2012年11月12日月曜日

官僚システム

 戦後の日本は、マッカーサによって、軍部と財閥は解体させられた。
 しかし、官僚システムは無傷のまま存続した。時をおって官僚システムは肥大しつづけ、おきまりの制度疲労をおこした。
 汚職、腐敗が拡がり、ついには厚生省、防衛省の事務次官の逮捕にまで及んだ。
 また賄賂で摘発された官僚が「なんで自分だけが」という不満に代弁されるように官僚の腐敗は、その組織を蝕んでいる。
 表面に現れた不祥事は氷山の一角と考えるのが妥当な推論だろう。
 今や、日本を食いつぶさんばかりの勢いである。なぜ、こうなってしまったのか。
 ここは、社会学者、ドイツのマックス・ウエーバの官僚制についての洞察をもとに解明したい。
 ウエーバは官僚制を家産官僚制(Patrimonial bureaucracy)と依法官僚制(Legal bureaucracy)に分け定義した。
 家産官僚制とは、主君と家臣の関係で、主君の公権と公金を家臣(官僚)が管理する。
 官僚は公権も公金も恣にし、公私の区別はない。家臣は主君のために、働くのであって、臣民に対しては、奉仕するのではなく、施す立場である。施す立場であるので、賄賂は当然の報酬であって、罪悪感などない。
 これと対立概念にあるのが依法官僚制である。官僚は法律によって国家と国民のために奉仕すると定義づけられている。
 そこでは、裁量の余地はなく、法に従い機械のように働くことで公平さが担保される。
 官僚は、国家、国民のために、施すのではなく、奉仕する。奉仕する立場であれば、賄賂など罪悪感なしには受け取れない。
 主君と家臣の立場の関係が、殆ど昇華したと思われる事例がある。
 司馬遼太郎が戦前の参謀本部について述べた事例を思い出す。
 参謀本部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)の参謀が、我々は、天皇陛下の軍隊であり、天皇から統帥権を拝命している。軍隊の、意思、行動は、すべて、この統帥権に基づいているとし、政府、議会を超越して独断的に振舞った。そこには、国家、国民は不在である。当時の軍内部には、統帥権という、なにか、どす黒い、得体の知れないものが、権力を恣にして、蠢いている、と作家一流の表現でのべている。
 翻って、現代はどうか、先にのべたように、わが国の官僚制度は、敗戦にも拘わらず無傷で生き延びた、生き延びただけでなくさらに強化された。
 「権力は腐敗する、絶対権力は絶対的に腐敗する」(ジョン・アクトン)という政治の定理がある。
 実質的に、これほど長きにわたり、権力の座にあれば、腐敗しないほうがむしろ奇跡かもしれない。
 こういうと、かならず反論がある、現代の官僚は、国家、国民に奉仕する立場であり、役人は公僕にすぎないと。
 また、何れの国、組織をみて、賄賂等が一切ないところがあるか、あったらむしろ教えてもらいたい、日本にも、たしかに賄賂があるかもしれないが、他国とくらべれば、まだましな部類ではないかと。
 たしかに、公務員は、行政組織の構成要員であり、予め決められた自らの職務を遂行する立場にすぎない。
 しかし、現代の行政機構は、複雑に絡み合い、一般国民には、分かりにくい組織になっている。
 また、霞ヶ関文学と揶揄されるように、官僚の裁量の余地を、最大限にするための、抜け道を、法律の条文に潜りこませる手法は、官僚の常套手段で、自らの権限と利益を確保しようとする。
 このように、現代の日本の官僚制度は、先に述べた、依法官僚制とは程遠い、限りなく家産官僚制に近いシステムである。
 国家、国民のために奉仕するのではなく、自らの権限と利権のために汗を流す。官僚組織の避けられない一面である。
 権力が権力を求め自己増殖を繰り返す。恰もガンの如しである。
 汚職のない国家は皆無、といってはいいすぎかもしれないが、そのような国家はむしろ稀有だろう。
 ガンによって人は死ぬ場合もあれば、うまく生還できる場合もある。
 国家も官僚の腐敗によって、滅亡する国家もあれば、再生する国家もある。
 その判定基準はなにか。ずばりそれは、自浄能力の有無であろう。
 国家が汚職に対して自浄機能を発揮すれば、どんなに汚職が蔓延したとしても安全である。
 はたして日本の官僚システムはどうか。自浄機能が有効に働いているのか。
 身近な例から一つ検証してみよう。東京電力の福島第一原子力発電所の耐震安全性の問題をピックアップしてみたい。
 福島第一原発は、プルトニウムを使った発電「プルサーマル」を実施した。福島県は、その実施に先立ち、耐震安全性を検証するよう求めていた。
 原子力安全・保安院の寺坂信昭院長は「プルサーマルと耐震は関係せず」として、福島県の要求を一蹴した。
 結果は周知の通りである。もしこの福島県の要求を受け入れ耐震対策を検討していれば、あのような惨事は避けられたかもしれないし、すくなくとも被害をより抑えられた可能性がある。
 また、事故当時の経済産業省松永和夫事務次官は、おなじく原子力安全・保安院長であった当事、原発の耐震設計の見直しを主導し、津波被害の影響を軽視した指針を策定し(このため、福島原発の津波の想定が低めに設定された)、結果的に、福島原発の惨事を招いた。
 その後両名とも退職したが、退職時の退職金は減額されるどころか増額された。
 注目すべきはこのような大惨事にもかかわらず、官内部から、自らの責任を問い正すことはなかった。自浄作用など全く機能していない。
 驚くべきことに、大多数の国民は、このことに、さして違和感を感じていないようだ。福島第一原発事故は、恰も、隕石が落下した事故であるかの如くである。
 日本は官僚主導により、奇跡といはれる高度成長を遂げた、同時に官僚主導により、バブルを破裂(ハードランディング)させ、護送船団方式で銀行を誘導、支配下におき、金融危機を招いただけでなく、先進国では、はじめて酷いデフレに陥り、いまだにその責め苦から逃れ出ることができないでいる。
 いくらまともな経済政策があったとしても、その遂行をことごとく官僚システムが阻害している、いや、阻害するだけでなく、逆行させている。
 不景気の中の消費増税など言を俟たない。
 「最良の官僚は最悪の政治家となる」というマックス・ウエーバの政治の大定理がある。官僚は、前例や既存の法律に長けても、新しい事態には無力である。
 官僚に、政治をやらせることは、無免許の若者に、大型バスを運転させるようで、危険きわまりない。
 さりとて、官僚に政治を教えることは、サルにバスの運転をさせるよりも難しい。
 幕末の動乱のさ中、身を挺して国を救う気概をみせ、志士の鑑となり、武蔵野の露と消えた吉田松陰。リーダーシップとはなんのことか、官僚には解らないのだ。
 なぜ日本は、マックス・ウエーバの定理を地でいくようなことになってしまったのか、日本人には、どうしても、このことが理解できない。
 官僚支配がこの国に根付いてしまっていて、生得観念になってしまっている。
 その原因を探りあてようにも、自らの立ち位置がわからないため、手がかりさえ掴めないでいる。
 日本人の魂に深く潜り込んでいるからである。これを分析しない限り展望は開けない。
 それは至難の技だ、至難の技だが解明する他ない。

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