2017年12月4日月曜日

デフレの怖さ 4

 昭和恐慌で最も被害を蒙ったのは農業であった。生糸の最大の輸出先アメリカの不況で価格は暴落し、輸出は激減した。これにより養蚕農家は壊滅的な打撃を受けた。都市近郊農家は不況で野菜価格が暴落し収入の途を絶たれた。
 物の値段は安くなるがそれにもまして収入が減る。失業者も続出し惨状は目を覆うばかりとなった。デフレスパイラルは経済的弱者を容赦なく叩きのめした。

 「土木事業や、日雇いなど副業収入が減少した。紡績や製糸の不況のために、娘の工場への出稼ぎもできなくなった。そのために農家は赤字になるものが多く、負債も激増していったのである。
 昭和4年現在についての調査によると、一戸当たりほぼ800~900円の負債があったといわれており、そのかなりの部分が頼母子講や高利貸しからの借金である。
 借金に苦しみぬいた農家は娘を遊里に身売りーーー数百円の前借金で年季奉公させるほどの苦境に追い込まれるものも多かった。
 それとともに弁当をもたない学童や、長期欠席の児童など、農家の窮乏はまことに激しかった。
 小学校の教員は町や村の雇用者であり、その俸給の源泉は地方税である。農家の収入源のために地方税の滞納が続出した結果、教員の俸給が不払いになった所や、教員の減俸を決議した所も続出するありさまであった。」
(中村隆英著講談社学術文庫『昭和恐慌と経済政策』)

 日本史に残るクーデター未遂・2.26事件はこのような社会環境下で発生した。
 「娘の身売りに代表されるような農村の窮乏は当然全社会的な反響を呼び起こした。
 昭和6年の三月事件に始まる青年将校のクーデター参加も、農村出身の新兵を教育するうちに、その出身家庭の窮状を聞いてこれに同情し、またこのままでは後顧の憂いが大きすぎて強い軍隊はできぬという素朴な正義感に発するものが多かった。」(前掲書)

 このような酷いデフレの原因はアメリカ大恐慌の影響のほかに当時のわが国の経済政策に起因している。
 浜口首相・井上蔵相体制下で執られたデフレ政策である。
このデフレ政策とは、一言でいえば緊縮財政である。その骨子は
① 第一次世界大戦以来財政は赤字続きゆえ政府も企業も家計も収入に見合った支出にしなければならない。
② さらに金輸出を禁止しているため為替が低下しているので金解禁して為替を上げなければならないがそのための準備として政府は財政を緊縮し、国民は消費を節約しなければならない。
③ かかる準備をして金解禁すれば通貨も物価もうまく調節される。

 金解禁についてその正当性を理路整然と述べている

 「日本が外国から物を沢山買いますと、その支払のために金貨が外国に流れ出て国内の金が減り、金利が高くなり物価が下落します。従て輸入は減ります。
 其の結果は金が外国に出ることは止まり、場合によっては外国から金が入ってきます。
 斯ういうようにして通貨、物価の天然自然の調節が行われるのであります。」
(井上準之助著千倉書房版『国民経済の立て直しと金解禁』)

 浜口・井上内閣は1929年のアメリカの不況はやがて治まるだろう、そして緊縮財政を堅持すればいずれ景気も持ち直すと予想していた。
 だが予想に反しアメリカの不況は世界を巻き込む大恐慌へと発展し、不運にもわが国の緊縮財政と重なり未曾有のデフレ不況となった。
 井上蔵相は、政府も企業も国民も一致団結して節約すれば景気が良くなるだろうと信じた。緊縮財政によって経済を鍛えれば合理化が推進され景気が回復するという信念のもとに執られた政策である。
 世界大恐慌と緊縮財政、この重なりが昭和恐慌というまれに見る悲劇をもたらした。
 ではその結末は、善後策はいかに講じられたか。

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