2018年1月21日日曜日

イエスの実像 1

 日本人は一神教に馴染みがない。キリスト教は比較的近くに感じるもののユダヤ教となると遠い存在に思える。1日5回も聖地に向かって礼拝するイスラム教となるとさらに遠い。
 一神教間には血なまぐさい歴史がある。聖地エルサレムをめぐるユダヤ教とキリスト教およびイスラム教とキリスト教の戦いの歴史である。これら一神教の間には今なお世界各地で紛争の種となっている。

 多神教に近い日本人は一神教間の争いがなかなか理解できない。理解できないから捨て置いてすむ問題でもない。
 世界は一神教であるキリスト教に根ざす文明に覆われている。
 近代法、民主主義、資本主義、どれをとってもキリスト教文明と無縁のもにはない。というよりキリスト教文明なしには生まれなかったであろうものばかりである。
 したがって現代文明を理解するにはキリスト教を理解する必要がある。これなしには近代法も民主主義も資本主義も真に理解したことにはならない。真に理解しなければ道を誤る。
 キリスト教を理解するにあたってまずイエスを知らなければならないが、そのためには2000年前に遡る必要がある。
 多くの不確かなことや疑問点にも拘わらず大胆にもイエスの実像にせまった人はいる。クリスチャンからムスリムに転向したアメリカ人のレーザー・アスランもその一人である。
 彼によれば、ナザレのイエスは多くのナザレ人と同じく無学で仕事は日雇いの大工職人でありかつ当時ありふれた職業の一つの祈祷師でもあったという。
 当時の祈祷師は報酬を得る職業であったがイエスはこれを無報酬でおこなった。
 イエスはローマ帝国によるユダヤ支配およびローマに加担するユダヤの支配階級・祭司に反抗する革命家の一人であった。
 イエスは自分がメシア(預言者、救世主)であることを隠しローマ軍がいる主要都市を避け地方で人びとに説教した。
 イエスが脚光を浴びたのは時至れりとエルサレムに乗り込んでからである。

 「『ナザレのイエス』の生涯について、数えきれないほど多くある戯曲、映画、絵画、日曜日の説教などで取り上げられてきた物語の中で、イエスとはどんな人物で、その存在は何を意味していたのかを言葉や行為以上に如実に垣間見させてくれるエピソードがある。
 それは、イエスの宣教活動中に起きた数少ない事件の一つで、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの正典福音書のどれにも述べられていることから、ある程度まで史的事実であったと想定される。(中略)
 イエスの短い生涯の中で、この一瞬ほど、彼の使命、彼の神学、行動の動機、ユダヤ人権威筋やユダヤ教全般との関係、ローマの占領に対する彼の姿勢を明確に示唆しているものはないであろう。
 なんと言っても、このたった一つの出来事が、ガリラヤの低地丘陵地帯出身の素朴な無学者が、既成制度に大きな脅威であると見られ、目をつけられて逮捕され、拷問を受けたあげく、処刑された理由を説明してくれるのだ。」
(レーザー・アスラン著白須英子訳文藝春秋社『イエス・キリストは実在したか?』)

 そのエピソードはイエスがエルサレムに入城してから起こった。

 「彼の弟子たちと、おそらくイエスを褒め讃えながらつき従う群衆もいっしょに、イエスは『異邦人の庭』と呼ばれる神殿の境内に入り、そこを『浄化』し始めた。
 かっとなったイエスは両替商のテーブルをひっくり返し、安い食べ物や土産物を売る露天商を追い払った。
 彼は生贄用に用意されていた羊などの家畜を放し、鳩の籠を開けて鳥たちを空に逃がした。
 『こういうものはみな、取っ払え!』と叫びながら。
 それから彼は弟子たちに手伝わせて、神殿内にこれ以上、商品を持ち込むのを禁止するために、境内への入り口を封鎖した。
 やがて、露天商、参拝人、司祭や物見高い見物人たちが大挙して、持ち主に追われて驚いて逃げ惑うパニック状態の動物のように、瓦礫や排泄物をかき分け、いくつもある神殿の門から走り出て、すでに身動きもままならないエルサレムの街路へと急ぐ間に、ローマ軍の警備隊と重装備の神殿守備隊が境内に急行して、この騒乱を起こした者を片っ端から逮捕しようと監視の目を光らせた。
 イエスはそこに超然と立ち、福音書によれば、落ち着いた様子で、辺りの喧騒をものともせず、『こう書いてある。【わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである】。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている』と叫んだ。」(前掲書)

 イエスがかっとなって振る舞ったこのエピソードが本当であれば革命児としてのイエスの実像の一端を窺い知ることができる。
 すくなくとも四つの福音書が足並みをそろえて述べているところをみると蓋然性は高い。

 このエピソードでもっとも象徴的なことはイエスが発した【わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである】であろう。 イエスの実像のみでキリスト教を理解するのは容易でないがこの言葉はキリスト教の真理を理解するための補助線となる。

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