エマニュエル・トッドは、『帝国』の資質に必要な2つ目の基準として普遍主義を挙げている。
「帝国というものの本質的な強さの源泉の一つは、普遍主義という、活力の原理であると同時に安定性の原理でもあるもの、すなわち人間と諸民族を平等主義的に扱う能力である。
このような姿勢は、征服した民族や個人を中核部に統合することによって権力システムを連続して拡大して行くことを可能にする。
当初の民族的基盤は止揚される。システムと一体化する人間集団の規模は、被支配者が支配者の一員となることが認められるがゆえに、絶えず拡大を続ける。
服従した諸民族の心の中で、征服者の当初の暴力は寛大さへと変貌する。」
(エマニュエル・トッド著石崎晴己訳藤原書店『帝国以後』)
支配者が被支配者に、被支配者が支配者にいつでももなり得るという恰も民主主義体制のごとく、帝国もまた体制維持にはそのことを可能にする公平性・普遍性が不可欠であると言う。
「アメリカ合衆国それ自体における平等主義的・普遍主義的感情の後退である。その基本的帰結は、アメリカ合衆国が帝国というものに不可欠のイデオロギー手段を失ったということである。
人類と諸国民についての同質的把握を失ったアメリカは、あまりにも広大な多様な世界に君臨することはできない。
公正感という武器を、もはやアメリカは所有していない。
終戦直後ー1950年から1965年ーという時代はそれゆえ、アメリカの歴史の中で普遍主義の絶頂期というべきものであった。
当時の戦勝国アメリカの普遍主義は、ローマ帝国の普遍主義と同様に謙虚で寛大であった。
ローマ人はギリシャの哲学、数学、文学、芸術の優越を認めていた。ローマ貴族はやがてギリシャ化していった。
軍事的勝利者が多くの点で、被征服者の優れた文化に同化したわけである。
それにローマはオリエントの宗教のうちのいくつかに帰依し、やがてそのうちのただ一つに帰依するに至る。
アメリカ合衆国は本当に帝国の名に値した時代にあっては、外部の世界に対して知識欲と敬意を抱いていた。
世界のさまざまな社会の多様性を、政治学や人類学や文学や映画を通して共感をこめて観察し分析していた。
本物の普遍主義は世界中から最良のものを集めて貯えるものである。征服者の力の強さが文化の融合を可能にするのである。
アメリカ合衆国において経済・軍事力と知的・文化的寛容とが組み合わさっていたあの時代は、いまでははるか昔のことと思われる。
2000年の弱体化し生産的でなくなったアメリカは、寛容でもなくなった。専ら己のみが人間の理想を具現しており、いかなる経済的成功の秘訣をも手中にし、己のみが映画と考えられ得る映画を製作していると豪語する。
このような最近の社会的・文化的覇権への主張、このような自己陶酔的な拡大のプロセスは、アメリカの普遍主義と同時に、その現実の経済・軍事力も劇的に衰退して行く、その数多くある兆しの一つにすぎない。
世界を支配する力がないために、アメリカは世界が自律的に存在することを否定し、世界中の諸社会が多様であることを否定するのである。」
(前掲書)
このようにエマニュエル・トッドは、アメリカは「帝国」の資質に不可欠な、安定的なな貢納物の徴収システムと公平性・普遍性を欠いているという。
さらに、二つの危機がアメリカを襲っているともいう。
一つはアメリカの帝国としての存在理由である。
フランシス・フクヤマは民主主義と資本主義が最終的に勝利すればそれは「歴史の終わり」を意味し、かつ、マイケル・ドイルが言うように民主主義国家同士の戦争はあり得ないとすれば、民主主義を普及し戦争を抑止するという大義はなくなり、アメリカの存在理由もなくなる。
二つ目は、世界経済への依存である。
「1990年から2000年までの間に、アメリカの貿易赤字は、1000億ドルから4500億ドルに増加した。
その対外収支の均衡をとるために、アメリカはそれと同額の外国資本のフローを必要とする。
この第三千年紀開幕にあたって、アメリカ合衆国は自分の生産だけでは生きて行けなくなっていたのである。教育的・人口学的・民主主義的安定化の進行によって、世界がアメリカなしで生きられることを発見しつつあるその時に、アメリカは世界なしでは生きられないことに気付きつつある。」 (前掲書)
この二つの危機に直面しアメリカは習慣のなせる業で自由と民主主義の言辞を弄しているがその実 国民の統制の効かない寡頭制となってしまった。
世界の保安官たる任務を全うし己の存在を証明するためにとられた行動が、イラクなどの「弱者を撃つ」という挙であった。
自由と民主主義の旗手を任ずるアメリカが実質上、自ら民主主義国家であることを放棄してしまったのだ。
アメリカは『帝国』としての資質に欠けるだけでなく、存在理由が消滅し、世界経済もアメリカを必要としなくなってしまった。
かくてエマニュエル・トッドはアメリカの帝国としての日は数えられたり、それも2050年までと断言している。予断を持たず論をすすめたい。
2014年8月25日月曜日
2014年8月18日月曜日
衰退するアメリカ 2
フランスの歴史人口学・家族人類学者である、エマニュエル・トッドは、2002年に発表した「帝国以後」で、2050年までにアメリカの覇権が終わると予言しフランス、ドイツ等でベストセラーとなった。
彼は真の帝国に値する組織には常に2つの特徴があるという。
「・・・帝国は軍事的強制から生まれる。そしてその強制が、中心部を養う貢納物の徴収を可能にする。
・・・中心部は終いには、征服した民を通常の市民として扱うようになり、通常の市民を被征服民として扱うようになる。
権力の旺盛な活力は、普遍主義的平等主義の発達をもたらすが、その原因は万人の自由ではなく、万人の抑圧である。
この専制主義から生まれた普遍主義は、征服民族と被征服民族の間に本質的な差異が存在しなくなった政治的空間の中で、すべての臣民に対する責任へと発展していく。
この2つの判断基準に依拠するなら、直ちに以下のことが理解できるようになる。
すなわち、最初は征服者にして略奪者であったが、次いで普遍主義的で、道路、水道、法と平和という恵みを分配したローマは、まさに帝国という名に値していたのに対して、アテネは挫折した一形態にすぎなかった、ということである。(中略)
この2つの基準に照らしてみると、アメリカは著しい不足振りを呈する。
それを検討するなら、2050年前後にはアメリカ帝国は存在しないだろうと、確実に予言することができる。
2つの型の『帝国』の資質がアメリカには特に欠けている。
その1つは、全世界の現在の搾取水準を維持するには、その軍事的・経済的強制力は不十分である、ということ、2つ目は、そのイデオロギー上の普遍主義は衰退しつつあり、平和と繁栄を保証すると同時に搾取するため、人々と諸国民を平等主義的に扱うことができなくなっている、という点である。」
(エマニュエル・トッド著石崎晴己訳藤原書店『帝国以後』)
アメリカの軍事能力について、海空の制圧力には疑いの余地はないが、地上戦については、帝国にふさわしい能力を備えていない、帝国を維持するには領土の占領と、慣習的な意味での帝国的空間の形成が不可欠であるからという。
第2次大戦 欧州戦線でのアメリカ軍の戦いについて厳しい評価を下している。
「イギリスの歴史家で軍事問題の専門家であるリデル・ハートが見事に見抜いたように、あらゆる段階でアメリカ軍部隊の行動様式は官僚的で緩慢で、投入された経済的・人的資源の圧倒的な優位を考慮すれば、効率性に劣るものだった。
ある程度の犠牲精神が要求される作戦は、それが可能である時には必ず同盟国の徴募兵部隊に任された。
イタリアのモオテ・カッシーノではポーランド人部隊とフランス人部隊、ノルマンディではファレーズで敵軍を分断するのにポーランド人部隊という具合である。
作戦毎に部族の長と契約して金を支払うという、現在アフガニスタンでアメリカがやっている『流儀』は、それゆえ昔ながらの方法の、さらに悪質化した現代版にすぎない。
この面ではアメリカはもはやローマにもアテネにも似ておらず、ガリア人傭兵やバレアレス島の投石兵を雇っていたカルタゴに似ている。
B29はさしずめ象の代わりということになろうが、生憎ハンニバルの役割を果たすものはだれもいない。」(前掲書)
第2次大戦時、アメリカは、たしかに欧州戦線でも太平洋戦線でも地上接近戦に強いとはいえなかったかもしれない。
しかし非効率とはいえ圧倒的な物量と技術でカバーした。
戦後もこの方式は変わらない。これを可能にしているのが全世界からアメリカへの貢納物である。
アメリカへの貢納物とはなにか。それは基軸通貨ドルを利用したシステムである。
「アメリカ合衆国の『景気の回復』の度に、世界各地からの製品の輸入は膨れ上がる。
貿易収支の赤字は増大し、毎年毎年、マイナスの新記録を打ち立てる。ところがわれわれは満足する、というよりむしり、安堵する。
これはまさに逆様にしたラ・フォンテーヌの世界で、蟻がキリギリスに食べ物を受け取ってくれと頼んでいるようなものなのである。 こうなるとアメリカ合衆国に対するわれわれの態度は、国家が景気刺激策を打ち出すのを待望する、全世界的なケインズ的国家の臣民の態度に他ならない。
現にケインズの見解では、需要を下支えするために消費するというのは、国家の機能の一つである。
その『一般理論』の末尾で彼は、ピラミッドを建設するフォアラについてちょっとした優しい言葉をかけている。
彼は浪費を行うが、それによって経済活動の調整を行っているわけである。アメリカはわれわれのピラミッド、全世界の労働によって維持されるピラミッドに他ならない。
このケインズ的国家としてのアメリカというヴィジョンと、グローバリゼーションの政治的解釈とは完全に適合するということ、これは確認せざるを得ないのである。
アメリカ合衆国の貿易収支の赤字は、このモデルで言うなら、帝国が徴収する課徴金と定義されなければならない。
アメリカ社会は経済的観点からすると、世界全体にとって国家となった、ということになる。」(前掲書)
非生産的で金融に支えられたアメリカ。これがエマニュエル・トッドがいうアメリカの『中心部を養う貢納物の徴収』システムであるが、この信頼性には疑問があるという。
「アメリカはローマのような軍事力を持っていない。その世界に対する権力は、周縁部の朝貢国の指導階級の同意なしには成り立たない。
徴収率が一定限度を越え、資産運用の安全性の欠如が一定水準を越えると、彼らにとって帝国への加盟はもしかしたら妥当な選択ではなくなってしまう。
われわれの自発的隷属は、アメリカ合衆国がわれわれを公平に扱うのでなければ、さらに的確に言うなら、われわれをますます中心的支配社会の成員とみなすようになるーこれこそあらゆる帝国の力学の原理そのものであるーのでなければ、維持され得ないであろう。」(前掲書)
このシステムは公平性、普遍主義が生かされてはじめて機能するが、アメリカはこれから遠ざかっているという。
彼は真の帝国に値する組織には常に2つの特徴があるという。
「・・・帝国は軍事的強制から生まれる。そしてその強制が、中心部を養う貢納物の徴収を可能にする。
・・・中心部は終いには、征服した民を通常の市民として扱うようになり、通常の市民を被征服民として扱うようになる。
権力の旺盛な活力は、普遍主義的平等主義の発達をもたらすが、その原因は万人の自由ではなく、万人の抑圧である。
この専制主義から生まれた普遍主義は、征服民族と被征服民族の間に本質的な差異が存在しなくなった政治的空間の中で、すべての臣民に対する責任へと発展していく。
この2つの判断基準に依拠するなら、直ちに以下のことが理解できるようになる。
すなわち、最初は征服者にして略奪者であったが、次いで普遍主義的で、道路、水道、法と平和という恵みを分配したローマは、まさに帝国という名に値していたのに対して、アテネは挫折した一形態にすぎなかった、ということである。(中略)
この2つの基準に照らしてみると、アメリカは著しい不足振りを呈する。
それを検討するなら、2050年前後にはアメリカ帝国は存在しないだろうと、確実に予言することができる。
2つの型の『帝国』の資質がアメリカには特に欠けている。
その1つは、全世界の現在の搾取水準を維持するには、その軍事的・経済的強制力は不十分である、ということ、2つ目は、そのイデオロギー上の普遍主義は衰退しつつあり、平和と繁栄を保証すると同時に搾取するため、人々と諸国民を平等主義的に扱うことができなくなっている、という点である。」
(エマニュエル・トッド著石崎晴己訳藤原書店『帝国以後』)
アメリカの軍事能力について、海空の制圧力には疑いの余地はないが、地上戦については、帝国にふさわしい能力を備えていない、帝国を維持するには領土の占領と、慣習的な意味での帝国的空間の形成が不可欠であるからという。
第2次大戦 欧州戦線でのアメリカ軍の戦いについて厳しい評価を下している。
「イギリスの歴史家で軍事問題の専門家であるリデル・ハートが見事に見抜いたように、あらゆる段階でアメリカ軍部隊の行動様式は官僚的で緩慢で、投入された経済的・人的資源の圧倒的な優位を考慮すれば、効率性に劣るものだった。
ある程度の犠牲精神が要求される作戦は、それが可能である時には必ず同盟国の徴募兵部隊に任された。
イタリアのモオテ・カッシーノではポーランド人部隊とフランス人部隊、ノルマンディではファレーズで敵軍を分断するのにポーランド人部隊という具合である。
作戦毎に部族の長と契約して金を支払うという、現在アフガニスタンでアメリカがやっている『流儀』は、それゆえ昔ながらの方法の、さらに悪質化した現代版にすぎない。
この面ではアメリカはもはやローマにもアテネにも似ておらず、ガリア人傭兵やバレアレス島の投石兵を雇っていたカルタゴに似ている。
B29はさしずめ象の代わりということになろうが、生憎ハンニバルの役割を果たすものはだれもいない。」(前掲書)
第2次大戦時、アメリカは、たしかに欧州戦線でも太平洋戦線でも地上接近戦に強いとはいえなかったかもしれない。
しかし非効率とはいえ圧倒的な物量と技術でカバーした。
戦後もこの方式は変わらない。これを可能にしているのが全世界からアメリカへの貢納物である。
アメリカへの貢納物とはなにか。それは基軸通貨ドルを利用したシステムである。
「アメリカ合衆国の『景気の回復』の度に、世界各地からの製品の輸入は膨れ上がる。
貿易収支の赤字は増大し、毎年毎年、マイナスの新記録を打ち立てる。ところがわれわれは満足する、というよりむしり、安堵する。
これはまさに逆様にしたラ・フォンテーヌの世界で、蟻がキリギリスに食べ物を受け取ってくれと頼んでいるようなものなのである。 こうなるとアメリカ合衆国に対するわれわれの態度は、国家が景気刺激策を打ち出すのを待望する、全世界的なケインズ的国家の臣民の態度に他ならない。
現にケインズの見解では、需要を下支えするために消費するというのは、国家の機能の一つである。
その『一般理論』の末尾で彼は、ピラミッドを建設するフォアラについてちょっとした優しい言葉をかけている。
彼は浪費を行うが、それによって経済活動の調整を行っているわけである。アメリカはわれわれのピラミッド、全世界の労働によって維持されるピラミッドに他ならない。
このケインズ的国家としてのアメリカというヴィジョンと、グローバリゼーションの政治的解釈とは完全に適合するということ、これは確認せざるを得ないのである。
アメリカ合衆国の貿易収支の赤字は、このモデルで言うなら、帝国が徴収する課徴金と定義されなければならない。
アメリカ社会は経済的観点からすると、世界全体にとって国家となった、ということになる。」(前掲書)
非生産的で金融に支えられたアメリカ。これがエマニュエル・トッドがいうアメリカの『中心部を養う貢納物の徴収』システムであるが、この信頼性には疑問があるという。
「アメリカはローマのような軍事力を持っていない。その世界に対する権力は、周縁部の朝貢国の指導階級の同意なしには成り立たない。
徴収率が一定限度を越え、資産運用の安全性の欠如が一定水準を越えると、彼らにとって帝国への加盟はもしかしたら妥当な選択ではなくなってしまう。
われわれの自発的隷属は、アメリカ合衆国がわれわれを公平に扱うのでなければ、さらに的確に言うなら、われわれをますます中心的支配社会の成員とみなすようになるーこれこそあらゆる帝国の力学の原理そのものであるーのでなければ、維持され得ないであろう。」(前掲書)
このシステムは公平性、普遍主義が生かされてはじめて機能するが、アメリカはこれから遠ざかっているという。
2014年8月11日月曜日
衰退するアメリカ 1
1897年6月22日は大英帝国ビクトリア女王の在位60周年記念日であった。
「八歳のアーノルド・J・トインビーが叔父に肩車された状態で、パレードを食い入るように見つめていた。
のちに有名な歴史家となったトインビーは、当日の壮大な式典を思い返し、こう感想を記している。
『まるで太陽が天界の真ん中で静止したかのようだった。ヨシュアの命令で静止したときと同様に・・・。
わたしは当時の雰囲気をおぼえている。
”おお、われわれが今いるのは世界のてっぺんだ。永遠にここにとどまり続けるべく、われわれは頂点まで登りつめてきた。
もちろん、歴史というものの存在は知っている。しかし、あの歴史という不愉快なものは、ほかの連中の身に降りかかってくるものだ。われわれは愉快にも歴史の枠外にいる”』」
(ファリード・ザカリア著楡井浩一訳徳間書店『アメリカ後の世界』)
八歳時のトインビーに限らず、天界の光輝く太陽は、その場にいる人にとってはいつまでも没することがない錯覚にとらわれるにちがいない。
この記念日からわずか2年後大英帝国はボーア戦争にてこずり帝国の威信に翳りが見え始めた。
アメリカのブッシュ政権が仕掛けたイラク戦争は国際社会から批判を浴び、アメリカの威信を傷つけたが大英帝国のボーア戦争と重ね合わせに見える。
覇権国はいづれ衰亡の時を迎える。
「研究者と評論家の多くは、新興諸国の躍進を目のあたりにして、アメリカの全盛期は過ぎたという結論を下してきた。
インテル創業者のアンディ・グローブは次のように断じている。 『アメリカはヨーロッパ衰退の二の舞を演じつつある。最悪なのは、誰もそれに気づこうとしないことだ。タイタニック号が全速力で氷山に向かっているというのに、誰もが現実から目を背け、仲間うちの自画自賛に明け暮れている』」(前掲書)
先見の明あるからこそ成功したであろうインテル創業者の指摘にはそれなりに重みがあると思うが、アンディ・グローブの指摘などには目もくれず、アメリカはいつまでも天界の太陽であるかのごとくふるまっている。
国際社会も、世界中のどこかで紛争があればアメリカが解決してくれるのではないかと密かに期待している。
途上国のみならず先進国も、アメリカに注目している。
リーマンショックは全世界に多大な影響を及ぼし爾来アメリカの一挙手一投足から目が離せないでいる。
世界はアメリカの覇権が揺るがないことを暗々裏に期待しているかのようだ。
米ドルは世界中どこでもハードカレンシーだし、米国軍事予算は一国で世界の約50%を占める。
覇権国アメリカとともに同時代を生きるわれわれは、トインビーならずとも、アメリカの覇権は永遠に続くという錯覚に陥りかねない。 ましてアメリカの衰亡などと言われてもにわかに信じられない。
長きにわたりアメリカの威信を眼前で見せつけられてきたのだから。
が、現実の世界では、アメリカが介入する紛争で綻びが見えはじめ、アメリカの威信にも翳りが見え始めている。
アメリカの最盛期は過ぎ、密かに衰亡への途を辿っていると見る識者は多い。
いずれやってくるであろう覇権国アメリカの脱落は何時なのか、またどのような方法でやってくるのか。これに対し日本の対処は。 識者の著作を手がかりに考えてみたい。
「八歳のアーノルド・J・トインビーが叔父に肩車された状態で、パレードを食い入るように見つめていた。
のちに有名な歴史家となったトインビーは、当日の壮大な式典を思い返し、こう感想を記している。
『まるで太陽が天界の真ん中で静止したかのようだった。ヨシュアの命令で静止したときと同様に・・・。
わたしは当時の雰囲気をおぼえている。
”おお、われわれが今いるのは世界のてっぺんだ。永遠にここにとどまり続けるべく、われわれは頂点まで登りつめてきた。
もちろん、歴史というものの存在は知っている。しかし、あの歴史という不愉快なものは、ほかの連中の身に降りかかってくるものだ。われわれは愉快にも歴史の枠外にいる”』」
(ファリード・ザカリア著楡井浩一訳徳間書店『アメリカ後の世界』)
八歳時のトインビーに限らず、天界の光輝く太陽は、その場にいる人にとってはいつまでも没することがない錯覚にとらわれるにちがいない。
この記念日からわずか2年後大英帝国はボーア戦争にてこずり帝国の威信に翳りが見え始めた。
アメリカのブッシュ政権が仕掛けたイラク戦争は国際社会から批判を浴び、アメリカの威信を傷つけたが大英帝国のボーア戦争と重ね合わせに見える。
覇権国はいづれ衰亡の時を迎える。
「研究者と評論家の多くは、新興諸国の躍進を目のあたりにして、アメリカの全盛期は過ぎたという結論を下してきた。
インテル創業者のアンディ・グローブは次のように断じている。 『アメリカはヨーロッパ衰退の二の舞を演じつつある。最悪なのは、誰もそれに気づこうとしないことだ。タイタニック号が全速力で氷山に向かっているというのに、誰もが現実から目を背け、仲間うちの自画自賛に明け暮れている』」(前掲書)
先見の明あるからこそ成功したであろうインテル創業者の指摘にはそれなりに重みがあると思うが、アンディ・グローブの指摘などには目もくれず、アメリカはいつまでも天界の太陽であるかのごとくふるまっている。
国際社会も、世界中のどこかで紛争があればアメリカが解決してくれるのではないかと密かに期待している。
途上国のみならず先進国も、アメリカに注目している。
リーマンショックは全世界に多大な影響を及ぼし爾来アメリカの一挙手一投足から目が離せないでいる。
世界はアメリカの覇権が揺るがないことを暗々裏に期待しているかのようだ。
米ドルは世界中どこでもハードカレンシーだし、米国軍事予算は一国で世界の約50%を占める。
覇権国アメリカとともに同時代を生きるわれわれは、トインビーならずとも、アメリカの覇権は永遠に続くという錯覚に陥りかねない。 ましてアメリカの衰亡などと言われてもにわかに信じられない。
長きにわたりアメリカの威信を眼前で見せつけられてきたのだから。
が、現実の世界では、アメリカが介入する紛争で綻びが見えはじめ、アメリカの威信にも翳りが見え始めている。
アメリカの最盛期は過ぎ、密かに衰亡への途を辿っていると見る識者は多い。
いずれやってくるであろう覇権国アメリカの脱落は何時なのか、またどのような方法でやってくるのか。これに対し日本の対処は。 識者の著作を手がかりに考えてみたい。
2014年8月4日月曜日
移民政策 6
元法務官僚の坂中英徳氏は、日本はもともと雑種文化であり、ルーツも北方、西方および南方渡来の寄せ集めであり、大量の移民受入れも何ら違和感はないと言い、産業競争力会議の竹中平蔵議員は、アメリカでもオーストラリアでも成長戦略を議論する場合には、まず最初に移民の問題を議論すると言った。
これらの発言を聞けば、日本もアメリカのように、移民によって世界の英知を集めれば、人口減対策にもなるし、国の発展に寄与すると思う誘惑にかられるかもしれない。
しかしこれほど主体性を欠いた議論はない。
坂中氏のいうルーツとはいつのことか、先史時代と現代とを比較してどれほどの意味があるのか。人間のルーツは猿であったと言ったほうがまだ罪は少ない。前者はいかにも関連性があるかのような錯覚を起こすからである。
産業競争力会議の竹中平蔵議員がアメリカやオーストラリアの例を持ち出しているが、これらの国は最初から移民で成り立っており、これらの国とわが国を同列で比較するのは乱暴すぎる。
主体性、それも国家としての主体性を欠いた議論ほど国の将来を危うくするものはない。
外国人労働者受入れは、移民政策につながる 「国のありかた」 を変えかねない政策である以上「国のありかた」 という原点に立ち返ってこの政策は検討さるべきである。
幕末までの日本は、中国から朝鮮半島経由で中華文明が入ってきた。明治維新以降は、西欧文明が容赦なく入ってきた。入ってきたがそれを丸呑みすることはなく取捨選択あるいは拒絶し、独自のものに作り上げた。
作り変えたものの中には、例えば律令制がある。法家の思想による中国の律令は中国皇帝の冊封を受けなければ許されなかった。日本は冊封を受けておらず独自に律令体系を作った。
拒絶したものには、中国の、宦官、纏足、科挙、食人の習慣がある。
キリスト教は仏教ほど布教に成功していない。厳格な一神教が日本の『古層』に馴染めなかったのだろう。が、キリスト教的禁欲主義から生まれた資本主義の精神は受け入れた。
マックス・ウエーバーは、労働は救済であり資本主義精神の真髄は目的合理性であると言っている。
主神自ら繭を育てて働くような日本の土壌にあっていたからであろう。
菅原道真は和魂漢才、佐久間像山は和魂洋才といったがいずれも日本流の外国文化の受け入れ方である。
日本思想史を深く研究した丸山真男教授は、わが国のかたちを次のように論じている。
「ここでは、記紀神話の冒頭の叙述から抽出した発想様式を、かりに歴史意識の『古層』と呼び、そのいくつかのーこれまた平凡なー基底範疇をひろってゆくが、それは歴史にかんする、われわれの祖先の文字通り『最古』の考えを指すわけではむろんない。 そうした『最古』なるものはどの分野でもそもそも検出不能であるが、とりわけ『書かれた歴史』を素材にするこの稿では、一層無意味である。
それどころか、ここでの『論証』は一種の循環論法になることを承知で論がすすめられていることを、あらかじめ断っておきたい。 というのは、右にいう『古層』は、直接には開闢神話の叙述あるいはその用字法の発想から汲みとられているが、同時に、その後長く日本の歴史叙述なり、歴史的出来事へのアプローチの仕方なりの基底に、ひそかに、もしくは声高にひびきつづけてきた、執拗な持続低音(basso ostinato)を聴きわけ、そこから逆に上流へ、つまり古代へとその軌跡を辿ることによって導き出されたものだからである。
こういう仕方が有効かどうかは大方の批判に俟つほかないが、少なくともそれを可能にさせる基礎には、われわれの 『くに』 が領域・民族・言語・水稲生産様式およびそれと結びついた聚落と祭儀の形態などの点で、世界の『文明国』のなかで比較すればまったく例外的といえるほどの等質性を、遅くも後期古墳時代から千数百年にわたって引き続き保持して来た、というあの重たい歴史的現実が横たわっている。」
(丸山真男著ちくま学芸文庫『忠誠と反逆』の 歴史意識の『古層』から)
難解な文であるが、日本という 『くに』 の本質を的確についていると思う。日本文明は、少なくとも千数百年その基礎の部分では変わっていない。独自文明という意味では、アメリカの政治学者ハンチントンもその著作「文明の衝突」で日本文明を世界七大文明の一つに採り上げている。
日本は様々なものを受け入れてきた。あるものはそのまま取り入れ。あるものは修正して取り入れ。あるものは拒絶した。
その判断の基準は、日本の『古層』にあるという。丸山教授は、この『古層』に働きかける変化について次のように言う。
「漢意(からごころ)・仏意(ほとけごころ)・洋意(えびすごころ)に由来する永遠像に触発されるとき、それとの摩擦やきしみを通じて、こうした『古層』は、歴史的因果の認識や変動の力学を発育させる格好の土壌となった。(中略)
もしかすると、われわれの歴史意識を特徴づける『変化の持続』は、その側面においても、現代日本を世界の最先進国に位置づける要因になっているかもしれない。」(前掲書)
日本は千数百年来等質性を保持して来た。
これこそ稀有な一国一文明の根幹である。中華文明と西洋文明が時を隔て怒涛のごとく押し寄せてきたが、それらは丸山教授がいう日本人の『古層』の意識にを刺激をあたえたが取って代わられるようなことはついになかった。
移民から成り立ち世界の覇権国になったアメリカ、移民政策が曲がり角にきているEU諸国、中でもドイツのメルケル首相は移民政策は失敗であったと公言している。
この両者の事例から我々が学ぶことがあるとすれが、論をまたず後者であろう。
これらの発言を聞けば、日本もアメリカのように、移民によって世界の英知を集めれば、人口減対策にもなるし、国の発展に寄与すると思う誘惑にかられるかもしれない。
しかしこれほど主体性を欠いた議論はない。
坂中氏のいうルーツとはいつのことか、先史時代と現代とを比較してどれほどの意味があるのか。人間のルーツは猿であったと言ったほうがまだ罪は少ない。前者はいかにも関連性があるかのような錯覚を起こすからである。
産業競争力会議の竹中平蔵議員がアメリカやオーストラリアの例を持ち出しているが、これらの国は最初から移民で成り立っており、これらの国とわが国を同列で比較するのは乱暴すぎる。
主体性、それも国家としての主体性を欠いた議論ほど国の将来を危うくするものはない。
外国人労働者受入れは、移民政策につながる 「国のありかた」 を変えかねない政策である以上「国のありかた」 という原点に立ち返ってこの政策は検討さるべきである。
幕末までの日本は、中国から朝鮮半島経由で中華文明が入ってきた。明治維新以降は、西欧文明が容赦なく入ってきた。入ってきたがそれを丸呑みすることはなく取捨選択あるいは拒絶し、独自のものに作り上げた。
作り変えたものの中には、例えば律令制がある。法家の思想による中国の律令は中国皇帝の冊封を受けなければ許されなかった。日本は冊封を受けておらず独自に律令体系を作った。
拒絶したものには、中国の、宦官、纏足、科挙、食人の習慣がある。
キリスト教は仏教ほど布教に成功していない。厳格な一神教が日本の『古層』に馴染めなかったのだろう。が、キリスト教的禁欲主義から生まれた資本主義の精神は受け入れた。
マックス・ウエーバーは、労働は救済であり資本主義精神の真髄は目的合理性であると言っている。
主神自ら繭を育てて働くような日本の土壌にあっていたからであろう。
菅原道真は和魂漢才、佐久間像山は和魂洋才といったがいずれも日本流の外国文化の受け入れ方である。
日本思想史を深く研究した丸山真男教授は、わが国のかたちを次のように論じている。
「ここでは、記紀神話の冒頭の叙述から抽出した発想様式を、かりに歴史意識の『古層』と呼び、そのいくつかのーこれまた平凡なー基底範疇をひろってゆくが、それは歴史にかんする、われわれの祖先の文字通り『最古』の考えを指すわけではむろんない。 そうした『最古』なるものはどの分野でもそもそも検出不能であるが、とりわけ『書かれた歴史』を素材にするこの稿では、一層無意味である。
それどころか、ここでの『論証』は一種の循環論法になることを承知で論がすすめられていることを、あらかじめ断っておきたい。 というのは、右にいう『古層』は、直接には開闢神話の叙述あるいはその用字法の発想から汲みとられているが、同時に、その後長く日本の歴史叙述なり、歴史的出来事へのアプローチの仕方なりの基底に、ひそかに、もしくは声高にひびきつづけてきた、執拗な持続低音(basso ostinato)を聴きわけ、そこから逆に上流へ、つまり古代へとその軌跡を辿ることによって導き出されたものだからである。
こういう仕方が有効かどうかは大方の批判に俟つほかないが、少なくともそれを可能にさせる基礎には、われわれの 『くに』 が領域・民族・言語・水稲生産様式およびそれと結びついた聚落と祭儀の形態などの点で、世界の『文明国』のなかで比較すればまったく例外的といえるほどの等質性を、遅くも後期古墳時代から千数百年にわたって引き続き保持して来た、というあの重たい歴史的現実が横たわっている。」
(丸山真男著ちくま学芸文庫『忠誠と反逆』の 歴史意識の『古層』から)
難解な文であるが、日本という 『くに』 の本質を的確についていると思う。日本文明は、少なくとも千数百年その基礎の部分では変わっていない。独自文明という意味では、アメリカの政治学者ハンチントンもその著作「文明の衝突」で日本文明を世界七大文明の一つに採り上げている。
日本は様々なものを受け入れてきた。あるものはそのまま取り入れ。あるものは修正して取り入れ。あるものは拒絶した。
その判断の基準は、日本の『古層』にあるという。丸山教授は、この『古層』に働きかける変化について次のように言う。
「漢意(からごころ)・仏意(ほとけごころ)・洋意(えびすごころ)に由来する永遠像に触発されるとき、それとの摩擦やきしみを通じて、こうした『古層』は、歴史的因果の認識や変動の力学を発育させる格好の土壌となった。(中略)
もしかすると、われわれの歴史意識を特徴づける『変化の持続』は、その側面においても、現代日本を世界の最先進国に位置づける要因になっているかもしれない。」(前掲書)
日本は千数百年来等質性を保持して来た。
これこそ稀有な一国一文明の根幹である。中華文明と西洋文明が時を隔て怒涛のごとく押し寄せてきたが、それらは丸山教授がいう日本人の『古層』の意識にを刺激をあたえたが取って代わられるようなことはついになかった。
移民から成り立ち世界の覇権国になったアメリカ、移民政策が曲がり角にきているEU諸国、中でもドイツのメルケル首相は移民政策は失敗であったと公言している。
この両者の事例から我々が学ぶことがあるとすれが、論をまたず後者であろう。