我々はおおにして目の前のことに心を奪われこの現実がずっと以前からそうであり、また将来とも永続するかのごとく錯覚に陥ってしまう。
中世の社会を支配したのはイスラム社会であり当時西欧キリスト教社会はほんの辺境の蛮族に過ぎず経済、文化、軍事などすべてにわたりイスラム社会が圧倒していたなどといっても俄かに信じがたい。
だがそれが事実であることは歴史が証明するところである。
イスラム教は唯一絶対なる神アッラーのもとに人間はすべて平等でありアッラーの教えを守れば楽園に入れる、そうでなければ地獄行きというように分かり易く魅力に満ちた宗教である。
それ故強制しなくても瞬く間に世界に拡散した。
イスラム教がムスリムに求めている六信のうちの一つ『定命』はこの世のことはすべてアッラーの思し召し次第で人間の自由意志はない。すべてアッラーが決め給う。キリスト教の予定説と全く同じ。
ところが、コーランではいたるところに善行を積め、さもなくば地獄へ行くぞ、と諭している。善行を積めば楽園へいけるとも。
すべてアッラーが決め給うといいながら、片や善行を積めと。矛盾しているように見えるが現世と来世を区分すればこの矛盾は解ける。
現世ではなにをしようとアッラーが決め給う運命から逃れられないが、来世では現世でアッラーの教えを守れば楽園へいけるし、守らなければ地獄行きとなる。仏教の因果応報と全く同じ。
このようにキリスト教の予定説のみとは異なりイスラム教は、現世は予定説、来世は因果律という二面で構成されている。
さらにイスラム教がキリスト教と決定的に異なるのは外面と内面である。
キリスト教は内面のみを重視するのに対しイスラム教は内面も外面も重視する。
外面にとらわれないキリスト教徒は近代化を成し遂げたが、内面外面一体化のイスラム教徒は近代化から取り残された。
その結果が今日の事態を招いている。
イスラム教徒が近代化から取り残されるのはその教義からして宿命的なものである。
イスラム教は近代化を悪とは見ていないまでもそれを積極的に取り入れることはしない。取り入れればそれは教義に悖ることになるからである。
イスラム社会が近代化を成し遂げるにはイスラム法が障碍となる。イスラム法より近代法を優先すればイスラム社会を否定することになる。イスラム社会は内面のみというわけにはいかない。
従ってイスラム社会の近代化はイスラム法という枠の範囲内での近代化ということになる。それでは西欧社会の近代化に並ぶことはできない。
かってギリシャ、ローマ文明を継承して中世の覇者となり、その文明を西欧キリスト教社会に伝承したイスラム社会がいまやその立場が逆転してしまった。
文明の逆転に止まらず異教徒の禁断の地メッカを擁するサウジアラビアにアメリカ軍が駐留するにいたってイスラム教徒の苛立ちは極点に達し、9・11同時多発テロの悲劇へとつながった。
次のコーランの一節はイスラム社会と西欧社会の和解が容易でないことを示している。
「汝らに戦いを挑む者があれば、アッラーの道において(『聖戦』すなわち宗教のための戦いの道において)堂々とこれを迎え撃つがよい。
だがこちらから不義をし掛けてはならぬぞ。アッラーは不義なす者どもをお好きにならぬ。
そのような者と出くわしたらどこでも戦え。そして彼らが汝らを追い出した場所から(今度は)こちらで向こうを追い出してしまえ。
もともと(彼らの引き起こした信仰上の)騒擾は殺人よりもっと悪質であったのだ。
だが(メッカの)聖殿の近くでは、向こうからそこで戦いをし掛けてこないかぎり決してこちらから戦いかけてはならぬ。向うからお前たちにしかけて来た時は、構わんから殺してしまえ。信仰なき者どもにはそれが相応の報いというもの。
しかし向うが止めたら(汝らも手を引け)。まことにアッラーは寛大で情深くおわします。
騒擾がすっかりなくなる時まで、宗教が全くアッラーの(宗教)ただ一条になる時まで、彼らを相手に戦い抜け。しかしもし向うが止めたなら、(汝らも)害意を棄てねばならぬぞ、悪心抜きがたき者どもだけは別として。」
(コーラン第2章186~189節)
イスラム社会が近代化するためにはイスラム教を棄てる他ないがそれは自らを否定することになる。近代化の遅れからかっての蛮族西欧キリスト教社会によって植民地化され虐げられた。
イスラム社会はこの矛盾、苛立ちに悩まされている。
キリスト教はマルチン・ルターが現れ宗教改革を成し遂げたがイスラム教はその教義から改革者の出現を望むべくもない。
イスラムがかっての栄光をこの地上で取り戻すのはいつの日か。
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