多数決と民主主義は、7世紀初頭の日本に既にあった。聖徳太子が作ったとされる17条憲法がそれである。
この憲法には、日本独特の多数決と民主主義に関連する条文がある。
いかにも日本的な、第一条の”和を以って貴しと為す” という精神が全文の背景にある。
第十条には自分と異なる意見に耳を傾けよ諭し、第十七条には大事については判断を誤らないようみんなで相談して決めよ、とある。
日本では物事を決めるときは話し合いが最優先され誰か一人が決断して決めるということはまれである。
裏返せば決断の主体がいないため責任を負うものもいないということになる。
日本でもっとも独裁的な人物とされる織田信長とか大久保利通でさえ、物事を決める時には、部下から上申されものに承諾を与えるという形式をとったといわれる。
この点ヒットラーとかスターリン等西洋の独裁者とは異なる。彼らは一人で決断し自らの考えを一方的に命令した。
戦時中の出征兵士激励のために国旗に円環状に署名された寄せ書きがあるが、この慣習は遠く足利時代に一揆に用いられた傘連判状に似ていて、これに起源があるのかもいれない。
傘連判状は筆頭人がいないので誰が首謀者かわからないようにしたといわれる。
また何か物事を決めるときには『多数』できめこの傘連判状に署名した。
このような多数決方式は現代民主主義に似ている。
このため伝統的に日本人はこのような多数決によって物事をきめたので、日本には足利時代から既に民主主義であったともいえる。
だが、それは日本的民主主義ではあるが、西洋に起源をもつ近代民主主義とは異なる。
民主主義については既に本ブログで言及したが、多数決であればただちに民主主義であるとは限らない。
丸山真男教授は、民主主義は 『そこにある』 完成されたものではなく、絶えず育て守っていくべきもの、いわば民主主義は永久革命であると言った。
多数決原理が民主主義の絶対条件であるなどと理解したらそれは誤解である。
たとえば独裁者ヒットラーは正当な手続きで政権の座につき、多数決につぐ多数決を重ね独裁を揺るぎないものにし、ついには
多数決原理を利用し民主主義を圧殺してしまった。
これとは逆に多数決を否定したらどうなるか。
中世まで大国であったポーランドは議会の議決は多数決によらず全会一致でなければ議決できなかったため、議会が機能せず衰退していった。
多数決は民主主義の基礎ではあるが、いわば諸刃の剣で、民主主義を生かしもするし殺しもする。
戦後の日本は、アメリカ占領軍司令官のマッカーサーによって、『そこにある』 民主主義を与えられ後生大事にありがたく守り通してきた。
丸山真男教授が言うように 『そこにある』 民主主義は、本来の民主主義とは似て非なるものだ。
そこには近代民主主義で最も重要な 『作為の契機』 が欠如している。
自分たちでかちとったという契機が欠如している。
『作為の契機』 の基礎は契約だ。人が作ったものは人が自由に変えられる。
西洋の契約は近代以前はユダヤ教やキリスト教の 『神との契約』 であったものが近代になって『人間との契約』になった。
神との契約では人間は自由自在に変えることなどできない。だが人間との契約であれば、人間が作ったものは自由自在に変えることができる。
これこそ作為の契機であり近代民主主義はこの原則のうえに成り立っている。
近代法での責任はそれに対応する権限があってはじめて生じるものであり、これによって近代民主主義は成り立っている。
日本では、多数決原理にしても、この作為の契機が欠如しているため、多数決がもたらす弊害に思い至らない。ただ多数決に従えば民主主義であると単純に考えがちである。
このため多数決を妨げられると民主主義への妨害と考えてしまう。
責任問題にしても、与えられた権限をはるかに越えて無限責任を負わされる。また選挙時の公約は必ずしも厳格に守られない。有権者もそのことに寛容である。契約という概念が乏しいからに他ならない。
戦後70年経過したが、日本には未だに近代民主主義が根づいたとは言い難い。今回の安保関連法案採決の混乱はそれを物語っている。
2015年9月28日月曜日
2015年9月21日月曜日
民主主義と多数決 1
先週、安保関連法案が与党の多数で可決され集団的自衛権が行使可能となった。
採決をめぐって世論は真っ二つに割れた。新聞も産経、日経、読売は『成立』と報じ、毎日、東京、朝日は『強行』と報じた。
野党は、十分議論が尽くされないで多数決に頼った与党の横暴であると声高に叫ぶ。
これに対し与党は十分な時間をとって議論した、決める時期が来たので決めなければ与党の責任が果たせないと言う。
今回の採決は1960年5月の岸内閣による日米安保改定の採決の再来を想起させる。
1960年の採決は安保闘争といわれるほどの国民運動であった。
今回の採決を見る限り程度の差はあれ日本社会は当時と何も変わっていない。とりわけ多数決原理と民主主義の理解という点において。
与党は議論を尽くしたうえでの採決であり民主主義のルールに叶っている。
野党は議論は尽くされていないのであらゆる手段で阻止する。強行すれば民主主義のルール違反である、と。
一体どちらの言い分が正しいのか。この当否は多数決と民主主義の原点に立ち返って検証しなければならない。
その前に民主主義の旗手をもって任ずるアメリカはこれをどう考えているのだろうか。
日本のアメリカ大使館がホームページで公表しているアメリカ早分かり(About the USA)のなかで多数決と民主主義の関連について率直にのべている。
「民主主義の原則 多数決の原理と少数派の権利
一見すると、多数決の原理と、個人および少数派の権利の擁護とは、矛盾するように思えるかもしれない。しかし実際には、この二つの原則は、われわれの言う民主主義政府の基盤そのものを支える一対の柱なのである。
・多数決の原理は、政府を組織し、公共の課題に関する決断を下すための手段であり、抑圧への道ではない。
・民族的背景、宗教上の信念、地理的要因、所得水準といった要因で少数派である人でも、単に選挙や政治論争に敗れて少数派である人でも、基本的人権は保障され享受できる。
・少数派は、政府が自分たちの権利と独自性を擁護してくれることを確信する必要がある。
・民主主義国は、少数派には文化的独自性、社会的慣習、個人の良心、および宗教活動を維持する権利があり、それを保護することが、国の主要な責務のひとつであることを理解している。
・多数派の目に異様とはまでは映らなくても、奇妙に見える民族や文化集団を受容することは、どんな民主主義政府も直面しうる難しい課題のひとつである。
・少数派集団の意見や価値観の相違をどのように解決するかという課題に、ひとつの決まった答などあり得ない。自由な社会は、寛容、討論、譲歩という民主的過程を通じてのみ、多数決の原理と少数派の権利という一対の柱に基づく合意に達することができる。
採決をめぐって世論は真っ二つに割れた。新聞も産経、日経、読売は『成立』と報じ、毎日、東京、朝日は『強行』と報じた。
野党は、十分議論が尽くされないで多数決に頼った与党の横暴であると声高に叫ぶ。
これに対し与党は十分な時間をとって議論した、決める時期が来たので決めなければ与党の責任が果たせないと言う。
今回の採決は1960年5月の岸内閣による日米安保改定の採決の再来を想起させる。
1960年の採決は安保闘争といわれるほどの国民運動であった。
今回の採決を見る限り程度の差はあれ日本社会は当時と何も変わっていない。とりわけ多数決原理と民主主義の理解という点において。
与党は議論を尽くしたうえでの採決であり民主主義のルールに叶っている。
野党は議論は尽くされていないのであらゆる手段で阻止する。強行すれば民主主義のルール違反である、と。
一体どちらの言い分が正しいのか。この当否は多数決と民主主義の原点に立ち返って検証しなければならない。
その前に民主主義の旗手をもって任ずるアメリカはこれをどう考えているのだろうか。
アメリカが考える多数決と民主主義の関連と、日本が考えるもしくは実践してきたそれと同じなのかまたは異なるのか。
「民主主義の原則 多数決の原理と少数派の権利
一見すると、多数決の原理と、個人および少数派の権利の擁護とは、矛盾するように思えるかもしれない。しかし実際には、この二つの原則は、われわれの言う民主主義政府の基盤そのものを支える一対の柱なのである。
・多数決の原理は、政府を組織し、公共の課題に関する決断を下すための手段であり、抑圧への道ではない。
ひとりよがりで作った集団が他を抑圧する権利がないのと同様に、民主主義国においてさえも、多数派が、少数派や個人の基本的な権利と自由を取り上げることがあってはならない。
・民族的背景、宗教上の信念、地理的要因、所得水準といった要因で少数派である人でも、単に選挙や政治論争に敗れて少数派である人でも、基本的人権は保障され享受できる。
いかなる政府も、また公選・非公選を問わずいかなる多数派も、それを取り上げてはならない。
・少数派は、政府が自分たちの権利と独自性を擁護してくれることを確信する必要がある。
それが達成された時、その少数派集団は、自国の民主主義制度に参加し、貢献することができる。
民主主義政府が必ず保護しなければならない基本的人権には、言論と表現の自由、宗教と信仰の自由、法の下での正当な手続きと平等な保護、そして組織を結成し、発言し、異議を唱え、社会の公共生活に全面的に参加する自由などがある。
民主主義政府が必ず保護しなければならない基本的人権には、言論と表現の自由、宗教と信仰の自由、法の下での正当な手続きと平等な保護、そして組織を結成し、発言し、異議を唱え、社会の公共生活に全面的に参加する自由などがある。
・民主主義国は、少数派には文化的独自性、社会的慣習、個人の良心、および宗教活動を維持する権利があり、それを保護することが、国の主要な責務のひとつであることを理解している。
・多数派の目に異様とはまでは映らなくても、奇妙に見える民族や文化集団を受容することは、どんな民主主義政府も直面しうる難しい課題のひとつである。
しかし、民主主義国は、多様性が極めて大きな資産となり得ることを認識している。民主主義国は、こうした独自性や文化、価値観の違いを脅威と見なすのではなく、国を強くし豊かにするための試練と見なしている。
・少数派集団の意見や価値観の相違をどのように解決するかという課題に、ひとつの決まった答などあり得ない。自由な社会は、寛容、討論、譲歩という民主的過程を通じてのみ、多数決の原理と少数派の権利という一対の柱に基づく合意に達することができる。
そういう確信があるのみである。
- Bureau of International Information Programs "Principles of Democracy" -」
- Bureau of International Information Programs "Principles of Democracy" -」
次に日本人が考えもしくは実践してきた多数決と民主主義について見てみよう。
2015年9月14日月曜日
日本人と責任 3
約四半世紀前、昭和天皇が重篤の病気になられた時、国民はこぞって自粛し一切の慶賀やイベントを中止した。
そこには天皇の病気を心配するという本来の目的から逸脱し、ひたすら自粛するという外面的な問題だけが一人歩きした。
このため関連する仕事に従事する人は、商売上がったりとなった。
国民一丸となっての自粛ムードに突入したのは誰かが命令したのではなく日本に特有の”空気”がなせる仕業であった。
この現象は論理的に説明できないしその責任の所在もわからない。
上記の事例とはいささか異なるが、”空気”の圧力が特定の個人や集団に向かったならばそれは暴力的な力で彼らを打ちのめしてしまう。竜巻があたり一面を巻き上げるように。
その責任には限度がなく、無限責任となって彼らを苦しめる。
たとえば、2004年鳥インフルエンザ事件が発生し全国へ被害が拡大危惧される中、京都府の農場主がインフルエンザが疑われるにも拘らず府に報告せず鳥を出荷した。
この事実が匿名電話で判明し、メディアによってこれが拡散され、隠蔽を指示したとされる農場主の両親は、自殺し、農場は廃業となった。
この類のもっとも凄惨な事例の一つは”虎ノ門事件”であろう。
「12月27日午前10時15分、摂政殿下議会開院式へ行啓のため、虎の門外御通過中、一兇徒(日本人)、仕込杖銃を発射せしも、殿下には全く御安泰にあらせられ、そのまま議院に臨ませられ、滞りなく午後零時10分、御無事赤坂離宮に還啓あらせられる。供奉員一同また無事なり。凶漢は射撃と同時に、直ちに現場で捕縄されたり(大正12年12月27日付・東京日日新聞号外)」
(岩田礼著三一書房『女たちの虎ノ門事件 煉獄』)
摂政殿下とは、皇太子時代の昭和天皇である。この事件以降、犯人である難波大助の家族はもとより彼にかかわった人々に時と処を問わず容赦なく災禍が降りかかってくる。
家族への災禍のある日を作家の岩田礼氏は次のように描写している。
「突然、天井の上の藁屋根に、雹のようなものが突き刺さった。バサバサッ・・・ ドサドサッ・・・
同時に遠い畦の中から、破声が上がった。
”大助のオヤジは自決しろ!”
”難波一族の者は、この立野から出て行け!”
さきほどの罵声につづいて、村人たちが怒りの礫を投げつけているのだった。
一睡もできぬまま、夜が白々と明けた。
裏の井戸で釣瓶を操る音がした。納戸の戸を開けると、この冷えの中で、父が水垢離をとっていた。斎戒沐浴をすませた父は、きのうにつづいて祭壇に額ずいた。
天皇御一家と、曽祖父覃庵をはじめとする先祖の霊に、呪文のような言葉を唱えていた。
その『行』が終わると、父は小作の人に頭を下げて、家の補修を頼んだ。
なにをするのかと思ったら、七間もある屋敷の雨戸を全部閉め切り、その上を針金でガンジガラメに縛り上げた。
開いているのは、台所に通じる表と裏の勝手口だけだった。
安喜子(難波大助の妹)は自分の身体まで縛られた気がして、胸うちで怨言を言った。
”いくらなんでも、こんなにまでしなくてもいいのに・・・”
その金縛りの家の中で、安喜子は母のオクドさんに向かった。またも母に訴えた。
とうとう、こんな牢屋のような家になってしまいました - 」
(前掲書)
丸山真男は、ヨーロッパ文化千年にわたる『機軸』をなして来たキリスト教の精神的代用品をも兼ねるものに、『國體』という名でよばれた非宗教的宗教の魔術的な力が『大正デモクラシー』の波が最高潮に達した時代においても、おそるべき呪縛力を露わした事件として、この虎ノ門事件を挙げている。
そこでは臣民は無限責任を果される。
「かって東大で教鞭をとっていたE・レーデラーは、その著『日本=ヨーロッパ』のなかで在日中に見聞してショックを受けた二つの事件を語っている。
一つは大正12年末に起こった難波大助の摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)である。
彼がショックを受けたのは、この狂熱主義者の行為そのものよりも、むしろ『その後に来るもの』であった。
内閣は辞職し、警視総監から道すじの警固に当たった警官にいたる一連の『責任者』(とうていその凶行を防止し得る位置にいなかったことを著者は強調している)の系列が懲戒免官となっただけではない。
犯人の父はただちに衆議院議員の職を辞し、門前に竹矢来を張って一歩も戸外に出ず、郷里の全村はあげて正月の祝を廃して『喪』に入り、大助の卒業した小学校の校長ならびに彼のクラスを担任した訓導も、こうした不逞の徒をかって教育した責を負って職を辞したのである。
このような茫として果しない責任の負い方、それをむしろ当然とする無形の社会的圧力は、このドイツ人教授の眼には全く異様な光景として映ったようである。
もう一つ、彼があげているのは(おそらく大震災の時のことであろう)、『御真影』を燃えさかる炎の中から取り出そうとして多くの学校長が命を失ったことである。
『進歩的なサークルからはこのように危険な御真影は学校から遠ざけた方がよいという提議が起こった。
校長を焼死させるよりはむしろ写真を焼いた方がよいというようなことは全く問題にならなかった』とレーデラーは誌している。
(丸山真男著岩波新書『日本の思想』)
丸山真男はこのような無限責任のきびしい倫理は、巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包していると述べている。
権限と責任は近代社会のルールであるが、日本社会にこの原則が真に根付いたかは疑わしい。
いったん責任を負わされたときの被害はあまりにも大きいので誰もが責任を負いたがらない。
かくてどこにも責任をとろうとする人間がいない無責任社会が出現する。日本の戦争責任問題は最終的にはここに帰着する。
ドイツなど他国の戦争責任問題と比較を絶する。
そこには天皇の病気を心配するという本来の目的から逸脱し、ひたすら自粛するという外面的な問題だけが一人歩きした。
このため関連する仕事に従事する人は、商売上がったりとなった。
国民一丸となっての自粛ムードに突入したのは誰かが命令したのではなく日本に特有の”空気”がなせる仕業であった。
この現象は論理的に説明できないしその責任の所在もわからない。
上記の事例とはいささか異なるが、”空気”の圧力が特定の個人や集団に向かったならばそれは暴力的な力で彼らを打ちのめしてしまう。竜巻があたり一面を巻き上げるように。
その責任には限度がなく、無限責任となって彼らを苦しめる。
たとえば、2004年鳥インフルエンザ事件が発生し全国へ被害が拡大危惧される中、京都府の農場主がインフルエンザが疑われるにも拘らず府に報告せず鳥を出荷した。
この事実が匿名電話で判明し、メディアによってこれが拡散され、隠蔽を指示したとされる農場主の両親は、自殺し、農場は廃業となった。
この類のもっとも凄惨な事例の一つは”虎ノ門事件”であろう。
「12月27日午前10時15分、摂政殿下議会開院式へ行啓のため、虎の門外御通過中、一兇徒(日本人)、仕込杖銃を発射せしも、殿下には全く御安泰にあらせられ、そのまま議院に臨ませられ、滞りなく午後零時10分、御無事赤坂離宮に還啓あらせられる。供奉員一同また無事なり。凶漢は射撃と同時に、直ちに現場で捕縄されたり(大正12年12月27日付・東京日日新聞号外)」
(岩田礼著三一書房『女たちの虎ノ門事件 煉獄』)
摂政殿下とは、皇太子時代の昭和天皇である。この事件以降、犯人である難波大助の家族はもとより彼にかかわった人々に時と処を問わず容赦なく災禍が降りかかってくる。
家族への災禍のある日を作家の岩田礼氏は次のように描写している。
「突然、天井の上の藁屋根に、雹のようなものが突き刺さった。バサバサッ・・・ ドサドサッ・・・
同時に遠い畦の中から、破声が上がった。
”大助のオヤジは自決しろ!”
”難波一族の者は、この立野から出て行け!”
さきほどの罵声につづいて、村人たちが怒りの礫を投げつけているのだった。
一睡もできぬまま、夜が白々と明けた。
裏の井戸で釣瓶を操る音がした。納戸の戸を開けると、この冷えの中で、父が水垢離をとっていた。斎戒沐浴をすませた父は、きのうにつづいて祭壇に額ずいた。
天皇御一家と、曽祖父覃庵をはじめとする先祖の霊に、呪文のような言葉を唱えていた。
その『行』が終わると、父は小作の人に頭を下げて、家の補修を頼んだ。
なにをするのかと思ったら、七間もある屋敷の雨戸を全部閉め切り、その上を針金でガンジガラメに縛り上げた。
開いているのは、台所に通じる表と裏の勝手口だけだった。
安喜子(難波大助の妹)は自分の身体まで縛られた気がして、胸うちで怨言を言った。
”いくらなんでも、こんなにまでしなくてもいいのに・・・”
その金縛りの家の中で、安喜子は母のオクドさんに向かった。またも母に訴えた。
とうとう、こんな牢屋のような家になってしまいました - 」
(前掲書)
丸山真男は、ヨーロッパ文化千年にわたる『機軸』をなして来たキリスト教の精神的代用品をも兼ねるものに、『國體』という名でよばれた非宗教的宗教の魔術的な力が『大正デモクラシー』の波が最高潮に達した時代においても、おそるべき呪縛力を露わした事件として、この虎ノ門事件を挙げている。
そこでは臣民は無限責任を果される。
「かって東大で教鞭をとっていたE・レーデラーは、その著『日本=ヨーロッパ』のなかで在日中に見聞してショックを受けた二つの事件を語っている。
一つは大正12年末に起こった難波大助の摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)である。
彼がショックを受けたのは、この狂熱主義者の行為そのものよりも、むしろ『その後に来るもの』であった。
内閣は辞職し、警視総監から道すじの警固に当たった警官にいたる一連の『責任者』(とうていその凶行を防止し得る位置にいなかったことを著者は強調している)の系列が懲戒免官となっただけではない。
犯人の父はただちに衆議院議員の職を辞し、門前に竹矢来を張って一歩も戸外に出ず、郷里の全村はあげて正月の祝を廃して『喪』に入り、大助の卒業した小学校の校長ならびに彼のクラスを担任した訓導も、こうした不逞の徒をかって教育した責を負って職を辞したのである。
このような茫として果しない責任の負い方、それをむしろ当然とする無形の社会的圧力は、このドイツ人教授の眼には全く異様な光景として映ったようである。
もう一つ、彼があげているのは(おそらく大震災の時のことであろう)、『御真影』を燃えさかる炎の中から取り出そうとして多くの学校長が命を失ったことである。
『進歩的なサークルからはこのように危険な御真影は学校から遠ざけた方がよいという提議が起こった。
校長を焼死させるよりはむしろ写真を焼いた方がよいというようなことは全く問題にならなかった』とレーデラーは誌している。
(丸山真男著岩波新書『日本の思想』)
丸山真男はこのような無限責任のきびしい倫理は、巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包していると述べている。
権限と責任は近代社会のルールであるが、日本社会にこの原則が真に根付いたかは疑わしい。
いったん責任を負わされたときの被害はあまりにも大きいので誰もが責任を負いたがらない。
かくてどこにも責任をとろうとする人間がいない無責任社会が出現する。日本の戦争責任問題は最終的にはここに帰着する。
ドイツなど他国の戦争責任問題と比較を絶する。
2015年9月7日月曜日
日本人と責任 2
赤穂浪士の忠臣蔵は年末テレビの定番であり、今なお国民的人気番組である。
なぜこれほどまで人気があるのか。
このストーリーにはあだ討ちと侠気、それに日本人らしい責任のとり方とらせ方がある。これらが人々の共感をよぶのだろう。
喧嘩両成敗が天下の御法であるにも拘らず浅野内匠頭は切腹を命じられたが、吉良上野介には沙汰なし。
大石内蔵助以下47士は亡き主君のため覚悟の上幕府の裁定を実力で覆し吉良上野介を討った。
幕府の裁定を覆したからには本来は斬罪であるが破格の切腹になった。
この時代武士にとって斬罪と切腹は天と地ほどの開きがある。
幕府は自らの安寧のために本来の斬罪ではなく切腹にした。玉虫色の決着の原型の一つをここに見る思いがする。
この他にも日本人と責任の原型ともいえる例が江戸時代に数多く存在する。江戸時代に於いては徳川幕府と諸藩の存立が全てに優先した。このため責任は動機の如何にかかわらず結果責任が問われた。
現代では考えられないことであるが、藩主が事実上生殺与奪の権をもっていた江戸時代なればこその事件がある。
元禄13年(1700年) 会津藩の財政は苦しく藩士や庶民も困窮していた。
そこで藩主保科正容は秀才の誉れ高い丸八郎に打開策の立案を命じた。
「藩主直々の諮問に与った丸八郎は、張り切ってその対策を考え抜き、ついに『札金遣い之考』を立案して提出する。
『札金』とは、両・分・朱などの金高で表示された藩札のことである。
最初に藩札を発行したのは寛文元年(1661)に銀札を発行した福井藩だと言われている。
藩札は藩内での通貨不足を補うために発行されるものであったが、藩財政の窮乏を打開するために濫発されることもあり、インフレの危険性をはらんでいた(作道洋太郎『藩札』)
家老たちは丸八郎の提案を評議し、概ねその案を了承、藩主の裁可を得たうえで丸八郎を責任者にして札金の発行を開始することになった。
ところが、実際に11月15日から札金の発行を始めてみると、思いの外に混乱が生じた。
まず、銭の値段を始めとする諸物価が高騰し、さらに売り惜しみなどが横行して、武士も庶民も難渋した。
そこで、諸物価の引き下げや売り惜しみなどの禁止を法令で制定したが、いっこうに効果が現れない。
補助貨幣として銭札を発行したり、米を確保するために酒造停止などを命じたりしたが、これらも効果がない。
ついには偽札を作る者も現れ、これは露見して厳科に処せられたが、世間は不穏な空気に包まれた。
最初は丸八郎の政策を喜んでいた藩士や町人・農民も、困窮に陥るにつれて、丸八郎に憤りを感じるようになっていった。
藩当局はそのままにしておけなくなり、翌年11月朔日、丸八郎の提案を吟味の者に渡して検討させることにし、丸八郎には足軽を番人として付け置いた。
これは丸八郎の逃亡などを考慮してのことである。(中略)
吟味の者が提出した丸八郎の調査報告書は、家老から藩主に渡された。その内容は明らかではないが、次の藩主の裁可を見れば、その内容が丸八郎にとって著しく不利なものであったことが推測される。(中略)
”丸八郎は、最初から(藩札発行は)上の御為にもよく、藩士も領民もたいへん潤うようにたびたび言ってきたのに、かえって大いに御不益になり、藩主・領民ともたいへん痛む政策であって、その罪は軽くなく、不届き至極に思う。本来は成敗を命ずるべきであるが、(罪一等を減じて)切腹を命じる。” 」
(山本博文著光文社新書『切腹』)
何という結果責任だろう。
丸八郎自身には何の不正もなかった。手続きを踏んだ政策であり本来であれば責任を負わねばならないのはそれを承認した最終責任者の家老である筈である。
だが政策発案者に責任を取らせる。この類の責任の取らせ方は現代日本にも相通じるものがある。
エリートでないものにはどんな小さなミスでも規範が厳格に適用されるが、エリートで主流に立つ人には、他の人々には当たり前に適用される規範・規則が適用されない。
たとえば大きなミスを犯しても規範が厳格に適用されることはなく、しばらく謹慎すればミソギが済んだとみなして元に復帰する。
官僚の世界では特にこの傾向が顕著であり、その例は枚挙に暇がない。
今も昔も日本人はその根っこで何も変わっていない。
次稿で、日本人なら背筋が寒くなるような責任の重さについて考えてみたい。
なぜこれほどまで人気があるのか。
このストーリーにはあだ討ちと侠気、それに日本人らしい責任のとり方とらせ方がある。これらが人々の共感をよぶのだろう。
喧嘩両成敗が天下の御法であるにも拘らず浅野内匠頭は切腹を命じられたが、吉良上野介には沙汰なし。
大石内蔵助以下47士は亡き主君のため覚悟の上幕府の裁定を実力で覆し吉良上野介を討った。
幕府の裁定を覆したからには本来は斬罪であるが破格の切腹になった。
この時代武士にとって斬罪と切腹は天と地ほどの開きがある。
幕府は自らの安寧のために本来の斬罪ではなく切腹にした。玉虫色の決着の原型の一つをここに見る思いがする。
この他にも日本人と責任の原型ともいえる例が江戸時代に数多く存在する。江戸時代に於いては徳川幕府と諸藩の存立が全てに優先した。このため責任は動機の如何にかかわらず結果責任が問われた。
現代では考えられないことであるが、藩主が事実上生殺与奪の権をもっていた江戸時代なればこその事件がある。
元禄13年(1700年) 会津藩の財政は苦しく藩士や庶民も困窮していた。
そこで藩主保科正容は秀才の誉れ高い丸八郎に打開策の立案を命じた。
「藩主直々の諮問に与った丸八郎は、張り切ってその対策を考え抜き、ついに『札金遣い之考』を立案して提出する。
『札金』とは、両・分・朱などの金高で表示された藩札のことである。
最初に藩札を発行したのは寛文元年(1661)に銀札を発行した福井藩だと言われている。
藩札は藩内での通貨不足を補うために発行されるものであったが、藩財政の窮乏を打開するために濫発されることもあり、インフレの危険性をはらんでいた(作道洋太郎『藩札』)
家老たちは丸八郎の提案を評議し、概ねその案を了承、藩主の裁可を得たうえで丸八郎を責任者にして札金の発行を開始することになった。
ところが、実際に11月15日から札金の発行を始めてみると、思いの外に混乱が生じた。
まず、銭の値段を始めとする諸物価が高騰し、さらに売り惜しみなどが横行して、武士も庶民も難渋した。
そこで、諸物価の引き下げや売り惜しみなどの禁止を法令で制定したが、いっこうに効果が現れない。
補助貨幣として銭札を発行したり、米を確保するために酒造停止などを命じたりしたが、これらも効果がない。
ついには偽札を作る者も現れ、これは露見して厳科に処せられたが、世間は不穏な空気に包まれた。
最初は丸八郎の政策を喜んでいた藩士や町人・農民も、困窮に陥るにつれて、丸八郎に憤りを感じるようになっていった。
藩当局はそのままにしておけなくなり、翌年11月朔日、丸八郎の提案を吟味の者に渡して検討させることにし、丸八郎には足軽を番人として付け置いた。
これは丸八郎の逃亡などを考慮してのことである。(中略)
吟味の者が提出した丸八郎の調査報告書は、家老から藩主に渡された。その内容は明らかではないが、次の藩主の裁可を見れば、その内容が丸八郎にとって著しく不利なものであったことが推測される。(中略)
”丸八郎は、最初から(藩札発行は)上の御為にもよく、藩士も領民もたいへん潤うようにたびたび言ってきたのに、かえって大いに御不益になり、藩主・領民ともたいへん痛む政策であって、その罪は軽くなく、不届き至極に思う。本来は成敗を命ずるべきであるが、(罪一等を減じて)切腹を命じる。” 」
(山本博文著光文社新書『切腹』)
何という結果責任だろう。
丸八郎自身には何の不正もなかった。手続きを踏んだ政策であり本来であれば責任を負わねばならないのはそれを承認した最終責任者の家老である筈である。
だが政策発案者に責任を取らせる。この類の責任の取らせ方は現代日本にも相通じるものがある。
エリートでないものにはどんな小さなミスでも規範が厳格に適用されるが、エリートで主流に立つ人には、他の人々には当たり前に適用される規範・規則が適用されない。
たとえば大きなミスを犯しても規範が厳格に適用されることはなく、しばらく謹慎すればミソギが済んだとみなして元に復帰する。
官僚の世界では特にこの傾向が顕著であり、その例は枚挙に暇がない。
今も昔も日本人はその根っこで何も変わっていない。
次稿で、日本人なら背筋が寒くなるような責任の重さについて考えてみたい。