当時の経済学の主流は古典派経済学の「自由放任主義」であった。
そのため世界恐慌も一時的な反動であり下手に公債を発行すればインフレを誘発するから成りゆきにまかせるべきという思想が支配的であった。
秀才の誉れ高い井上蔵相は模範解答よろしくこれを忠実に実行した。不運なことに第一次世界大戦後、金本位制が行き詰まり世界恐慌がこれに追い討ちをかけた。それにもかかわらずこの現実を正しく認識せず金解禁に踏み切り、その結果大量の金流出と物価下落を招き「嵐に向かって窓を開けた」と言われた。
緊縮政策に耐えればいずれ景気が上向くだろうとの予想に反し不況は益々深刻の度を増し農村や中小企業の疲弊は極度に達した。農家は借金地獄に陥り、街には失業者があふれた。
政府の指導もこれあり国民はこぞって倹約に努めたが景気は一向によくならない。政治家も役人も学者もみんな首を傾げた。どうしてなのか理由がさっぱり分からない。万事休し途方に暮れた。
だが歴史上にっちもさっちもいかなくなると時として白馬の救世主が現れることがある。
高橋是清その容貌から「ダルマさん」と親しみをもって呼ばれたこの人物がその役割を担って現れた、というより請われて現れた。
困ったときの「ダルマさん」頼みで、当時4度目の蔵相就任である。生涯では6度就任している。
彼は経済理論より現実の産業の発展、国民生活の向上を最優先した。
蔵相就任後ただちに金輸出禁止、兌換停止(紙幣と金の交換停止)を実行した。さらにそれまでの緊縮政策をかなぐり捨てリフレーション政策に切り替えた。
「昭和7年夏の臨時議会で、一挙に財政支出の増額に踏み切った。
満州事変の影響のもとで軍事費は昭和6年の8700万円から2億5000万円にふくれ上がり、血盟団事件や5.15事件の底流にあった農山漁村の救済のために予算は一挙に膨張して、昭和6年の14億9000万円から19億5000万円になった。
その膨張はすべて公債の発行によってまかなわれねばならなかった。その公債のすべてを、いったん日本銀行が引き受けて、金融市場の余裕のある時期に、民間に売りわたす、日銀引受発行である。
これは当時欠乏しきっていた資金を民間に流し、政府の必要とする財源を確保し、市中金利を引き下げるという『一石三鳥の妙手』(深井英五)であった。」
(中村隆英著講談社学術文庫『昭和恐慌と経済政策』)
財政拡大、金融緩和、金輸出禁止、為替レート安定、これら一連の施策により日本経済は息絶え絶えの状態から輸出ならびに国内景気が回復し他国に先駆けデフレ脱出に成功した。
高橋是清は随想禄でこう述べている。
「緊縮という問題を論ずるに当たっては、まず国の経済と個人経済との区別を明らかにせねばならぬ。
例えばここに一年五万円の生活をする余力のある人が、倹約して三万円をもって生活し、あと二万円はこれを貯蓄する事とすれば、その人の個人経済は、毎年それだけ蓄財が増えて行って誠に結構な事であるが、これを国の経済の上から見る時は、その倹約によって、これまでその人が消費しておった二万円だけは、どこかに物資の需要が減る訳であって、国家の生産力はそれだけ低下する事となる。
故に国の経済より見れば、五万円の生活をする余裕ある人には、それだけの生活をしてもらった方がよいのである。
さらに一層砕けて言うならば、仮にある人が待合行って、芸者を招んだり、ぜいたくな料理を食べたりして二千円を消費したとする。
これは風紀道徳の上からいえば、そうした使い方をしてもらいたくは無いけれども、仮に使ったとして、この使われた金はどういう風に散らばって行くかというのに、料理代となった部分は料理人等の給料の一部分となり、又料理に使われた魚類、肉類、野菜類、調味品等の代価及びそれ等の運搬費並びに商人の稼ぎ料として支払われる。
この分は、すなわちそれだけ、農業者、漁業者その他の生産業者の懐を潤すものである。
しかしてこれ等の代金を受け取りたる農業者や、漁業者、商人等は、それをもって各自の衣食住その他の費用に充てる。
それから芸者代として支払われた金は、その一部は芸者の手に渡って、食料、納税、衣服、化粧品、その他の代償として支出せられる。
すなわち今この人が待合へ行くことを止めて、二千円を節約したとすれば、この人個人にとりては二千円の貯蓄が出来、銀行の預金が増えるあろうが、その金の効果は二千円を出でない。
しかるに、この人が待合で使ったとすれば、その金は転々して、農、工、商、漁業者等の手に移り、それがまた諸般産業の上に、二十倍にも、三十倍にもなって働く」(鈴木隆著文藝新書『高橋是清と井上準之助』)
デフレ時の緊縮財政は禁断の政策である。この昭和恐慌が残した教訓を無にするほどわれわれは愚かであるとは思いたくない。さて現実はどうか。
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