2013年10月21日月曜日

民主主義考 5

 日本は平和で、外国からの脅威は多少あるもののアメリカと同盟を結んでいる限りまず安全だろう。
 政治家は少々頼りなくとも、日本には優秀な官僚がいる。治安もよく失業者も外国に比べたら少ない。何より安定した民主主義国である。
 このように考える人に対して、”日本の民主主義は名ばかりで、外国の脅威にさらされ国自体も不安定である” などと言おうものなら、バカも休み休み言えと罵声を浴びせかけられるだろう。
 このことについて、小室直樹博士の著述を交え以下検証していきたい。

 近代デモクラシーの大前提は「約束を守る」ことであるが、残念ながら日本の政治では守られているとはいい難い。
 遠くは、自社さ連立政権、近くは、民主党政権がその典型である。
 選挙時の公約が守られるどころか、公約とは真逆のことを実行している。
 日本においては、選挙の公約は、取り扱いが融通無碍。政治家は、情勢が変われば、公約にこだわらなくともよいとでも考えているようだ。国民もそのことに寛容である。
 が、これほど民主主義の前提を無視したものはない。
欧米では、選挙時の公約は、なにがなんでも守ろうとするし、守れなければ自ら辞任するか、さもなくば辞任に追い込まれる。
 19世紀英国で、サー・ロバート・ピール内閣の穀物法廃止を公約違反だとして、同じ保守党のディズレーリが追求し、辞任にまで追い込んだ。
 これ以降、英国民には、政治家の公約は厳正に守られるべきものという考えが刷り込まれた。

 近代デモクラシーの前提は「約束を守る」ことであるが、根本的条件は「三権分立の機能」であると、小室直樹博士はいう。

 「議会主義デモクラシーが機能するための最大の条件は何か。
第一には、国民の代表によって議会が形成されること。
第二に議会における討論によって国策が決定されること。
そして第三に議会にして最大の条件は、”国会が立法の機能を失っていない”ということ。
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 日本の三権は官僚に簒奪されてしまった。三権分立のないデモクラシーはあり得ない。
 今の日本は、デモクラシーを止めて役人クラシーの国に成り果てた。
 ”国会は、国権の最高機関”(憲法41条)とは名のみであって、実は、官僚の傀儡である。
 デモクラシー(リベラル・デモクラシー)であるかないかを判断する上で、憲法(の条文)があるかないかは、余り関係ない。
 英国憲法は十八世紀の半ば頃に成立したと言われ、世界中の憲法の手本になっている。その英国憲法に明文はない。又明文化された憲法がデモクラシーを謳っていても、その憲法に実効性がなければ、その政治はデモクラシーとは言えない。
 憲法は改正されたと解釈されなければならない。
現在の日本はどうか。角栄後、デモクラシーは死んだ。憲法は改正されたと解釈されるべきである。」(ビジネス社小室直樹著 日本いまだ近代国家に非ず)

 これを少しく敷衍しよう。
まず、条件第二の議会における討論によって国策が決定されること。
 これは国会法第七八条「各議院は、国政に携わる議員に自由討論の機会を与えるため、少なくとも、二週間に一回その会議を開くことを要する。」 
 このように自由討論の場が法律で定められているにも拘わらず、この条文は実益なしとし発効八年後の昭和三十年に削除された。

 「自由討論こそ議会政治の生命であるのに、今や、そんなものは薬にしたくもない。
 日本の議会は、自由討論とは無縁の衆生となった。官僚の書いた原稿の棒読みの光景ばかりが、余りにも屡々テレビなどで見せつけられ、周知なこととなったものだから、国民もいつしか呆れ果てるのも忘れ、政治家は役人の木偶だと諦めてしまった。
 しかも、国会の機能喪失は自由討論の廃止に始まると記す史家も居ない。これ又、特筆すべきことであろう。」(同上)

 次に、条件第三の国会が立法の機能を失っていないこと。
 法律を作るのは議員であって、官僚はその法律に基づいて運営する。
 これが本来の姿であるが、日本では議員立法は殆どないに等しい。法律を作成するのは、専ら官僚の手に委ねられている。
 官僚にとって、国会議員が法案作成能力に欠けていることは歓迎すべきこと。
 法律に基づいて国を運営することもひとつの権力だが、法律を作るということはもっと大きな権力であり、この手に入れた権力を官僚がみすみす手放す筈がなく、うがった見方をすれば、国会議員にはいまのまま法案作成能力なしの状態でいてほしい。
 このような有様では、とても国会が立法機能を果しているとはいい難い。

 かかる状況を鑑みて、小室直樹博士は、日本には、議会主義デモクラシーはなく、司法も役人に簒奪されていると、(同上)書で縷説している。
 かくて日本の憲法は実質上改正され、デモクラシー国家とは名ばかりとなった。

 ここで改めて、マックス・ウエーバの政治学の大定理 ”最良の官僚は、最悪の政治家である”を考えてみたい。

 小室直樹博士はいう
 「官僚に問われるのは、所与の状況への適応能力である。固定した状況への適応能力である。
 官僚は、この能力を発揮するようにのみ条件付けられている。
良い官僚であればあるほど、この条件付けは徹底したものとなる。
 そうすれば、どういうことになるか。
官僚、特に良い官僚は、条件は所与のもの、固定して動かないものであると思い込む(意識においても無意識においても)ようになる。
 このように条件反射するようになる。これ以外には条件反射出来ないようになってしまう。習い性と成る(書経)のである。
 斯かる官僚にとって、状況が変化するなどということは、あり得べからざることである。
 不変の状況下では泰然自若であった官僚も、忽ち動転して、周章狼狽して策の出るところを知らない。
 この時どうする。此処が政治家(君主)の出番なのである。
政治家(君主)こそ、変化する状況への適応能力を発揮しなければならない。運命を制御しなければならないのである。
 これぞ政治家の本領、此処にこそ政治家の存在価値がある。」(同上)

 近代国家にとって官僚制なしで統治することは出来ない。官僚制は不可欠だ。
 官僚にとっては法律が全てであり、これを遵守する番人でもある。
 過去の慣例に反することなど官僚の世界では掟破りである。
法と慣例、これを厳格に守れば守るほど優秀な官僚ということになる。
 官僚に新しい事態とか未経験の領域に対応せよなどというのは、”木に縁りて魚を求む”ようなものだ。
 平穏無事、不変の状況下では、官僚に、実質上、三権を簒奪されても致命的な打撃とはならない。
 しかしながら一旦事が起き、動乱の時勢が来れば直ちに国家の死活にかかわる。
 先の大戦では、軍事官僚が、マックス・ウエーバの ”最良の官僚は、最悪の政治家である”という政治学の定理を破り、国家の三権を簒奪した。
 それによってもたらされた悲劇は記憶に新しい。
そして今また同じく、官僚が政治学の定理を破り、国家の三権を実質上簒奪している。
 とても安定した民主主義国家とは言えない。
この国は、もはや過去の苦い経験を生かすことができなくなってしまったのだろうか。
 一見平穏なこういう時こそ、古今東西の社会科学を跋渉した小室直樹博士の識見を拳々服膺したい。

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