赤穂浪士の忠臣蔵は年末テレビの定番であり、今なお国民的人気番組である。
なぜこれほどまで人気があるのか。
このストーリーにはあだ討ちと侠気、それに日本人らしい責任のとり方とらせ方がある。これらが人々の共感をよぶのだろう。
喧嘩両成敗が天下の御法であるにも拘らず浅野内匠頭は切腹を命じられたが、吉良上野介には沙汰なし。
大石内蔵助以下47士は亡き主君のため覚悟の上幕府の裁定を実力で覆し吉良上野介を討った。
幕府の裁定を覆したからには本来は斬罪であるが破格の切腹になった。
この時代武士にとって斬罪と切腹は天と地ほどの開きがある。
幕府は自らの安寧のために本来の斬罪ではなく切腹にした。玉虫色の決着の原型の一つをここに見る思いがする。
この他にも日本人と責任の原型ともいえる例が江戸時代に数多く存在する。江戸時代に於いては徳川幕府と諸藩の存立が全てに優先した。このため責任は動機の如何にかかわらず結果責任が問われた。
現代では考えられないことであるが、藩主が事実上生殺与奪の権をもっていた江戸時代なればこその事件がある。
元禄13年(1700年) 会津藩の財政は苦しく藩士や庶民も困窮していた。
そこで藩主保科正容は秀才の誉れ高い丸八郎に打開策の立案を命じた。
「藩主直々の諮問に与った丸八郎は、張り切ってその対策を考え抜き、ついに『札金遣い之考』を立案して提出する。
『札金』とは、両・分・朱などの金高で表示された藩札のことである。
最初に藩札を発行したのは寛文元年(1661)に銀札を発行した福井藩だと言われている。
藩札は藩内での通貨不足を補うために発行されるものであったが、藩財政の窮乏を打開するために濫発されることもあり、インフレの危険性をはらんでいた(作道洋太郎『藩札』)
家老たちは丸八郎の提案を評議し、概ねその案を了承、藩主の裁可を得たうえで丸八郎を責任者にして札金の発行を開始することになった。
ところが、実際に11月15日から札金の発行を始めてみると、思いの外に混乱が生じた。
まず、銭の値段を始めとする諸物価が高騰し、さらに売り惜しみなどが横行して、武士も庶民も難渋した。
そこで、諸物価の引き下げや売り惜しみなどの禁止を法令で制定したが、いっこうに効果が現れない。
補助貨幣として銭札を発行したり、米を確保するために酒造停止などを命じたりしたが、これらも効果がない。
ついには偽札を作る者も現れ、これは露見して厳科に処せられたが、世間は不穏な空気に包まれた。
最初は丸八郎の政策を喜んでいた藩士や町人・農民も、困窮に陥るにつれて、丸八郎に憤りを感じるようになっていった。
藩当局はそのままにしておけなくなり、翌年11月朔日、丸八郎の提案を吟味の者に渡して検討させることにし、丸八郎には足軽を番人として付け置いた。
これは丸八郎の逃亡などを考慮してのことである。(中略)
吟味の者が提出した丸八郎の調査報告書は、家老から藩主に渡された。その内容は明らかではないが、次の藩主の裁可を見れば、その内容が丸八郎にとって著しく不利なものであったことが推測される。(中略)
”丸八郎は、最初から(藩札発行は)上の御為にもよく、藩士も領民もたいへん潤うようにたびたび言ってきたのに、かえって大いに御不益になり、藩主・領民ともたいへん痛む政策であって、その罪は軽くなく、不届き至極に思う。本来は成敗を命ずるべきであるが、(罪一等を減じて)切腹を命じる。” 」
(山本博文著光文社新書『切腹』)
何という結果責任だろう。
丸八郎自身には何の不正もなかった。手続きを踏んだ政策であり本来であれば責任を負わねばならないのはそれを承認した最終責任者の家老である筈である。
だが政策発案者に責任を取らせる。この類の責任の取らせ方は現代日本にも相通じるものがある。
エリートでないものにはどんな小さなミスでも規範が厳格に適用されるが、エリートで主流に立つ人には、他の人々には当たり前に適用される規範・規則が適用されない。
たとえば大きなミスを犯しても規範が厳格に適用されることはなく、しばらく謹慎すればミソギが済んだとみなして元に復帰する。
官僚の世界では特にこの傾向が顕著であり、その例は枚挙に暇がない。
今も昔も日本人はその根っこで何も変わっていない。
次稿で、日本人なら背筋が寒くなるような責任の重さについて考えてみたい。
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