県連では、「石破氏が圧倒的に党員の支持を集めたにもかかわらず、国会議員の決選投票にはそうした民意が全く反映されていない」として、役員4人の辞任騒ぎとなっている。秋田県のみでなく、その他の県連、メディアでも民意が反映されていないとの論調が目立つ。
 日本は議院内閣制である。総理大臣は議員の投票でえらばれる。党首を選任するのは各党の自由であるが、今回の自民党総裁選挙は次期総理大臣の有力候補となる。民意に反するからとの理由で、これを受け入れなければ、議院内閣制の否定につながりかねない。
 民意とはなにか、日本の政治体制である議院内閣制をも揺るがしかねない民意とはなにかを改めて考えてみたい。
 自民党総裁選挙は、党員投票300ポイントと議員票199ポイントで争われた。ここで民意とは、年額4千円の会費を支払っている自民党員の民意のみならず、有権者から選任された議員の意思は間接的に民意である。
 今回問題となったのは党員の民意であり、これが十分反映されなかったことである。自民党員の意思は、一般大衆の意思に近く、これを無視するとはなにごとか、というのが彼らの主張である。
 しかしそうだからといって一般大衆の意思が間接的にしかつたわらない議員の意思は軽視していいわけではない。
 そんなことをすれば議院内閣制の根幹にかかわることである。民主主義は、少数者でも自由に意見をのべ、反対、棄権もできる一方、規則は遵守し、多数決には従う義務がある。この相矛盾したシステムにより成り立っている。
 そこに議論の余地があり、反対意見、少数意見であっても、耳を傾ける謙虚さが求められる。その根底をなすのが、多数であれ、少数であれ、それぞれの意思決定に至った過程をもう一度ふりかえってみるということであろう。
 もう一度振り返ってみるというが、なにを振り返ってみればいいのか、当然の疑問である。
 一般の有権者、自民党員、自民党議員のそれぞれの意思決定に至った根拠を探り当てること、それがその答えとなる。
 ここでのキーワードは「民意」である。物事が多数決によって決定される民主主義社会では、民意は金科玉条であり、神聖冒さざるもべきのである。
 何人もこれに逆らうことはできない。しかし、である。ドイツのヒットラーは、この民意によって合法的に政権を奪取した。なにも武力によって政権を奪取したのではない。
 この事実を、我々は肝に銘じなければならない。
 民意とは、特に、民主主義社会では、誤解されやすいが、一般大衆から、自然発生的に澎湃として湧き起った国民の意思であり、神聖冒さざるべきものであると。この妄信こそ、恐るべきものであり、過去に、幾多の過ちを犯した原因であった。
 民主主義社会で、民意が自然発生的とおもわれるのは、自由に意見をのべ、自由に意思表示できるからある。もし、意思決定に至る過程で操作、誘導があれば、純粋に自然発生的などといえるものではない。
 この、操作、誘導は今に始まったわけでなく昔からあった。情報リテラシーが進んでいる現代は、操作、誘導等情報にたいし、ある程度抵抗力がついているが、情報が不足していた時代は、現代ほど抵抗力があったとは思えない。
 為政者、官僚、御用学者、マスコミ、経済界等々の民意ジェネレイターには事欠かない。機会があるごと、これらの民意ジェネレイターは、国民に対し情報を発信している。
 心しておきたい。古来より、国民のためでなく、自己の利益のためである、などといった人を、私は誰一人知らない。

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