2018年12月17日月曜日

建前社会 日本 2

 日本社会の権力について建前がいかに現実から乖離しているか、このことをしっかりと腑に落とし込み事実を事実として捉えよう。
 すべての出発点はここにある。ここを間違えれば何を問われても見当違いの答えしかでない。
 憲法第9条は第1項の戦争の放棄につづき第2項に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」とある。
 アメリカの軍事力評価機関『Global Firepower』の2018年調査によれば日本の軍事力は世界136カ国中8位である。『戦力不保持』が現実的でないのは明らかでまず事実を誤認することはない。

 しかしこと権力については具体的に目に見えるものではないだけに事実を正しく認識することは容易ではない。
 カレル・ヴァン・ウォルフレンは、日本では憲法をいただき法が支配する民主主義国ではあるまじき方式で権力が行使されているという。

 「理論上は、公式の政府を形成するために選出された政治家たち(すなわち首相率いる内閣の閣僚たち)だけが、官僚を支配する力をもっている。
 しかし、閣僚たちは長いあいだその力を行使していない。彼らは、民主主義国で彼らの役割とされていること、すなわち、政治的説明責任の中枢を形成する努力をしていない。
 国民の代表である政治家がこれほど無力なのは、ほとんど支持されていないからだ。政治家は充分に信頼されていない。そして、頻繁なスキャンダルも政治家が力をもてない原因となっている。
 政治家は本質的に堕落した拝金主義の利己主義者であるという偽りの現実が、スキャンダルのせいで強調されるのだ。 これらの要因がすべてからみあって、日本の現状の原因となっている。
 つまり、日本ほど大規模かつ高度な経済システムがあれば、国民に利益がもたらされるはずなのに、実際の日本の経済システムはそうした利益をもたらしていないのである。
 だが、中流階級は政治勢力から除外されているため、利益を求めて闘うことができない。
 こうして、日本はうわべだけの民主主義国になっている。そうした構造のなかで多くの『民主主義的』儀式が行なわれ、日本の市民を欺く偽りの現実が維持されている。
 うわべだけの民主主義のなかで実際に機能している権力システムは、『官僚独裁主義』と呼ぶべきものだ。
 日本の独裁主義は特異な現象だ。なぜなら、私のよく知っている他の独裁政治体制とちがって、権力が最終的に一人の人間もしくは一つの集団に集中していないからである。
 日本の政治権力は拡散している。政治権力は、官僚と経済界および政界のエリートの上層部というかなり厚い層に分散している。
 そして、この分散した政治権力が日本の政治システムをつくっているのだが、社会が政治化されているために、人びとは権力がどこから行使されているのか感じとれない。実際、権力はいたるところから行使されているように見える。」
(カレル・ヴァン・ウォルフレン著鈴木主税訳新潮文庫『人間を幸福にしない日本というシステム』)

 法による支配、法による権力の行使ではなく、人脈や金脈など複雑にからみあったシステム全体が自己の都合で権力を行使している。

 「首相や閣僚は国の正式な責任者でありながら、実際には、憲法に定められた権力を行使することすらできない。
 本物の指導性を熱望する政治的指導者は必ず、不信と絶えざるサボタージュという、とらえどころがなくて乗り越えがたい壁にぶつかる。
 日本では誰も明確な支配権を与えられていない。日本では個人も集団も、だれも国のすることに責任を取りはしない。日本における指導力はつねに不完全だといえる。」
(カレル・ヴァン・ウォルフレン著篠原勝訳早川書房『日本権力構造の謎 下』)

 かって昭和天皇が病に臥されたとき国民はいっせいに自粛した。このためこれに関連する生業の人たちは商売あがったりで悲鳴をあげた。
 当時、政治学者の丸山真男は、この現象はいわば自粛の全体主義とでもいうべきもので太平洋戦争に突入した全体主義になぞらえた。
 だれが命令したのかわからないが目にみえないなんともいえない強制力がある。
 それは、昭和天皇の健康を気遣うのではない内面性に欠けた道徳的退廃であり命令者が特定されない無責任体制であると断じた。
 丸山真男の指摘は権力がどこから行使されているのか感じとれないというウォルフレンのそれと符号する。
 民主主義においては権力は法にもとづき執り行われるのが原則である。
 だが、わが国ではこれは建前にすぎず『法による権力行使』は事実上床の上の飾り物にされている。
 では、わが国の権力が法ではなくシステムによって行使されるようになった原因は何か。

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