先月インドを旅した。喧騒と熱気、どこかでみたような風景でありながら、どことも違う、文字通り異国に来た実感がインドにはある。
インドのほんの一部をみただけの印象であるが、タイやベトナムなどとも違うし、敗戦直後の日本の風景とも違う。それは、気の遠くなるような長い歴史に培われた風習が、現実の生活にむき出しになっていると表現していいかもしれない。
アーグラでは、ヒンズー教徒ではない、ムスリムのムガール帝国の王が寵姫のために建設した霊廟タージ・マハルを見学した。 タージ・マハルは2万人の職人と22年の歳月をかけ完成された。
そのロマンもけた外れなら、建設後、みずからは、息子(三男)に幽閉されるという、ギリシャ悲劇にも登場しかねない物語性が人をひきつける。
ジャイプールでは、マーケットを見学した。インドの女性は、肌身をさらす部分がすくない、そのぶん、衣装に精一杯の力そそそぐようだ。
マーケットのサリー売り場にひしめく女性の活気、まなざしは、バーゲンに集う日本の女性のまなざしの比ではない。
狭いところにうずたかく積まれたサリーを漁る女性の姿はまるで戦場だ。
ベンガル虎を見てみたいとランタンポール国立公園にいった。 キャンターで、でこぼこ道を何時間も走りまわり、運よく親子の虎をみることができた。
しかし、いざ虎と出くわしたときには虎よりも一緒にキャンターに乗っている人々の興奮した表情に、つい注意がいってしまって、肝心の虎はあっというまに過ぎ去ってしまった。
インドは、たしかにアメリカの証券会社のエコノミストがレポートした”BRICS”の一角を占めるほど活気に満ちている。
同時に、五千年にもおよぶカースト制度が、いまなお続いていることは、インドの運命を決定づけかねない。
カーストはヒンズー教にもとずく身分制度だけに、その根は深い。
カーストにより職種は決定される。カーストにない新しい職種、たとえばIT関連などに、優秀な人がカーストの身分を問はず流れ、インドがIT大国になったのはそれが原因ともいわれている。 門閥を問はず人材を集めた幕末長州の奇兵隊を連想させる。
我々がカーストを批判するのはやさしい、しかしカーストはインドの人々の日常生活、世界観に深く根ざしていて、これによって社会の調和がたもたれているようにみえる。
マハトマ・ガンジーの非暴力抵抗運動が国民に広く浸透しているためだろうか、インドの人はどこかやさしい。
来世でのカーストのランクアップのためには、何事にも耐え、ひたすら善行につとめているのだろうか。
ふと疑念が脳裏をよぎった、我々が考える経済発展など、インドの人にとっては”俗物の考え”にすぎないのではないか、と。
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