2018年12月24日月曜日

建前社会 日本 3

 日本には明治になるまで法律といえば律令だけであった。もともと日本人は法についてあまり関心がなくそれで特段不自由を感じなかった。
 法意識が芽生えたのは明治になってからである。それも国民生活のためではなく条約改正がキッカケであった。
 条約改正のためには明治政府が法に則った裁判が実施できることという条件を外国から突きつけられたからである。

 明治維新後の日本は、革命のメインプレイヤーである薩長による寡頭政治から始まった。
 寡頭政治家は、西欧に倣い選挙を実施した。選挙で選ばれたものが国民を代表し権力も掌握するはずであるがそれは建前にすぎなかった。

 「彼ら(寡頭政治家)の採用した方式が、今日の日本でも権力配分を決定している。当時、世襲制の原則がくずれ、能力評価の原則がとってかわろうとしていた。
 維新の後何年も、寡頭政治とその延長である官界に加わるための重要な資格は、クーデター(明治維新)に発展した運動に参加したか、あるいは薩摩と長州の武士階級出身者だった。
 その後、できればヨーロッパかアメリカで吸収した ”西洋の知識” を持つことが、重要視されるようになった。
 しかし、20世紀が始まる前後には、国を管理し、 ”情報を握る” 階級に入りこむもっとも確実でほとんど唯一の方法は、東大(東京帝国大学)法学部を卒業することだった。 すでに見たように、これは今日においても日本の学校教育の特徴を決定付ける伝統である。」
(カレル・ヴァン・ウォルフレン著篠原勝訳早川書房『日本権力構造の謎 下』)

 日本の戦前・戦中と戦後は断絶されているというのがこれまでの一般的な見方である。
 だがカレル・ヴァン・ウォルフレンはこの見方に異をとなえている。

 「日本は満州事変のすこし前までは歴史的必然としての ”近代化” 路線をたどっていたのであった。
 狂信的な国粋主義者が日本を脱線させるまで、この国は議会や政党など、立派な近代民主主義社会になるための要素をすべて揃えていたというわけだ。
 この見解は近年、学術研究、特にアメリカの歴史学者の研究によって覆された。
 彼らは日本の帝国建設の努力と抑圧は、明治時代の主だった傾向から育った論理的な発展だとした。
 だが、1945年はそれまで考えられていたような分水嶺ではなく、20世紀前半に遡る権威主義的な制度と手法が、現在の日本を形づくるうえで決定的な要因だったと、一部の学者が指摘したのは1980年代になってからのことであった。
 あと知恵の利をもって、さらにもう一歩進めてこう言える。
 1980年代後期の日本の<システム>は、19世紀末から徐々に形成された官僚的および政治的な勢力の統合強化の産物であり、戦争によって促進された統合物である。」(前掲書)

 わが国の権力の行使が法にもとづかないで一部の有力政治家、官僚、経済界などからなるシステムによっているのは19世紀末から徐々に形成された結果である。
 戦前・戦中の軍部および内務省主導による統制経済と戦後の官僚主導による経済システムは同じであるという。
 もしこの説が正しければ日本の支配システムは政治的責任感の発達した市民を育てる環境を阻害したといえる。
 互いに法によって律する人びとを市民と呼ぶならば19世紀末以降日本には自立した市民はいなかったということになる。日本の支配システムが自立した市民の存在を許さなかったのだ。
 これが法による権利の行使を建前だけに終わらせ、実質的には一部の支配層がシステムとして権利をほしいままにしてきた原因にほかならない。
 カレル・ヴァン・ウォルフレンの主張はデータの裏づけがあり論理も首尾一貫している。
 ここまで彼の主張の骨子を見てきたが最後に彼の主張とそれにいたる根拠の是非につき考えてみたい。

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