「見よ、わたしはヨルダンから、日の入る方、大海までの、このもろもろの残っている国々と、すでにわたしが滅ぼし去ったすべての国々を、くじをもって、あなたがたに分け与え、あなたがたの各部族の嗣業とさせた。」
「あなた方の前から、その国民を打ち払い、あなたがたの目の前から追い払われるのは、あなた方の神、主である。
そしてあなた方の神、主が約束されたように、あなたがたは彼らの地を獲るであろう。」
(旧約聖書『ヨシュア記』第23章4~5項 口語訳 日本聖書協会)
これはモーゼの後継者である年老いたヨシュアがイスラエル人を前に語った言葉である。
敷衍すれば、
ヨルダン川西のカナンの地の異教徒を皆殺しにし、その土地をクジによって各部族に相続として与えた。
異教徒を皆殺しにしたのは神の命令による聖戦であり、彼らの地を相続として与えたのは神との約束による。
ヨシュア記には残酷な様子がこれでもかこれでもかと記述されている。
アイとエリコの占領時には、神は男のみならず女子供にいたるまで皆殺しの段取りをこと細かに指示している。
「神を愛せよ。隣人を愛せよ。敵を愛せよ」といった同じ神が、「カナン人を剣にかけて滅ぼせ」と言う。
矛盾しているようだがキリスト教徒にとっては少しも矛盾していない。
どちらも神の命令だからである。神の命令は絶対でこれに背くことなどできない。
異教徒に対する神の教えはかくの如くである。聖書の世界だけでなく近代におけるキリスト教徒による未開社会の原住民虐殺の歴史はつとに知られている。
彼らの定義にしたがえば異教徒は人間ではなく皆殺しにしても一向にさしつかえなかった。
旧約聖書は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教それぞれの宗教の母体である。旧約聖書に続いてそれぞれタルムード、新約、コーランを正典としている。
旧約聖書の教義は時代が変わろうが不変である。時代がすすめば宗教を支える行動様式も洗練されるかもしれないが根っこの部分は変わらない。
神の命令は絶対であり、人間が判断する余地はゼロ。正しかろうが正しくなかろうが神が決めたことに逆らえないし逆らうこともしない。
これが敬虔なユダヤ教徒、クリスチャン、ムスリムの生き方である。
日本人の神に対する接し方はこれと180度異なる。人間が神の命令に従うというより人間の都合で神を利用しようとする。
合格できますように、就職できますように、結婚できますように、など神より人間優先である。
旧約聖書を母体とする宗教が今や全世界を覆いつくさんばかりの勢いである。宗教の世界で希有な存在である日本人の生き方が問われている。
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