「資本主義にしても、民主主義にしても、その根っこを掘っていけば、かならずキリスト教に突き当たる。
キリスト教の"神”があって初めて、人間は平等だという観念が生まれたのだし、また労働こそが救済になるという考えがなければ、資本主義は生まれてこなかった。
それだけでも日本人にとって、いろいろ考えさせられるわけですが、実はこれ以外にも大きな問題があるのです。
それは契約という概念です。この単語は、民主主義にとっても資本主義にとっても欠かすことのできないものなのですが、これもまた聖書から生まれた考えなのです。
はたして日本人は民主主義、資本主義を理解し、体得しているのか。そのゆゆしい問題を考えるうえで、契約は避けて通ることのできない問題です。」 (集英社「日本人のための憲法原論」)
小室直樹博士は、このように民主主義の成り立ちについて述べ、キリスト教徒でもない日本人がはたして真に民主主義を理解しているのか疑問を投げかけている。
そして同博士は、キリスト教と契約について次のように述べている。
「旧約聖書とは要するに、神様との契約を破ったら、どんなひどう目に遭うかという、その実例が ”これでもかこれでもか”と書いてある本なのです。
したがって旧約聖書の教えというのは、”こんな目に遭いたくなければ、神様との契約を守りなさい”という、ただそれだけなのです。
・・・・・この神様との契約をのちに改訂したのが、キリスト教の創始者であるイエスです。・・・・・
イエスは十字架にかかることで、神様との契約を改訂して新しい宗教、つまりキリスト教を打ち立てます。
それにともなって、新しい聖典が作られた。それが新約聖書です。”新約”とは、新しい契約という意味です。
したがって、旧約聖書を聖典にするユダヤ教も”契約の宗教”ですが、キリスト教もまた”契約の宗教”。
契約の内容は異なりますが、ともに契約がその中心にあるというわけです」(同上)
同博士は、民主主義の根っこにあるキリスト教の由来から説明し、近代デモクラシーの大前提が「契約を守る」ことであるという。
神との契約は、神が一方的に人間に与えるものであり、人間同士の契約は、両当事者の合意によって成立するという違いがあるが、「契約は絶対である」という点でなんら異なることはない。
そしてこの「契約は絶対であり、契約は守らなければならない」というエートスは欧米人に深く根付いているという。
「たしかに現代では欧米人も昔ほど信仰熱心ではありません。日曜日ごとに教会に行く人は少なくなりました。
しかし彼らのエートス、行動原理が完全に宗教離れしているかといえば、それは違います。
彼らが先祖から受け継いできたエートスを作ったのは、他ならぬキリスト教であり、聖書です。
彼ら自身が意識するしないは別として、聖書は今でも彼らのエートスの中に生きているのです」
(同上)
翻って日本はどうか、近代デモクラシーの大前提である「契約を守る」ということについての日本人のエートスはどうか
例えば、我々は商談でどのような会話を交わすか
商談が重要であればあるほど、一席もうけられる。
そこではゴルフ、釣り、その他趣味 世間話等に商談の殆どの時間が費やされる。
そして商談の最後に
「あの件をよろしく」
と当事者の一方がいえば、相手が
「わかった、俺を信用してくれ」 とか「悪いようにはしないから」
でケリがつく。
これで約束が成立、もしくは実質上の契約成立である。
このようなやりとりを、日本人は男らしくかっこいいと思う。
こういう席で、細かい契約のことなど持ちだしたら、水くさいとか野暮と思われかえって商談がうまくいかなくなる。
このようなことは、日本人の間だけに通じることで、欧米人に通じる筈もない。
欧米人にとって、これは約束でもなんでもないし、まして契約などである筈もない。
欧米人にとって契約とは、言葉によって記された約束である。
もっとも近年国際化が進み欧米相手のビジネスでは、日本人も契約の概念にシビアになったが、日常生活一般では旧来の約束とか腹芸が、まだまだ巾をきかせている。
ことは民主主義の根幹にかかわることであり、欧米と日本の習慣の違いなどで済まされる問題ではない。
単なる習慣の違いなどと思っていることに大きな落とし穴がある。
にも拘わらず日本人はこの近代デモクラシーの大前提である「約束を守る」ことの重大さに気付いていない。
次稿で、民主主義とは名ばかりの現代日本の真の姿と、それによってもたらされている災難を小室直樹博士に炙り出してもらい問題の所在を明らかにしたい。
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