汎用AIが開発されれば大量の失業者が街にあふれる。汎用AIは人間に代わって仕事するから人間は不要となる。
そういう時代がいずれ訪れると予想する人が欧米を中心に多く、わが国にも少なからずいる。
汎用AIが人の代替をするなど天地がひっくり返るような事件である。それがあたりまえのように語られしかもその時は約30年後だという。
もしそうなれば政府は失業者救済および経済をまわすために有無を言わさずベーシックインカムを導入するだろう。
生産は消費を前提としているが汎用AIに仕事を奪われた失業者は消費するための資力がないからである。
このような時代が訪れれば国民は一握りの汎用AIを所有する資本家と大多数のベーシックインカムだけで生活する人の二極に分かれる。
前者は強大な権力を握るが後者は消費するだけの存在と化す。
このような大きな格差は埋めようがない。格差を緩和するはずのベーシックインカムも焼け石に水である。
本当にこういう時代が訪れるのだろうか。改めて汎用AIについて考えてみたい。
汎用AIとは、特定のものに限定しないであらゆるものに対して自律的に考え、学習し、判断して行動するAIである。
シンギュラリティ仮説をとなえる未来学者レイ・カーツワイルは、AIが自らのプログラムを自分自身で改良するようになると指数関数的に進化を遂げある時点で人間の知能を超えるようになり2045年にはAIが人類の全知能を超える特異点を迎えると予言している。
グーグルを始めとするグローバル企業は汎用AI開発に全力で取り組んでいるという。わが国にもシンギュラリティ仮説を信じている人が少なくはない。
この仮説が成り立つには機械が生命体を超えることが前提である。
素朴に考えてそんなことが可能だろうか。AIといってもしょせんは機械にすぎない。しかも人間がつくったプログラムによって作動している。
他律的な機械がどうやって生命体である人間が持つ自律性を獲得できるのだろう。疑問は尽きない。
「AIに関して、最大の問題点の一つは、『自律性』の概念である。自律ロボットといった言葉がマスコミを飾ることも少なくない。
しかし、もしAIロボットが真に自律的に作動しているなら、その判断の結果については社会的な責任をとることができるはずである。
このあたりを曖昧にしてはならない。正確にいうと、自律性をもつためには『自ら行動のルールを定めることができる』という前提がある。
コンピュータに限らず、あらゆる機械は、その作動ルールを人間の設計者によって厳密に規定されているから、他律系に他ならない。
したがってAIは機械である以上、正確には自律性をもたないのである。」
(西垣通著講談社選書メチェ『AI原論』)
シンギュラリティ仮説を支持する人はなぜか欧米に多い。キリスト教文化にそのようなものを育む土壌があるのだろう。
ユダヤの青年イエスは貧しい人のため危険をかえりみずユダヤ教の改革に身を投じて殉じた。
イエス没後キリスト教はローマ帝国による長い間の弾圧を経て公認宗教となり紀元325年ニケーア公会議ではイエスの神性が決定した。
そして21世紀の今も聖書に書いてあることはそのまま事実であると信じるキリスト教ファンダメンタリストは多い。 なかには高名な科学者もいる。彼らはイエスの神性を信じ彼が起こした奇跡についても当然のごとく信じている。
「『奇跡なんて科学的に起こりえない』と反論する人に、ファンダメンタリストは答えていう。『自然法則なんていったところで、やはり神が作りたまいしものにすぎない。人間が水の上を歩いたとて、神が重力の法則を一時停止させたとすれば、少しもおかしくないではないか』」(小室直樹著徳間書店『日本人のための宗教原論』)
日本人なら屁理屈と思うかもしれないが彼らは大真面目である。
人々の心を深くとらえ動かすのは知的合理性だけでなく情念に働きかける物語である。
「『キリスト教の推進力は感情的なものだった。キリスト教は、正統なる哲学をもってではなく、より強力な神話をもって、力の弱まった支配的神話を打ち倒したのである。
概念よりも神話の方が、素早く、そしてより強烈に打撃を与えるのだ。
人々を動かそうとするのなら、定理を示すのではなく物語を語るべきなのだ』 とドブレは述べている。
神秘的な物語の筆頭は、すでに述べてきたように、十字架刑にかけられたイエスの受難と復活の物語に他ならない。
しかしここで、21世紀の今日、新たな物語が出現していることに注目する必要がある。
端的に言えば、トランス・ヒューマニズム、とくにシンギュラリティ仮説こそ、その一つと見なされるのだ。
AIに通暁したフランスの現代哲学者ジャン=ガブリエル・ガナシアは、シンギュラリティ仮説を『現代のグノーシス神話』だと断じている。」
(西垣通著講談社選書メチェ『AI原論』)
ガナシアが指摘するシンギユラリティ仮説とグノーシス神話の類似点のなかで最も注目すべきことは正確な論理ではなく物語によって人々を説得しようとしている点である。
カルヴァンの予定説によれば救われる人とそうでない人は予め決まっている。
この世の成功者は成功こそ救いが予定されている証に他ならないと考える。特にこの考えは自由の国アメリカではアメリカン・ドリームとして成就した。
この考えに従えば貧しい人は救済を予定されていないことになる。
貧しい人に手をさし伸べ虐げられた人を救うために生まれた宗教が金持ち、成功者のための宗教となってしまった。
だが今やアメリカン・ドリームなど夢幻にすぎず成功者はごく一部に限られる。その他の人は何を信じ何に頼ればよいのか。
「自分たちを救ってくれる『新たな神秘的物語』である。 そして、トランス・ヒューマニストが喧伝するシンギュラリティ仮説は、まさにそういう新たな神話として機能し始めているのである。
『人間より賢いAIがすべてを決めてくれ、効率よく公平な正義をもたらしてくれる』のだから。
シンギュラリティ仮説は表面上、論理実証的な科学論の装いをしているが、実はガナシアが批判するように、人々の情念にはたらきかける物語以外のものではないのだ。
ガナシアは、巨大な予算をつぎこんで汎用AI実現の研究を進めているグローバルなハイテクIT企業に、国家にかわる世界支配の意図を読み取ろうとしている。
それらの国際企業は、『シンギュラリティが到来し、情報技術は自律的に進歩して世界を支配する。がだそれは歴史的必然なのだ』と述べて自らの責任を回避しつつ、ひそかに政治的な支配をもくろんでいる ー そうガナシアは警告するのだ。」(前掲書)
ガナシアはグローバルなハイテクIT企業に悲観的である。 キリスト教文明がヘレニズムと融合し近代文明を創り上げた一方虐げられた人を救うはずの宗教が富めるものを救っているように見えるのは確かだ。
このようにシンギュラリティ仮説は数々の奇跡が語られる聖書と同じく神秘的物語でありこれに惑わされることはない。
AI技術が進むにつれ特定目的の仕事は人からAIに移り、この恩恵に与れる人とそうでない人の間に格差は生ずる。
ラッダイト運動が起きない限り時代とともにベーシックインカムの要請は高くなるはずである。これだけグローバル化した情報化社会ではラッダイト運動は有効な手段とはなり得ない。
ベーシックインカムは、SFの汎用AI社会では焼け石に水であろうが、近未来のAI時代には勤労意欲と格差緩和をもたらす呼び水の役割を果たすであろう。
ガイ・スタンディング教授はじめベーシックインカムに真摯に向きあっている研究者はこのように考えている。
格差縮小のためベーシックインカムを導入するに躊躇する理由はない。消費税増税には山ほどあるが。
2018年7月30日月曜日
2018年7月23日月曜日
AI時代の格差問題 7
わが国のベーシックインカムに対する注目度は欧米に比べて遅れているがこの制度を推奨する研究者はいる。
井上智洋氏はその一人でベーシックインカムの優位性を説いている。
「BI(ベーシックインカム)を社会保障制度の一種として見た場合、それは『普遍主義的社会保障』として位置づけられます。生活保護が『選別主義的社会保障』であるのとは対照的です。
生活保護の諸々の問題点は、それが『選別主義的』であることから生じています。
それに対し、BIは『普遍主義的』であるがゆえに、生活保護の問題点を克服することができます。
BIの給付にあたっては、労働しているかどうか病気であるかどうかは問われません。
金持ちであるか貧乏であるかも関係ありません。
全国民があまねく受給するものだから取りこぼしが無く、誰も屈辱を味わうことがありません。
また、労働しても受給額は減額されないので労働意欲を損ねにくいと考えられます。
BIではまた、貧困の理由が問われることがありません。」(井上智洋著文春新書『人口知能と経済の未来』)
財源は国全体として捉えれば問題はない。コストに関しては生活保護は労働コストがかかるがBIはほとんどかからないという。
「まず、一人あたり月7万円の給付に必要な100兆円は実質的なコストではありません。
というのも、お金は使ってもなくならないからです。私の使ったお金は、他の誰かの所有物となります。
国が使ったお金も誰かの所有物になります。この世から消えてなくなるわけではありません。
この場合、全国民の納めた100兆円が全国民に戻ってくるだけのことです。
一国を一個人や一企業に置き換えて考えないように注意してください。
一個人が使ったお金はその個人から消えてなくなりますが、国全体から消えてなくなるわけではありません。
その点を踏まえないと、BIの持つ効率性を理解することができません。
生活保護のような再分配の場合、選別のための行政コストが掛かります。これは実質的なコストであり、前述したとり、貧困者とそうでない者を選り分けるコストは馬鹿になりません。
一国の経済にとって実質的なコストというのは、お金を使うことではなく労力を費やすことなのです。」(前掲書)
ベーシックインカムは現金を一律に給付するため行政裁量の余地がない。
自動振込みにすれば行政コストもかからない。
富裕層、貧困層を問わず一律に支給するため不公平との指摘もあるがこれは税率によって調整することができる。税率調整は所得が高くなるほど税率を高くする。
もっとも危惧されるのが財源の問題であるが、上のように国全体としては問題がなくかつわが国には事実上財政問題は存在しないのでこの制度施行に何ら支障はない筈である。(わが国に財政問題がないことはこの小論でも幾度か言及してきた)
にもかかわらずわが国ではベーシックインカムの議論が一向に盛りあがらない。
小池百合子都知事が立ち上げた『希望の党』はベーシックインカムを政策公約の一つに掲げたが注目されることもなかった。有権者はこの政策を奇抜で単なる人気取りと見立てまじめに受けとらなかったのだろう。
なぜこういうことになるのか。その答えの一つは現代日本が抱える重篤な病にある。
たとえば消費税増税である。デフレ下にもかかわらず、ここ20年間で3%→5%、5%→8%と2回増税された。
その都度当然のごとくGDPの6割を占める消費が伸びなやみ景気は冷え込みGDPは停滞した。未だにデフレから脱却できず格差も拡大した。
消費税増税のたびに景気が低迷しても与野党を問わず増税を支持するというこの不思議さ。
背後に財務省がいることは心ある識者が指摘するところである。
このような理不尽がまかり通っているのがわが国の消費税増税である。
このような国情ではベーシックインカムについていくら行政コストが省けるとか財政問題はないと叫んだところでこれの実現は ”百年河清をまつ” がごとしであろう。
根本原因は政策にあるのではなく社会的強者が政策を選択する権限を有し、その行使にあたって自分たちの都合を優先しているからである。
明治維新は当時の列強に飲み込まれる危機感が原動力となって歴史的偉業が成し遂げられた。
この時に匹敵する危機が訪れれば事態は変わるであろう。逆にこのような危機が訪れなければベーシックインカムについてまじめに議論されることもないであろう。
危機はいつ訪れるか? そのときは汎用AIが開発され失業者が大量に街にあふれる時であると予想する研究者は多い。
井上智洋氏はその一人でベーシックインカムの優位性を説いている。
「BI(ベーシックインカム)を社会保障制度の一種として見た場合、それは『普遍主義的社会保障』として位置づけられます。生活保護が『選別主義的社会保障』であるのとは対照的です。
生活保護の諸々の問題点は、それが『選別主義的』であることから生じています。
それに対し、BIは『普遍主義的』であるがゆえに、生活保護の問題点を克服することができます。
BIの給付にあたっては、労働しているかどうか病気であるかどうかは問われません。
金持ちであるか貧乏であるかも関係ありません。
全国民があまねく受給するものだから取りこぼしが無く、誰も屈辱を味わうことがありません。
また、労働しても受給額は減額されないので労働意欲を損ねにくいと考えられます。
BIではまた、貧困の理由が問われることがありません。」(井上智洋著文春新書『人口知能と経済の未来』)
財源は国全体として捉えれば問題はない。コストに関しては生活保護は労働コストがかかるがBIはほとんどかからないという。
「まず、一人あたり月7万円の給付に必要な100兆円は実質的なコストではありません。
というのも、お金は使ってもなくならないからです。私の使ったお金は、他の誰かの所有物となります。
国が使ったお金も誰かの所有物になります。この世から消えてなくなるわけではありません。
この場合、全国民の納めた100兆円が全国民に戻ってくるだけのことです。
一国を一個人や一企業に置き換えて考えないように注意してください。
一個人が使ったお金はその個人から消えてなくなりますが、国全体から消えてなくなるわけではありません。
その点を踏まえないと、BIの持つ効率性を理解することができません。
生活保護のような再分配の場合、選別のための行政コストが掛かります。これは実質的なコストであり、前述したとり、貧困者とそうでない者を選り分けるコストは馬鹿になりません。
一国の経済にとって実質的なコストというのは、お金を使うことではなく労力を費やすことなのです。」(前掲書)
ベーシックインカムは現金を一律に給付するため行政裁量の余地がない。
自動振込みにすれば行政コストもかからない。
富裕層、貧困層を問わず一律に支給するため不公平との指摘もあるがこれは税率によって調整することができる。税率調整は所得が高くなるほど税率を高くする。
もっとも危惧されるのが財源の問題であるが、上のように国全体としては問題がなくかつわが国には事実上財政問題は存在しないのでこの制度施行に何ら支障はない筈である。(わが国に財政問題がないことはこの小論でも幾度か言及してきた)
にもかかわらずわが国ではベーシックインカムの議論が一向に盛りあがらない。
小池百合子都知事が立ち上げた『希望の党』はベーシックインカムを政策公約の一つに掲げたが注目されることもなかった。有権者はこの政策を奇抜で単なる人気取りと見立てまじめに受けとらなかったのだろう。
なぜこういうことになるのか。その答えの一つは現代日本が抱える重篤な病にある。
たとえば消費税増税である。デフレ下にもかかわらず、ここ20年間で3%→5%、5%→8%と2回増税された。
その都度当然のごとくGDPの6割を占める消費が伸びなやみ景気は冷え込みGDPは停滞した。未だにデフレから脱却できず格差も拡大した。
消費税増税のたびに景気が低迷しても与野党を問わず増税を支持するというこの不思議さ。
背後に財務省がいることは心ある識者が指摘するところである。
このような理不尽がまかり通っているのがわが国の消費税増税である。
このような国情ではベーシックインカムについていくら行政コストが省けるとか財政問題はないと叫んだところでこれの実現は ”百年河清をまつ” がごとしであろう。
根本原因は政策にあるのではなく社会的強者が政策を選択する権限を有し、その行使にあたって自分たちの都合を優先しているからである。
明治維新は当時の列強に飲み込まれる危機感が原動力となって歴史的偉業が成し遂げられた。
この時に匹敵する危機が訪れれば事態は変わるであろう。逆にこのような危機が訪れなければベーシックインカムについてまじめに議論されることもないであろう。
危機はいつ訪れるか? そのときは汎用AIが開発され失業者が大量に街にあふれる時であると予想する研究者は多い。
2018年7月16日月曜日
AI時代の格差問題 6
わが国はバブル崩壊からデフレとなり20年もの長きにわたり未だそこから脱却できないでいる。
デフレは経済的強者をさらに強くし弱者を一段と弱くする。当然の帰結としてわが国は格差社会になった。
今からおよそ20年前、小渕内閣の諮問に対し経済戦略会議は【日本経済再生への戦略】と題して答申した。
この答申の基本路線を歴代内閣も踏襲したためこれがその後の日本の針路を決定した。
それゆえこの答申の内容を検証すれば自ずから格差縮小への道筋が見えてくるであろう。
なお当時の諮問会議の中心メンバーの一人であった竹中平蔵氏はいまも内閣府の国家戦略特区民間議員として影響力を行使するなど現内閣も基本的に20年前の路線を踏襲している。
同答申のなかで結果的に格差拡大を招くことになった象徴的な一節がある。
「21世紀の日本経済が活力を取り戻すためには、過度に結果の平等を重視する日本型の社会システムを変革し、個々人が創意工夫やチャレンジ精神を最大限に発揮できるような【健全で創造的な競争社会】に再構築する必要がある。
競争社会という言葉は、弱者切り捨てや厳しい生存競争をイメージしがちだが、むしろ結果としては社会全体をより豊かにする手段と解釈する必要がある。
競争を恐れて互いに切磋琢磨することを忘れれば、社会全体が停滞し、弱者救済は不可能になる。
社会全体が豊かさの恩恵に浴するためには、参入機会の平等が確保され、透明かつ適切なルールの下で個人や企業など民間の経済主体が新しいアイデアや独創的な商品・サービスの開発にしのぎを削る「創造性の競争」を促進する環境を作り上げることが重要である。
これまでの日本社会にみられた【頑張っても、頑張らなくても、結果はそれほ ど変わらない】護送船団的な状況が続くならば、いわゆる【モラル・ハザード】(生活保 障があるために怠惰になったり、資源を浪費する行動)が社会全体に蔓延し、経済活力の停滞が続くことは避けられない。
現在の日本経済の低迷の原因の一つはモラルハザードによるものと理解すべきである。
もしそうであるなら、日本人が本来持っている活力、意欲と革新能力を最大限に発揮 させるため、いまこそ過度な規制・保護をベースとした行き過ぎた平等社会に決別し、個々人の自己責任と自助努力をベースとし、民間の自由な発想と活動を喚起することこそが極めて重要である。
しかし、懸命に努力したけれども不運にも競争に勝ち残れなかった人や事業に失敗し た人には、【敗者復活】の道が用意されなければならない。
あるいは、ナショナル・ミニ マム(健康にして文化的な生活)をすべての人に保障することは、【健全で創造的な競争 社会】がうまく機能するための前提条件である。
このようなセーフティ・ネットを充実 することなくして、競争原理のみを振りかざすことに対しては、決して多くの支持は得 られないであろう。
経済戦略会議は、こうした観点から、アングロ・アメリカン・モデルでもヨーロピア ン・モデルでもない、日本独自の【第三の道】ともいうべき活力のある新しい日本社会 の構築を目指すべきであると考える。」
(平成11年2月26日経済戦略会議答申 日本経済再生への戦略第2章『健全で創造的な競争社会』の構築とセーフティ・ネットの整備)
平等より、競争優先。競争によって社会全体が富めばトリクルダウン理論によって弱者も救済される。
規制を撤廃し努力した人が報われる社会を実現する。
自己責任を原則とするが不運にも競争から脱落した人には敗者復活とセ-フティ・ネットを用意する。
このように競争力を強化し全体として繁栄を目指しながらも弱者を置き去りにしないという格調高い目標を掲げている。
・規制緩和により参入障壁が撤廃されデフレが進行した。
・折からグローバル化の波をうけ従業員の賃金はが上がらず安いまま放置された。
・格差が拡大し階級化したため、努力した人が必ず報われる社会ではなくなった。
バランスを欠き格差が拡大した社会は全体としても繁栄ぜず成長は頓挫した。およそこの答申が目指すところと逆の結果になった。
なぜこういうことになったのか。様々な要因が考えられるが一つだけ確かなことがある。
それは社会の弱い立場にある人びとの声が届かないで強者の論理が優先されたからである。現実の政策に社会的強者の意向は反映されたが社会的弱者のそれは反映されることが少なかった。
格差縮小は社会的弱者をいかにして救済するかにかかっている。
過去弱者救済はかけ声だけにおわった。社会的強者の論理がこれを押しつぶしてきたからである。
これを避けるためには弱者を救済するための制度的な裏づけが必要である。それも行政による恣意的な裁量の余地のない制度的な裏づけである。
これに関連しては消費税と生活保護を例にとれば分かりやすい。
日本の消費税は一律に課される。毎月の消費額が収入のごく一部にすぎない富裕層にとっては消費税率が10%になろうが20%になろうが痛痒を感じない。
ところが毎月の消費額が収入の大部分を占める貧困層にとってはたとえ1%や2%の消費税率アップでも家計に大きな負担となる。
ベーシックインカムは消費税と対極にあり上に挙げた理由が真逆になり格差を和らげるように働く。
わが国の消費税に相当する欧州の付加価値税は高率だが贅沢品などが主で食料や日用品などは免除あるいは低率に抑えられているものが多い。結果的に税全体に占める割合に大きな差はない。
弱者に対しわが国の消費税は厳しく欧州の付加価値税はやさしく設計されている。
生活保護については、これを適用するに当たって【資力調査】によって選別されるがこれには多額の行政コストがかかる。さらに選別にあたっては裁量の余地が生まれる。
この結果不正受給者がいる一方で生活保護の受給額以下で放置されたままの人が現れる。
ベーシックインカムは行政コストが殆んどかからず裁量の余地もない。無条件で現金を配るなど一見突飛に見えるがこのように救済弱者の要請に応える制度でもある。
デフレは経済的強者をさらに強くし弱者を一段と弱くする。当然の帰結としてわが国は格差社会になった。
今からおよそ20年前、小渕内閣の諮問に対し経済戦略会議は【日本経済再生への戦略】と題して答申した。
この答申の基本路線を歴代内閣も踏襲したためこれがその後の日本の針路を決定した。
それゆえこの答申の内容を検証すれば自ずから格差縮小への道筋が見えてくるであろう。
なお当時の諮問会議の中心メンバーの一人であった竹中平蔵氏はいまも内閣府の国家戦略特区民間議員として影響力を行使するなど現内閣も基本的に20年前の路線を踏襲している。
同答申のなかで結果的に格差拡大を招くことになった象徴的な一節がある。
「21世紀の日本経済が活力を取り戻すためには、過度に結果の平等を重視する日本型の社会システムを変革し、個々人が創意工夫やチャレンジ精神を最大限に発揮できるような【健全で創造的な競争社会】に再構築する必要がある。
競争社会という言葉は、弱者切り捨てや厳しい生存競争をイメージしがちだが、むしろ結果としては社会全体をより豊かにする手段と解釈する必要がある。
競争を恐れて互いに切磋琢磨することを忘れれば、社会全体が停滞し、弱者救済は不可能になる。
社会全体が豊かさの恩恵に浴するためには、参入機会の平等が確保され、透明かつ適切なルールの下で個人や企業など民間の経済主体が新しいアイデアや独創的な商品・サービスの開発にしのぎを削る「創造性の競争」を促進する環境を作り上げることが重要である。
これまでの日本社会にみられた【頑張っても、頑張らなくても、結果はそれほ ど変わらない】護送船団的な状況が続くならば、いわゆる【モラル・ハザード】(生活保 障があるために怠惰になったり、資源を浪費する行動)が社会全体に蔓延し、経済活力の停滞が続くことは避けられない。
現在の日本経済の低迷の原因の一つはモラルハザードによるものと理解すべきである。
もしそうであるなら、日本人が本来持っている活力、意欲と革新能力を最大限に発揮 させるため、いまこそ過度な規制・保護をベースとした行き過ぎた平等社会に決別し、個々人の自己責任と自助努力をベースとし、民間の自由な発想と活動を喚起することこそが極めて重要である。
しかし、懸命に努力したけれども不運にも競争に勝ち残れなかった人や事業に失敗し た人には、【敗者復活】の道が用意されなければならない。
あるいは、ナショナル・ミニ マム(健康にして文化的な生活)をすべての人に保障することは、【健全で創造的な競争 社会】がうまく機能するための前提条件である。
このようなセーフティ・ネットを充実 することなくして、競争原理のみを振りかざすことに対しては、決して多くの支持は得 られないであろう。
経済戦略会議は、こうした観点から、アングロ・アメリカン・モデルでもヨーロピア ン・モデルでもない、日本独自の【第三の道】ともいうべき活力のある新しい日本社会 の構築を目指すべきであると考える。」
(平成11年2月26日経済戦略会議答申 日本経済再生への戦略第2章『健全で創造的な競争社会』の構築とセーフティ・ネットの整備)
平等より、競争優先。競争によって社会全体が富めばトリクルダウン理論によって弱者も救済される。
規制を撤廃し努力した人が報われる社会を実現する。
自己責任を原則とするが不運にも競争から脱落した人には敗者復活とセ-フティ・ネットを用意する。
このように競争力を強化し全体として繁栄を目指しながらも弱者を置き去りにしないという格調高い目標を掲げている。
当時支配的であった新自由主義的発想である。掲げた目標は理想に近いが現実はこうならなかった。
・トリクルダウン理論は機能せず、弱者は放置された。・規制緩和により参入障壁が撤廃されデフレが進行した。
・折からグローバル化の波をうけ従業員の賃金はが上がらず安いまま放置された。
・格差が拡大し階級化したため、努力した人が必ず報われる社会ではなくなった。
・生活保護を受けるに値する世帯全体のうち受給できている人は15%にすぎない。これでは健康で文化的な生活をうける権利が満たされているとはいい難くセーフティ・ネットは充実しなかった。
なぜこういうことになったのか。様々な要因が考えられるが一つだけ確かなことがある。
それは社会の弱い立場にある人びとの声が届かないで強者の論理が優先されたからである。現実の政策に社会的強者の意向は反映されたが社会的弱者のそれは反映されることが少なかった。
格差縮小は社会的弱者をいかにして救済するかにかかっている。
過去弱者救済はかけ声だけにおわった。社会的強者の論理がこれを押しつぶしてきたからである。
これを避けるためには弱者を救済するための制度的な裏づけが必要である。それも行政による恣意的な裁量の余地のない制度的な裏づけである。
これに関連しては消費税と生活保護を例にとれば分かりやすい。
日本の消費税は一律に課される。毎月の消費額が収入のごく一部にすぎない富裕層にとっては消費税率が10%になろうが20%になろうが痛痒を感じない。
ところが毎月の消費額が収入の大部分を占める貧困層にとってはたとえ1%や2%の消費税率アップでも家計に大きな負担となる。
ベーシックインカムは消費税と対極にあり上に挙げた理由が真逆になり格差を和らげるように働く。
わが国の消費税に相当する欧州の付加価値税は高率だが贅沢品などが主で食料や日用品などは免除あるいは低率に抑えられているものが多い。結果的に税全体に占める割合に大きな差はない。
弱者に対しわが国の消費税は厳しく欧州の付加価値税はやさしく設計されている。
生活保護については、これを適用するに当たって【資力調査】によって選別されるがこれには多額の行政コストがかかる。さらに選別にあたっては裁量の余地が生まれる。
この結果不正受給者がいる一方で生活保護の受給額以下で放置されたままの人が現れる。
ベーシックインカムは行政コストが殆んどかからず裁量の余地もない。無条件で現金を配るなど一見突飛に見えるがこのように救済弱者の要請に応える制度でもある。
2018年7月9日月曜日
AI時代の格差問題 5
1970年代以降主要国の格差は拡大傾向にある。わが国の格差の度合いは主要国のなかで英米より小さく大陸欧州諸国より大きい。(下図)
かって戦前の日本は、先進国のどの国よりも格差が大きい社会であった。ところが戦後高度成長期には一転して「一億総中流」といわれるほどどの国よりも格差が小さい社会となった。
だがその後新自由主義の台頭とともに格差は再び拡大した。
日本の格差は、戦前は一部富裕層、現在は一部貧困層がそれぞれ突出しているのがその特徴である。
格差が社会に悪影響をおよぼすのは自明の理である。格差の主な原因は自然発生的に生じたものではなく社会的強者による人為的なものである。
来るべき本格的AI時代にそなえるためにも格差を克服すべく必要な対策をとらなければならない。
長い間日本の格差問題に取り組んでいる社会学者の橋本健二氏は、日本は「格差社会」などという生ぬるいものではなく今や「階級社会」としての性格を強めているという。
同氏は、現代日本を、資本家階級、新中間階級、正規労働者、旧中間階級、アンダークラスの5つの階級に分類し、SSM調査データ(社会学者の研究グループが1955年から10年ごとに行う社会階層と社会移動全国調査)と2016年首都圏調査データ(橋本氏中心の研究グループによる調査)を分析してこのような結論に至った。
「格差拡大はさまざまな弊害をもたらすがとりわけ深刻なことは、アンダークラスを中心とする厖大な数の貧困層を生み出すこと、社会的コストが増大すること、そして格差の固定化からさらに多くの社会的損失がうまれることである。
① アンダークラスと貧困層の問題
アンダークラスと貧困層は生存権を保障されないばかりか、主に経済的理由から結婚して家族を形成する機会さえ得られない。
こういう人権を十分に保障されないこと自体が問題である。
② 社会的コストの増大
格差が大きい社会は人びとの連帯感を失くした病んだ社会となる。病んだ社会では犯罪が増加し安全が脅かされる。
アンダークラスの人たちは税を払うことないばかりか逆にこの人たちのために要する社会保障費が増大する。
③ 格差の固定化と社会的損失
格差が拡大すると固定化しやすくなる。格差が固定化すると一部の子どもたちが教育を受ける機会が奪われるという人権上の問題がある。
さらに教育を受ける機会が奪われる子どもたちがいるということは、適切な教育さえ受ければ花開いたはずの多くの才能が、貧困のために埋もれていくということである。
これは、莫大な人的資源の損失である。」
(橋本健二著講談社現代新書『新・日本の階級社会』から)
弊害をもたらす格差は是正しなければならない。だがこれには大きな障害がありその最たるものは自己責任論である。 これには二つの問題があるという。
「第一に、人が自己責任を問われるのは、自分に選択する余地があり、またその選択と結果の間に明確な因果関係がある場合に限られるべきだということである。」(前掲書)
たとえば死別した多くの女性が非正規雇用の働き口しかなくアンダークラスに陥ったり、会社が倒産したため失業したなどはその典型で本人にとっては不可抗力で自己責任とはいい難い。
自己責任論は格差社会の克服を妨げる強力なイデオロギーであり、社会的強者だけでなく貧困に陥った社会的弱者までもがこれに縛られ声を発しにくい状況になっていることが上の調査データから読み取れる。
「第二に、こうした自己責任論は、貧困を生みやすい社会のしくみと、こうような社会のしくみを作り出し、また放置してきた人々を免罪しようとするものである。
貧困を自己責任に帰すことによって、非正規雇用を拡大させ、低賃金の労働者を増加させてきた企業の責任、低賃金労働者の増大を防ぎ、貧困の増大を食い止めるための対策を怠ってきた政府の責任は不問に付されることになる。
自己責任論は、本来は責任をとるべき人々を責任から解放し、これを責任のない人々に押しつけるものである。」(前掲書)
”格差を解消するには正規社員をなくしすべて非正規社員にすればいい” などという暴論の背景にはこのような責任のすり替えがある。
問題の本筋は責任を転嫁することではなく主にアンダークラスと貧困層対策により格差をいかにして縮小するかである。日本型格差の特徴が貧困層の突出にあるからである。
かって戦前の日本は、先進国のどの国よりも格差が大きい社会であった。ところが戦後高度成長期には一転して「一億総中流」といわれるほどどの国よりも格差が小さい社会となった。
だがその後新自由主義の台頭とともに格差は再び拡大した。
日本の格差は、戦前は一部富裕層、現在は一部貧困層がそれぞれ突出しているのがその特徴である。
格差が社会に悪影響をおよぼすのは自明の理である。格差の主な原因は自然発生的に生じたものではなく社会的強者による人為的なものである。
来るべき本格的AI時代にそなえるためにも格差を克服すべく必要な対策をとらなければならない。
長い間日本の格差問題に取り組んでいる社会学者の橋本健二氏は、日本は「格差社会」などという生ぬるいものではなく今や「階級社会」としての性格を強めているという。
同氏は、現代日本を、資本家階級、新中間階級、正規労働者、旧中間階級、アンダークラスの5つの階級に分類し、SSM調査データ(社会学者の研究グループが1955年から10年ごとに行う社会階層と社会移動全国調査)と2016年首都圏調査データ(橋本氏中心の研究グループによる調査)を分析してこのような結論に至った。
「格差拡大はさまざまな弊害をもたらすがとりわけ深刻なことは、アンダークラスを中心とする厖大な数の貧困層を生み出すこと、社会的コストが増大すること、そして格差の固定化からさらに多くの社会的損失がうまれることである。
① アンダークラスと貧困層の問題
アンダークラスと貧困層は生存権を保障されないばかりか、主に経済的理由から結婚して家族を形成する機会さえ得られない。
こういう人権を十分に保障されないこと自体が問題である。
② 社会的コストの増大
格差が大きい社会は人びとの連帯感を失くした病んだ社会となる。病んだ社会では犯罪が増加し安全が脅かされる。
アンダークラスの人たちは税を払うことないばかりか逆にこの人たちのために要する社会保障費が増大する。
③ 格差の固定化と社会的損失
格差が拡大すると固定化しやすくなる。格差が固定化すると一部の子どもたちが教育を受ける機会が奪われるという人権上の問題がある。
さらに教育を受ける機会が奪われる子どもたちがいるということは、適切な教育さえ受ければ花開いたはずの多くの才能が、貧困のために埋もれていくということである。
これは、莫大な人的資源の損失である。」
(橋本健二著講談社現代新書『新・日本の階級社会』から)
弊害をもたらす格差は是正しなければならない。だがこれには大きな障害がありその最たるものは自己責任論である。 これには二つの問題があるという。
「第一に、人が自己責任を問われるのは、自分に選択する余地があり、またその選択と結果の間に明確な因果関係がある場合に限られるべきだということである。」(前掲書)
たとえば死別した多くの女性が非正規雇用の働き口しかなくアンダークラスに陥ったり、会社が倒産したため失業したなどはその典型で本人にとっては不可抗力で自己責任とはいい難い。
自己責任論は格差社会の克服を妨げる強力なイデオロギーであり、社会的強者だけでなく貧困に陥った社会的弱者までもがこれに縛られ声を発しにくい状況になっていることが上の調査データから読み取れる。
「第二に、こうした自己責任論は、貧困を生みやすい社会のしくみと、こうような社会のしくみを作り出し、また放置してきた人々を免罪しようとするものである。
貧困を自己責任に帰すことによって、非正規雇用を拡大させ、低賃金の労働者を増加させてきた企業の責任、低賃金労働者の増大を防ぎ、貧困の増大を食い止めるための対策を怠ってきた政府の責任は不問に付されることになる。
自己責任論は、本来は責任をとるべき人々を責任から解放し、これを責任のない人々に押しつけるものである。」(前掲書)
”格差を解消するには正規社員をなくしすべて非正規社員にすればいい” などという暴論の背景にはこのような責任のすり替えがある。
問題の本筋は責任を転嫁することではなく主にアンダークラスと貧困層対策により格差をいかにして縮小するかである。日本型格差の特徴が貧困層の突出にあるからである。
2018年7月2日月曜日
AI時代の格差問題 4
政府がすべての国民一人一人に無条件で一定の時期に一定の現金を生涯にわたって支給するというベーシックインカムがAI時代の有力な格差対策として議論されている。
ベーシックインカムは格差を是正するように働くため本格的なAI時代に先駆けてすでに導入を試みている国がある。
フィンランド、インド、オランダ、アメリカ、カナダ、イタリア、ケニア、ウガンダなどではすでに対象を限定したベーシックインカムの実験が行われている。
ベーシックインカムにも当然のごとく立場の違いなどから賛否両論がある。多くの議論があるが重要なことは限られる。
反対する人たちが最も心配するのは財源と勤労意欲の問題(何もしなくてもお金が貰えるので人びとが働かなくなるのではないか)である。
賛成する人たちが熱心に推奨している根拠はこの制度が格差を是正し人びとを経済的制約から開放して自由にすることにあるという。
それぞれについて検証してみよう。
1 財源の問題
この制度は混乱をさけるために小額からスタートして順次様子をみながら増額するという方法が有力である。
それにしても仮に生活のために必要最低限と思われる月7万円としても100兆円もの予算が必要との試算がある。政府にはそんな金額は捻出できないという。
だがこれは他の予算は現状のままというのが議論の前提となっている。
税制、補助金、不労所得の見直しなど財源を捻出できるか否かは結局のところ政治判断の問題であろう。
2 勤労意欲
ベーシックインカムによって勤労意欲はむしろ高まると推進派の代表的論客ロンドン大学のガイ・スタンディング教授は言う。
「2016年6月にスイスでベーシックインカム導入の是非をめぐる国民投票が実施される前、ある世論調査で、もし給付金を受け取れるようになったら経済活動をやめるかと尋ねた。
そのとき俎上に上がっていた給付額は、1人あたり月額2500スイスフラン。ほとんどの人が『快適』に生活できると感じる金額だ。
この世論調査に対し、経済活動をやめると答えた人はわずか2%だった。【回答者の3人に1人は、ほかの人たちはやめるだろうと答えた】。
半分以上の人は、ベーシックインカムの支給が始まれば、スキルを身につけるためのトレーニングを受けたいと答えた。
独立して自分のビジネスを始めたいと答えた人も2割以上いた。
40%は、ボランティア活動を始めたい、あるいは増やしたいと言い、53%は、家族と過ごす時間を増やすつもりだと述べた。
ベーシックインカムは、人々が何もせずに怠惰に過ごすためのお金を配る制度ではなく、『やりたいこと』と『できること』をする自由を与えるための制度なのだ。」
(ガイ・スタンディング著池村千秋訳プレジデント社『ベーシック・インカムへの道』)
この調査で興味深いのは、ベーシックインカムの支給が始まれば自分自身は経済活動は止めないがほかの人は止めるだろう回答していることである。みんなは怠け者だが自分は違うと思っているようだ。
このことから勤労意欲減退説は思惑が優先し実態と乖離している可能性がある。
3 経済的制約からの開放
ガイ・スタンディング教授はベーシックインカムは人びとから経済的不安を取り除き以下の現実的自由を与えるという。
・ 困難だったり、退屈だったり、薄給だったり、不快だったりする仕事に就かない自由
・ 経済的に困窮している状況では選べないような仕事に就く自由
・ 賃金が減ったり、不安定したりしても、いまの仕事を続ける自由
・ ハイリスク・ハイリターンの小規模ベンチャーを始める自由
・ 経済的事情で長時間の有給労働をせざるをえない場合には難しい、家族や友人のためのケアワークやコミュニティのボランティア活動に携わる自由
・ 創造的な活動や仕事に取り組む自由
・ 新しいスキルや技能を学ぶことに時間を費やすというリスクを負う自由
・ 官僚機構から干渉、監視、強制されない自由
・ 経済的な安定を欠く相手と交際し、その人と『家族』を築く自由
・ 愛情を感じられなくなったり、虐待されたりする相手との関係を終わらせる自由
・ 子どもを持つ自由
・ ときどき怠惰に過ごす自由
お金の心配がなければこのような自由が得られる。お金の制約があるからこれらの自由を拘束されている。
これはあたかも現在の富裕層が謳歌しているような自由である。すべての人がこうなるとは思えないがベーシックインカムがこのような自由により近づく働きをすることは確かだろう。
格差の原因が社会的強者による政治主導に由来するものであればこれの是正もまた政治主導でなされなければならない。
ガイ・スタンディング教授は力説する。「よい社会は最も弱い人の立場から考えなければならない。ベーシックインカムが人びとを開放する価値は経済的価値よりも高い」(2018年ダボス会議)
行過ぎた格差社会への警鐘でもある。
次にわが国の現状と今後について考えてみたい。
ベーシックインカムは格差を是正するように働くため本格的なAI時代に先駆けてすでに導入を試みている国がある。
フィンランド、インド、オランダ、アメリカ、カナダ、イタリア、ケニア、ウガンダなどではすでに対象を限定したベーシックインカムの実験が行われている。
ベーシックインカムにも当然のごとく立場の違いなどから賛否両論がある。多くの議論があるが重要なことは限られる。
反対する人たちが最も心配するのは財源と勤労意欲の問題(何もしなくてもお金が貰えるので人びとが働かなくなるのではないか)である。
賛成する人たちが熱心に推奨している根拠はこの制度が格差を是正し人びとを経済的制約から開放して自由にすることにあるという。
それぞれについて検証してみよう。
1 財源の問題
この制度は混乱をさけるために小額からスタートして順次様子をみながら増額するという方法が有力である。
それにしても仮に生活のために必要最低限と思われる月7万円としても100兆円もの予算が必要との試算がある。政府にはそんな金額は捻出できないという。
だがこれは他の予算は現状のままというのが議論の前提となっている。
税制、補助金、不労所得の見直しなど財源を捻出できるか否かは結局のところ政治判断の問題であろう。
2 勤労意欲
ベーシックインカムによって勤労意欲はむしろ高まると推進派の代表的論客ロンドン大学のガイ・スタンディング教授は言う。
「2016年6月にスイスでベーシックインカム導入の是非をめぐる国民投票が実施される前、ある世論調査で、もし給付金を受け取れるようになったら経済活動をやめるかと尋ねた。
そのとき俎上に上がっていた給付額は、1人あたり月額2500スイスフラン。ほとんどの人が『快適』に生活できると感じる金額だ。
この世論調査に対し、経済活動をやめると答えた人はわずか2%だった。【回答者の3人に1人は、ほかの人たちはやめるだろうと答えた】。
半分以上の人は、ベーシックインカムの支給が始まれば、スキルを身につけるためのトレーニングを受けたいと答えた。
独立して自分のビジネスを始めたいと答えた人も2割以上いた。
40%は、ボランティア活動を始めたい、あるいは増やしたいと言い、53%は、家族と過ごす時間を増やすつもりだと述べた。
ベーシックインカムは、人々が何もせずに怠惰に過ごすためのお金を配る制度ではなく、『やりたいこと』と『できること』をする自由を与えるための制度なのだ。」
(ガイ・スタンディング著池村千秋訳プレジデント社『ベーシック・インカムへの道』)
この調査で興味深いのは、ベーシックインカムの支給が始まれば自分自身は経済活動は止めないがほかの人は止めるだろう回答していることである。みんなは怠け者だが自分は違うと思っているようだ。
このことから勤労意欲減退説は思惑が優先し実態と乖離している可能性がある。
3 経済的制約からの開放
ガイ・スタンディング教授はベーシックインカムは人びとから経済的不安を取り除き以下の現実的自由を与えるという。
・ 困難だったり、退屈だったり、薄給だったり、不快だったりする仕事に就かない自由
・ 経済的に困窮している状況では選べないような仕事に就く自由
・ 賃金が減ったり、不安定したりしても、いまの仕事を続ける自由
・ ハイリスク・ハイリターンの小規模ベンチャーを始める自由
・ 経済的事情で長時間の有給労働をせざるをえない場合には難しい、家族や友人のためのケアワークやコミュニティのボランティア活動に携わる自由
・ 創造的な活動や仕事に取り組む自由
・ 新しいスキルや技能を学ぶことに時間を費やすというリスクを負う自由
・ 官僚機構から干渉、監視、強制されない自由
・ 経済的な安定を欠く相手と交際し、その人と『家族』を築く自由
・ 愛情を感じられなくなったり、虐待されたりする相手との関係を終わらせる自由
・ 子どもを持つ自由
・ ときどき怠惰に過ごす自由
お金の心配がなければこのような自由が得られる。お金の制約があるからこれらの自由を拘束されている。
これはあたかも現在の富裕層が謳歌しているような自由である。すべての人がこうなるとは思えないがベーシックインカムがこのような自由により近づく働きをすることは確かだろう。
格差の原因が社会的強者による政治主導に由来するものであればこれの是正もまた政治主導でなされなければならない。
ガイ・スタンディング教授は力説する。「よい社会は最も弱い人の立場から考えなければならない。ベーシックインカムが人びとを開放する価値は経済的価値よりも高い」(2018年ダボス会議)
行過ぎた格差社会への警鐘でもある。
次にわが国の現状と今後について考えてみたい。